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君のサバカレー #KUKUMU

21歳の秋、初めて人の顔面をグーで殴った。

付き合って1年3ヵ月と11日目の夜、佑介の入浴中、彼の携帯に「アヤ」からハートがいっぱいのLINEがきた。言い逃れのできない浮気である。なぜなら、過去にも佑介は「アヤ」と浮気していたから。再犯だ。

「佑介、ねぇ」

風呂の扉を開けて通知画面を突き出すと、彼は慌てて携帯を奪った。

「あー……いや、これはそういうんじゃなくて」

長い前髪を伝って水滴が落ちる。全裸男は、目を泳がしながらいつもより早口になって言い訳を続けている。数日前に向こうから大事な相談があったとか、本当に何もしてないんだとか。知らねーよ。死んでくれ。今さらどう取り繕っても、ムリだから。

「と、とにかく一番好きなのは南だからさ」

「自分の女に順位付けてんじゃねーよ!」

ようやく目が合って、そしたら思わず手が出てしまった。躊躇なく伸びた拳に、自分でも驚く。佑介にイラついたこと、ケンカしたことだって何度もあったけど、身体が勝手に動くというか、抑えきれないほどの怒りを感じたのは初めてだった。

力は全然強くない私だけど、たまたまちょうど良い所に当たってしまったらしい。佑介は苦悶の表情で左頬を抑え、黙って風呂のドアを閉めた。シャワーの音がいつもより大きい気がした。

1度目の浮気で別れておけば良かったという自分への怒りと、右手に触れた肉と骨の感触に興奮して、鼓動が早くなっているのを感じる。私、人を殴ってしまった。腕には鳥肌が立っている。

部屋に戻り、フォロワーが4人しかいない闇のSNSアカウントでイライラを爆発させていると、ドライヤーもしないままの佑介被告がやってきて、ソファの横に座った。

「ごめん……」

ゆるくかかったパーマも、軟骨に付いているピアスも、整えられた眉毛も、彼を構成するその全てが、急に許せなくなった。こんな状況でも、私が貸しているTシャツに着替えている神経の図太さに呆れる。

「で?」

「南と別れたくない」

「女抱きたいならアヤと付き合えば良いじゃん」

悔しい。付き合っている相手から愛されたいだけなのに、私は佑介のことしか見ていないのに。また裏切られた。浮気してもいい女だと思われた。

「俺の彼女は南だけだよ」

強く抱きしめられ、シャンプーの匂いと彼の細い腕に惑わされそうになる。ダメよ、私。このまま流されて夜を過ごしたら、同じことを繰り返すだけなんだから。

「お願いだから、今日はもう帰って。一緒にいるとおかしくなる」

「ごめんね」

それでもまだ離れてくれないので、悲しみと怒りと不安と、色々な感情を抱えたまま無理矢理トイレに籠った。佑介はしぶしぶ帰る準備をし始めたらしい。部屋の扉を閉める音が聞こえたので、使ってもいないトイレを流す。佑介は玄関に手をかけて、私を見ていた。

「LINE するから」

手を振りながら出ていく彼を見て、甘やかしすぎを実感する。見送る必要もなかったんだ。

少し時間が経ってから「もう女の子と2人で会わないから」とか、「南を誰よりも大切にしたい」とか、反省してるっぽい言葉がたくさん送られてきた。前に浮気された時にも同じことを言われた。佑介も私も、あの時から何も変ってない。いや、変われなかった。このまま付き合っていたら、あと何回浮気されるのか。ここで許しても、私はきっと幸せになれない。

『まだ好きだけど、もうつらい』

『じゃあいいよ。別れよ』

既読がついてから、返事がくるまですぐだった。投げやりな別れ方も、LINEになった途端ちっとも抗ってくれなくなったことも、どちらも寂しかった。恋人と別れるのってこんなに簡単なんだっけ。

佑介は大学に入ってから4人目の彼氏だった。生まれて初めて1年記念をお祝いできた彼氏だった。背は高くないけど顔が良くて、女の子に優しい人たらしで、甘え上手のキスが長い男。軟派な彼と一緒にいると、小さな悩みは全部どうでも良くなって、自分までも無敵になった気になれるのも好きだった。

佑介のことだから、今頃パジャマのズボンに両手を突っ込んで、いつも通りすやすや寝ているんだろう。私のことなんて、すぐに忘れてしまうんだろう。

少し前まで佑介がいた風呂をゆっくり使うのが嫌で、メイクだけ落としてベッドに潜りこんだ。涙が溢れて、堪えようとしても嗚咽が漏れる。佑介の謝る声が、頭の中で繰り返し再生されていた。謝るくらいなら、もっと真面目に愛してよ。

何でもいいから気を紛らわせたくて、安物のイヤホンで耳をふさぐ。彼に教えてもらった曲が流れる度に、また泣いた。しばらく佑介のことで頭がいっぱいだったけど、クリープハイプの曲を聴いたら不思議と心が落ち着いた。

こんなに悲しいのに腹が鳴る
食べたい食べたい何か食べたい
どんなに苦しくても腹が減る
生きたい生きたい死ぬほど生きたい

クリープハイプ「こんなに悲しいのに腹が鳴る」

そういえば夕飯、食べてないじゃん。怒って泣いて疲れて、心もお腹も空っぽになっていた。なんであんなやつのために、こんなに頑張って泣いているんだろう。

明日は、美味しいものを食べよう。

カーテンの隙間が微かに明るくなってきている。明日は、もう今日になっていた。さっきの曲をリピート再生にして、深呼吸した。スカスカのお腹に空気がいっぱい入ってくる。寝よう。


起きたのは10時過ぎで、鏡を見ると見事に目が腫れあがっていた。ブスすぎる。それだけでため息が出たし、今日はもう誰にも会いたくない。午後のバイトのシフトを他の人に代わってもらった。SNSをチェックすると、みんなはいつも通りの1日を過ごしている。友人の真紀が最近できた彼氏の写真をアップしていて、少し落ち込んだ。

今日はもうSNSすら見たくない。重い身体を引きずって、なんとか炊飯器にお米をセットするだけして、窓を少し開けて、もう1回寝た。

再び目が覚めたころにはおやつの時間になっていて、ご飯も炊けていた。お腹もペコペコだ。

食べたい物はもう決まっている。サバカレーだ。

佑介のバイト先は下北沢のカレー屋で、私の家に来た時、店の名物メニューを見様見真似で作ってくれていた。彼に言わせれば、「カレーに市販のルーなんていらない」らしい。ホールで運んでいるだけのくせに、偉そうにしていたのがちょっとウザかった。

未練もある。でも、それ以上にただただ食べたい。

クミン、ターメリック、コリアンダー、チリペッパー、ガラムマサラ。彼が置いていったスパイスが5つ、まだ残っている。ひとりで作るのは初めてだけど、隣で見ていたから作り方もなんとなくわかる。

チリペッパーが唐辛子ということ以外、私にはスパイスの知識がない。どの瓶も共通して、調理例は「カレー」だ。

黄色の粉のターメリックは、瓶に「ターメリック(うこん)」と書いてある。調べてみると、呼び方が違うだけのようだ。薬みたいな強い匂いがした。元気が出そう。

クミンとコリアンダーの見た目は少し似ているけど、カレーの匂いがする方がクミン、インドの雑貨屋さんの匂いがする方がコリアンダー。もっと雑貨屋臭が強いのがガラムマサラ。クミンだけでもカレーになりそうだけど、スパイスをたくさん混ぜた方が美味しくなるらしい。

あとは玉ねぎ、トマト缶とサバの水煮缶、にんにくとしょうがはチューブしかないけど別にいいだろう。たまたま材料が揃っていて良かった。

まずは玉ねぎをスライサーで薄く切る。玉ねぎを切る時に鼻にティッシュを詰めると、涙が出なくなることも佑介から教えてもらった。ギャグ漫画みたいな佑介の見た目がツボに入って、ずっと笑っていたあの日が懐かしい。

フライパンに油を引いて、玉ねぎ、にんにく、しょうがを炒める。根気よく、茶色になるまで炒めるのだ。私が玉ねぎを炒めている間、佑介はスパイスを量って混ぜたりしていたんだけど、今日はもう残ってる分を全部使ってしまおう。

というか、この家にはどれだけ佑介の物が置いてあるんだろう。考えたら少し憂鬱になった。食べ終わったら、部屋の片付けだ。ベッドも新調したい。

スパイス類をあるだけ全部と、トマト缶とサバ缶を入れて、ちょっと混ぜて10分くらい煮込む。その間に、ゆで卵の準備を。最後に塩こしょうと、ちょっと醤油を足して味を整えたら完成だ。

玉ねぎを切って炒めるところが大変だけど、あとは鍋に入れるだけだから思っていたより難しくない。佑介のやつ、簡単なところだけやってデカい顔してたんだな。

まずはそのまま食べてみる。

チリペッパー、入れすぎだ。いつもより辛いけど、美味しい。

サバと卵を崩して食べる。やっぱり美味しい。

「南は美味しそうに食べてくれるから作り甲斐があるよ」

初めてカレーを作ってくれた日に、佑介がそう言って頭を撫でてくれたことを思い出した。出かけるのも好きだったけど、家でダラダラ過ごす日も大好きだった。夜遅くまで映画を見て、朝寝坊しながら2人で慌てて学校に行く。せっかく一緒に取った授業は、サボりすぎて出席が足りなくなり、途中から行かなくなってしまった。

悲しくて鼻水が出るのか、カレーが辛くて鼻水が出るのか、よくわからない。寂しくてつらいけど、それでもお腹が満たされると少し安心する。

***

佑介と別れたあと、就活で忙しくなったこともあって在学中は彼氏を作らなかった。

食品メーカーの事務になって、もう7年が経つ。社会人になってからというもの、我ながら安定した生活を送っていると思う。

結婚して、子どもも生まれた。夫は、研修中に仲良くなった職場の先輩で、バカが付くほど真面目で優しい人だ。付き合ってから今まで、ケンカすら1度もしたことがない。

「ママ、今日のご飯なにー?」

私に似て、食べることが好きな娘の楓は、夕飯の準備をしていると必ずキッチンにやってくる。危ないから来ちゃダメと言っても、なかなか聞いてくれない。

「今日は、楓ちゃんの大好きなおさかなのカレーで~す」

「やった~!」

両手をあげてジャンプ。下の階の人、いつもすみません……。

「あっちのお部屋でもう少しまっててね」

「はーい」

カレーを作るのにお肉を買い忘れてしまって、しょうがないからサバ缶を入れた日があった。なぜか楓がこれをいたく気に入り、「おさかなのカレー」は我が家の定番メニューになってしまったのだ。

にんじん、玉ねぎ、じゃがいもにサバを入れて圧力鍋で煮たら、あとは甘口のカレールーを入れるだけ。ぐずぐずになったサバが美味しい。

結婚してから何度カレーを作ったかわからないけど、使うのはいつも市販のルーだ。とっても楽なんですもの。まだ楓も小さいし、毎回スパイスカレーを作るほど主婦は暇じゃない。佑介のサバカレーと「おさかなのカレー」は全く別物で、もはや何のスパイスを入れていたのかも忘れてしまった。今は母として娘の好物を作っているだけだ。

ピーッ、ピーッ、ピーッ――

炊飯器の蓋を開けて、アルミホイルに包まれた卵を取り出す。ご飯の湯気と甘い匂いが頬を撫でた。

「楓ちゃーん、ちょっとお手伝いしてくれる?」

「するー!」

嬉しそうに駆け寄ると、楓は小さな腕で私の足を抱きしめた。

2人でゆで卵の殻をむきながら、夫の帰りを待っている。

***

文・写真:よしザわ るな
編集:栗田真希

食べるマガジン『KUKUMU』の今月のテーマは、「カレー」です。4人のライターによるそれぞれの記事をお楽しみください。毎週水曜日の夜に更新予定です。『KUKUMU』について、詳しくは下記のnoteをどうぞ。また、わたしたちのマガジンを将来 zine としてまとめたいと思っています。そのため、下記のnoteよりサポートしていただけるとうれしいです。