読書感想文『LISTEN』
きっかけ
Youtubeで COTEN の深井龍之介氏と監訳者の篠田真貴子氏がこの著書の書評をしていることをきっかけに存在を知った。
インタビューをすることに興味があったので、いつかは読んでみようとお気に入りリストに入れていた。
その後、期せずして会社の先輩からこの本の紹介を受け、それに私がシンクロニシティ的なものを感じて、興奮して返信したところ、この本を頂いたというのが僕と本のジャーニーである。
ちなみに、本にはBOOK-OFFの¥980のシールが貼られたままである。
気づき
確かに、あるなぁと自分の経験から共感できた事柄。
誰かの行動の理由を聞いてみたときに、ルールとか道徳を盾に話されて、その人自身の本当の意見みたいなものが見えづらい、という場面がたまにあるが、その時の違和感の正体がわかった気がした。
人間から語られる理由というのは、自分を正当化したり、自分を守るためにも用いられ、自身にとって都合の悪い理由は必ずしも語られない、ということを覚えておこう。
それがそのままリサーチの結果として受け取られて、分析され、実装されていった場合、生活者が本当に求めているものでは無くなってしまう可能性が秘められていることに留意したい。
とはいっても、どうやって都合の悪い本音の理由を聴けばいいのだろうか。
例えば、
・攻撃する意図がないことを伝える
・聞き手からまず先に都合の悪い理由を開示する
・直接話される言葉以外から、それを感じ取る
こんな感じの対応が必要なのではないか。
これはなるほどなぁ、と思った。
同じ話題で笑い合えているとき、小さなしあわせを感じたりするが、その元にあるのは、繋がっている感覚なのかもしれない。
緊張した場面では、ユーモアを言いにくくなる。
それは自分と他者の繋がりが弱くなって、繋がりとは関係のない結論などが求められていたりするからなのではないか、と考えた。
ユーモアは相手の関係性、場の空気感、文脈に影響されて、その時にウケるものが変わっていく印象がある。
常に変化していくイメージ。
だとすれば、常に相手の感じていることをキャッチして、それを言葉にすることでユーモアのようなものは作れるのではないか、と思った。
これはライティングの技術として使えそうな発見である。
彼女は彼女の母が犬が好きだと言った。
彼女は”私の母は犬が好きだ”と言った。
後者の方が、直接自分が聞いたような感覚に近くなる、という話しである。
なぜなのだろう。
前者は ”彼女” という三人称を使っていることからも、第三者が述べているような客観性を含んだような文章になっている。
前者は ”私” という一人称を使っていることから、主観的な文章になっている。
実際に人と話している場面を考えると、当然ながら人は ”私” という一人称表現を使う。
そこで自分のことを ”彼女” と、三人称的に扱うのは明らかに違和感のあるコミュニケーションになるだろう。
つまり、”私” という一人称表現は、実際に直接人に語りかける際に使われることから、直接聞いたように感じられるのではないか、と考察した。
仲介や伝言をする際は、”私” という表現を使うことで、そこには居ない第三者の存在をより感じることができ、良い対話をもたらせることができそうだ。
やること
本音の理由を導くために、自分側から開示する。
最初に出てきた理由だけを鵜呑みにせず、それを覆しても良い対話の雰囲気を作る。
繋がりたい相手がキャッチできるユーモアを用意する。
話を伝える場面では、”私” という直接話法を積極的に使ってみる。
こう考えてみると ”聴く” という行為は、非常に能動的なものだということを実感させられる。
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