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名選手、名監督にあらず!?

「名選手、名監督にあらず」という表現は、「すべての名選手は名監督ではない(=になることができない)」という意味を持っています。
しかし、野村克也や落合博満のような例もあり、この表現は全くの誤りではありません。より現実に即した解釈では、「名選手は、たいてい名監督にならない」と言えるでしょう。

名選手と名監督の違い

この表現が意味を持つのは、名選手が名監督になりにくい理由を考えるきっかけを提供するからです。
例えば、イビチャ・オシムは、「選手と監督は別のものであり、いい選手が監督になる時には、自分がいい選手であったことを忘れるべきだ」と述べています。
これは、過去の選手経験を引きずらずに新たな視点でコーチングに臨むことが重要だという意味です。

小出義雄の見解
高橋尚子を育てた小出義雄も、「名選手、名監督にあらず」に賛同し、一流選手は自分のやり方を他の選手にも適用しようとする傾向があると指摘しています。
彼は「人間の体は一人ひとり違う」と述べ、選手個々の特性を無視してはうまくいかないと強調しています。選手としての成功経験を他の選手にそのまま当てはめようとするのは、教育学者の苦野一徳が言う「一般化のワナ」に陥ることだとしています。

野村克也の反論
一方で、名選手であり名監督でもある野村克也は、名選手だからといって名監督になれないわけではないと主張します。
彼は、名選手が名監督になれないのは、人間として一流でなかったからだと指摘します。つまり、選手としてのよさとコーチとしてのよさは異なる資質能力に依存していると述べています。

コーチの現役時代の成績
多くの人はコーチの手腕を測る際に、現役時代の成績を気にしがちですが、現役時代の成績とコーチングの良し悪しは必ずしも一致しません。
実際、現役時代に高い競技成績を残していなくても、優れたコーチは多数存在します。

結論

全体として、プレーヤーとコーチでは異なる資質能力によってその良し悪しが決まります。
「名選手、名監督にあらず」は、選手としての経験を超えて新たな視点でコーチングに臨む必要性を示す言葉として理解するのが適切でしょう。

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