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【あし #1】生ぬるい高校生からパラ陸上日本代表へ

松永 仁志さん(前編)


 松永さんは、岡山県の株式会社グロップサンセリテを運営母体とするパラスポーツ実業団チーム『WORLD-AC(ワールドアスリートクラブ)』の選手兼監督を務める。パラリンピックに何度も出場し、パラ陸上日本代表の主将も務めたレジェンドだが、そこまでに至る道のりには、様々な体験と努力と想いが敷き詰められている。そんな松永さんから学ばせて頂くことは非常に多かった。


 松永さんは高校2年生の時、オートバイに乗っていて「目が覚めたら人工呼吸器を付けていた」。1か月も苦しみ続け、ICUにいる期間は3か月にも及んだ。脊髄損傷。「車いす生活を余儀なくされるかもしれないと聞かされた周囲の悲壮感が大きくなり、落ち込む姿を見せられずに虚勢を張った」。

「“生きているだけで儲けもん”なんて言葉を吐きつつ、内心は夜な夜な深刻になっていった」。それでも、前向きな素振りを見せれば、周りが良かったねと明るく返してくれる。結果的に、前向きにすることが「セルフコントロールにもなって」自分に大丈夫だと言い聞かせた。


 車いすで何ができるだろうと考えると、中高で陸上をやっていたこともあり、スポーツに至った。「前向きなんてきれいなものじゃないですよ、選択肢としてそれしかなかっただけ」と正直に話す。

 しかし、それを本気にさせる出来事があった。当時通っていた工業高校では、車いすでは実習ができずに単位が取れない。その代わり、同じ岡山県内の特別支援学校が授業を組んでくれることになった。そこで出会った同世代の子たちは、「普段から文句を言いながら好き勝手やっていた自分たちとは住む世界が違い過ぎた」。毎日学校に行くことも難しいから勉強を大切にする子、食事をとるにも介護を必要とする子、夢は免許を取って隣に彼女を乗せることと話す子、そんな中で重い障害で亡くなる子もいた。「当たり前のことが当たり前にできる。それを恵まれているというよりは、自分は何て生ぬるいんだと思った」。


 そこからスポーツへの振り幅が大きくなった。ただ、振り返れば、サラリーマンをしながら休日に地方の競技大会に出たりと、「10年くらいのらりくらりやっていた」。それで充実もしていたが、30代が近づく中で確固たる目標が欲しいと思い始める。学生時代を振り返ると「スポーツはそこそこほどほどにできるが、めちゃくちゃ努力して1番になる奴を“ガチ勢”と呼んで正面から挑もうとしなかった」自分にも気づく。まだパラスポーツの認知度も低く、当時勤めていた会社の社長には「障害者のお遊び」と言われた。それらに「何か付加価値が欲しかった」。


 本当にスポーツへの振り幅が大きくなったのは、そこからだった。「30歳からがっつりやり始めた」。さらに、パラリンピックの国内選考会で“ガチ勢”に勝負にならない現実に、「世界で戦うレベルを肌で感じ、火がついた」。そんな中、2000年のシドニー・パラリンピックに出場した選手からもらったビデオテープには、観客が入ったスタジアムで走る姿が映っていた。「世界ではスポーツとして認められているんだと気付き、これだと思った」。

 サラリーマンをやりながら、始業の8時から残業して21時22時まで働いた後、人がいない岡山港に車で向かい、「懐中電灯を車いすに括り付けて、何十往復も練習して、後は寝るだけ」の生活を続けた。それでも、2004年のアテネ・パラリンピックの日本代表になれず、覚悟を持って「会社を退職した」。


後編に続く)



▷ WORLD-AC




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