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ブァナナ #KUKUMU

『美味しいくだもの、採れたてあり〼』

印刷会社の人事部で働くサラリーマン、井伊直史は金曜日の夜に飲み屋街へ行くことを唯一の楽しみとしている。職場と家の間にある駅の飲み屋街で、路地に相応しくない看板が目に入り、井伊は立ち止まった。

半年前につぶれた肉バルが、バーに改装されていたらしい。スタンド看板の裏側には、手書きで簡単にメニューが書かれている。ビールは300円、今日のカクテルが450円~、ミックスナッツは320円と、安月給にも嬉しい価格帯である。

一見ぼったくりバーなのではないかと疑ったが、「BAR Cucumber」という店名と、ジョッキを持ったキュウリのキャラクターが井伊の警戒心を緩めた。

看板の矢印が指す階段を下ると、ドアの前に開店祝いの花が飾られていた。ひまわりやガーベラなど、黄色やオレンジの花で統一されており、送り主からの札が立てられている。

『祝開店 アルミ缶の上にあるミカン研究会より』

『美味しいくだもの』というのはミカンのことなのかもしれない。

格子戸を開けると、薄暗い店内にピアノのBGM。カウンター席が5つ、テーブル席が2つ、壁にはモノクロの果物の写真がいくつか飾られている。酒瓶の数も多く、メニューの価格とは裏腹になかなか洒落た店だった。

少し他のバーと違うところを挙げるとすれば、マスターと思しき小柄な老人が赤のアロハシャツを着ていることぐらいか。細い毛がカールしている白い髪と綺麗に整えた白い口髭、銀フレームの小さいメガネ、丸くて大きい鼻は、どこかサンタクロースを彷彿とさせる。

「いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ」

よく冷えたおしぼりが手渡され、井伊は顔の汗を拭った。

手始めに注文したビールが、背の高いゴブレットに注がれて出てくる。1週間の疲れが、ビールの泡と共に弾けて消えていく。井伊の生活には、毎晩のビールが欠かせない。

「ここはいつ頃オープンしたんですか?」

「一昨日ですよ。昨日はお休みを頂いてたので、今日が営業2日目なんです」

お通しのポテトサラダを小皿に盛りながら、老人は答えた。

「じゃあ、木曜が定休日?」

「いいえ、うちは奇数日営業です」

井伊は、飲食店の営業について詳しくないが、珍しい形態だということはわかった。

「それで成り立つんですか? ドリンクもすごく安いし……」

「お店は副業ですからねぇ」

老人は本業は果物の品種改良を研究する育種家だった。サクランボとバナナがメインの研究対象で、今までに数々の新種を生み出したらしい。定年を越えて研究所を離れた今は、フリーの育種家として研究を続けているという。

自信のある品種だけを、繋がりのある農家に渡しているようだ。品種の登録や命名など、新種を発見した後の手続きの方が面倒で、老人しか知らない品種がこの世にはたくさんある。人知れず新しい果物がこの世に誕生していることを、井伊は初めて知った。

「なるほど。だからあの看板にも」

「それこそ腐るほどありますから」

老人は照れくさそうに言った。

ほんの1、2杯だけのつもりで入店した井伊だったが、「山崎」「竹鶴」「余市」をはじめとする国産ウイスキーの数々にすっかり呑兵衛心を掴まれ、いつの間にやら2時間も居座っていた。育種家の昔話をつまみに、手元のロックはもう4杯目である。

「そういえばマスター、肝心の果物がメニューに書かれてないじゃない。マスターはすごい人なんだからさ、生の果物を使ったカクテルとかもいっぱい出して果物バーみたいに売っていけばいいじゃないの。きっと女の子とか喜ぶと思うよ?」

「その日にどの果物が収穫できるかわからないものですから、決まった価格が書けないんですよ。『値段は時価』なんて、お高く止まった店だと思われたくなくてね」

夜の時間が暇だからと、趣味で始めた店である。価格の安さ故、客にぼったくりを疑われるなんぞ老人は考えてもいなかった。

「今日はどんな果物があるの?」

「パイナップル、スターフルーツ、スイカが一律800円です」

酔いも背中を押して、いつもならお金をださない果物にもつい財布の紐がゆるむ。飲み会をラーメンで締めたい中年男性も、今日ばかりはフルーツを食べる気満々で何を頼むか考えていた。

「そうだなぁ。マスターが作った品種もあるの?」

「この中にはありませんね」

「せっかくだから、他ではお目にかかれないような果物が見たいんだけど」

「うーん……偶然の産物があるといえばあるんですが……」

あからさまに言いよどんだ老人に、井伊は好奇心を抑えることができなかった。対して、ここまで興味を持たれるとは思わなかった老人は困った顔で、冷蔵庫をちらりと見た。

「いいからいいから! とにかく珍しいやつがあるなら持ってきてよ!」

「私も試食ができてないので、味は保証できませんよ?」

ゆっくり屈んでカウンターの下にある冷蔵庫を開くと、老人は野球ボールくらいの大きさの白い玉を取り出した。両手に乗せ、不安そうな面持ちで井伊にそれを見せる。

「なにこれ? 桃?」

「突然変異の……バナナです」

黄色でも無ければ細長くもないそれは、表面に緑色のかすり傷のようなものが付いている。

「いやいやいや、どうみてもバナナではないでしょう」

「どうぞ触ってみてください」

見た目より、はるかに軽かった。皮の感触はバナナのようで、指先に力を入れたら実が潰れてしまいそうだ。かすかに、ミルクを感じる甘い匂いがする。

「アイスクリームバナナという品種があるんですがね、その木のコブみたいに、ぽこっと育っていたんです。もうバナナの研究をして20年以上が経ちますが、こんなものは初めてですよ」

もともと小さくて太い品種ではあるが、それにしては丸すぎる。熟して黒くなるならまだしも、日を増すごとに白くなっていくバナナの子どもを、老人は不思議に思いながら観察し、この朝にようやく収穫したのだった。

「何か特別な育て方でもしたの?」

「強いていうなら、ファの音を聞かせたことでしょうか」

「ファ?」

「ドレミファのファです」

老人は、なぜ聴き返されたのかわからない様子で、それとなく答えた。

「クラシック音楽なんかを聴かせるとよく育つってのは、素人でもなんとなく知ってるけど……」

薄ら笑いの井伊に、老人は説明を続ける。

老人は研究所にあるバナナのビニールハウスが7つ並んでいるのを見て、それぞれのハウスでド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シの音階を、バナナに聴かせてみることを思いついた。ハウスにスピーカーを置き、水やりをするタイミングで電子音を流す。

「たくさんの木があるというのに、ファを聴かせた木のうちの1つだけに実ったんですよ」

「他の音を聴かせたバナナはどうなった?」

「何の変哲もない、普通のアイスクリームバナナが育ちました」

老人が小さなナイフで皮に入れた。バナナのようにペロンと皮がめくれて、バナナの皮のように黄色い実が露わになる。

「皮と実が逆になってるの?」

くし切りにされた謎の果物が白い皿に並べられると、その鮮やかな色が余計に映えた。種は無く、切り口は柿にも似ている。熟しているのかどうか、見ただけではさっぱりわからなかった。

「突然変異で、色素が上手く作れない植物が生まれることはあるんですがね……。本当に、こんなものは私も見たことがないんです」

老人は腕を組んで、皿をじっと見つめた。

「改めてお伝えします。味の保証はできませんが、それでも構いませんか?」

ここまで見せられて食べない訳にいかない。井伊は、黄色の実を指先でつまんでみた。柔らかくて瑞々しい。触れた感じはバナナと違う。老人もほぼ同時に、小さく切ったひとかけらをフォークで刺して食べた。

「こりゃ美味い!」

見た目もバナナには見えないが、味も全く違う。ザクロのような酸味のある果汁が口の中で溢れた。デザートのつもりで食べたが、随分と酒に合う果物じゃないか。井伊は、残っていたウイスキーを一気に飲み干した。

「気に入っていただけたようで良かっ(ピッキュン)」

なんの音か。

ふたくち目を食べようとしていた井伊がすぐさま顔をあげて老人を見ると、彼は目を見開いて、口元を手で覆っていた。

「失礼しまし(ピッキュン)」

「え」

老人の胸の当たりが微かに動く。見た目とそぐわない、アニメキャラのようなしゃっくりに井伊は笑いを堪えた。つり上がる口角を抑えようと口をギュッと結んだその時、井伊もまた胸元が突き上げられる嫌な感覚に襲われた。

「ピッキュン」

どういうことか、老人がしていたしゃっくりと同じ音が井伊の喉からも鳴った。なぜか2人とも、このふざけたしゃっくりが止まらない。せめて音だけでも押し殺そうとしても、全く無意味だった。

「もしかし(ピッキュン)て、この果物が(ピッキュン)原因なんじゃ……」

息を止めたり、水を飲んだり、舌を引っ張ったり、レモンをかじったり、ネットで書かれている止め方を2人で片っ端から試した。

もう一度食べれば元に戻るのではないかと試してみるも、しゃっくりはますます酷くなるばかり。会話もきれぎれ、2人してピッキュンピッキュンとやっているうちに井伊は酒どころじゃなくなって、心地良かった酔いもどこかへ消えてしまった。今はもうただひたすら、アルコールで意識がぼんやりとしているだけだ。

「今日は(ピッキュン)も(ピッキュン)う帰るよ。飲みす(ピッキュン)ぎただけ(ピッキュン)かもしれな(ピッキュン)い」

「申し(ピッキュン)訳あ(ピッキュン)りま(ピッキュン)せん」

老人は何度も頭を下げたが、謝ったってしゃっくりは止まらない。階段を上る最中も、背後からおかしなしゃっくりが聞こえてきて、その音の大きさを井伊は初めて認識した。

帰り道の電車でもピッキュンとやっていると、井伊の周りにいた乗客は嘲笑の視線を向け、彼から距離を取った。電車のドア付近にある手すりにつかまりながら、どうにか音を抑えようとするも最初の「ピ」で勝手に口が開いてしまう。数分の出来事ではあったが、井伊は苦痛でたまらなかった。

***

ベッドに入った時には深夜の1時を過ぎていたが、まともに眠ることもできないまま気付けば外は明るくなっていた。翌朝、ドラッグストアの開店と同時にしゃっくりを止める漢方薬を買った。薬を飲んだ1秒後にあの音が出た。やはりしゃっくりは止まらない。

昨夜の老人は今頃しゃっくりが止まっているのだろうか。いっそのこと病院に行った方が良いだろうか。こんな珍妙な鳴き声の男に彼女なんてできるはずない。俺はしゃっくりのせいで、一生独身になるんだろうか。これからどうなってしまうのだろうか。

酔いに任せて得体の知れない物を食べた井伊は、深く深く反省していた。

「あぁ、も(ピッキュン)う!」

お手上げだ。休業日の昼間だが、原因はあの果物に違いないのだ。あれを育てた老人になんとかしてもらおうじゃないか。街中の人々から視線を集めながら、井伊は再び店へ向かった。

***

「お客様! 来ていただけて良かった!」

どうやら老人のしゃっくりは止まっている。井伊を見ると、奥から慌ててバナナを持ってきた。小ぶりではあるが、馴染みのある黄色のバナナだ。

「昨日召し上がられたものと、同じ木に身を付けていたバナナを食べたらしゃっくりが止まったんです。どうぞ食べてみてください」

味わう余裕もなく、井伊は急いでバナナを飲み込んだ。

井伊は、身体を押さえつけるように手を胸に当てる。老人は、そんな彼をただ見つめることしかできない。しばらくの沈黙。エアコンが稼働する音だけが店内に響いた。

「止まった……?」

井伊は鼻から大きく息を吸い、そっと口から吐き出した。

「……止まった!」

「いやはや、ご迷惑をおかけいたしました。」

「でもなんで……?」

「あの果物には、横隔膜を活発にさせる成分が含まれているようです。その代わり、ファの音を聴かせた他のバナナには抑制させる成分が。本当に不思議なこともあるものですねぇ」

「じゃあ、あの変な音も果物が原因ですか?」

「どうなんでしょう。次にしゃっくりが出た時じゃないと、元に戻っているかわかりません」

***

不思議なことは続くもので、それから彼らがしゃっくりをする時はいつだって「ピッキュン」のまま、もう元に戻らなかった。

そしてそのまま、新種の果物「ブァナナ」は幻となった。どれだけバナナの木にファの音を聴かせても、1つも実らないのである。

しかも、なぜしゃっくりの仕方まで変わってしまうのかを解明できないまま、老人が残りを腐らせてしまった。わかっていることは、おかしなしゃっくりの止め方だけだ。

しゃっくり予防で酒の量が減った井伊は、以前よりちょっとだけ痩せたんだとか。

文:よしザわ るな
編集:栗田真希
イラスト:渡辺 凜々子

食べるマガジン『KUKUMU』の今月のテーマは、「サマーフルーツ」です。4人のライターによるそれぞれの記事をお楽しみください。毎週水曜日の夜に更新予定です。『KUKUMU』について、詳しくは下記のnoteをどうぞ。また、わたしたちのマガジンを将来 zine としてまとめたいと思っています。そのため、下記のnoteよりサポートしていただけるとうれしいです。

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