貴女は今すぐデトロイトでHUMANになりなさい
(本記事の画像はいずれも公式サイトからの引用)
ようこそいらっしゃいました。わたくしは日々大量のテキストを執筆していますが誰にも読ませるつもりはありません。ですが世の阿呆共とファッション腐女子が「もう2077年が来るまでコールドスリープしてえ!」などとほざいた挙げ句、大挙して睡眠カプセルに雪崩れ込んでいる惨状を目にしたわたくしは、真の女の義務として急遽この記事を公開することを止められませんでした。
すなわち貴女はこの事実を直視する必要があります。この世界の時空連続性をゆがめることができない以上、貴女は2077年を迎える前に否応なく2038年を迎えることになります。ですから貴女は大人しくわたくしの言葉に従い、今すぐ2038年を体験せねばなりません……言うまでもなく、「DETROIT BECOME HUMAN」(以下「DETROIT」)によってです。
貴女がこのトレーラーを観るなどして得た事前情報から、この作品を「トレイラー詐欺のムービーゲー」であるとか、「QTE(クイックTAIMUイヴェント)をピコピコして選択肢フロチャートを埋めていく作業ADV」であるという先入観を抱いてしまうのも無理からぬことでしょう。ですが真の女の中の女であるわたくしは、それが全くの誤解であると断言いたします。「DETROIT」こそ、2038年を20年も先取りして登場した、ストーリーテリングに関心を持つ全ての者が体験すべき真の女の物語です。
デトロイトはメキシコそのものです
DETOROITO……真の女であれば誰もがその名を聞くだけでモータウンとして知られるメキシコを連想し、反射的にホルスターから拳銃を抜いてスライドを後退させ弾が薬室に装填されているのを確認した上で撃鉄を起こし改めて安全装置をかけてホルスターに戻し周囲を警戒することは、近年真の女の中の女であるキャスリーン・ビグローが映画化したことでも広く知られていますが、デトロイトについて謝った先入観を持つ貴女のために、今一度、真の女にとってデトロイトが何を意味するかを説明しておくべきでしょう。
デトロイトとは場所です。その事実を知らされた貴女が次にどのような行動をとるかが、貴女がファッション腐女子であるかそれとも真の女であるかを見分ける試金石であることを貴女はきちんと自覚していますか?
貴女がファッション腐女子であれば、デトロイトがどういう場所であるかを考えようともせず、コントローラーを手放して漫然とモニターを見つめているため、突発的に発生したQTEイヴェントに対応することなぞ叶うべくもなく、あっさりとガラガラヘビの餌食になって死ぬ……END OF DETおRITO……ですが、人生とは絶えざる選択と決断の連続であり、貴女がそのことを理解する真の女であるなら、このテキストを読む間も突発的QTEに対する警戒を怠ることなく決してコントローラーを手放さず、まずは地図を開くなどしてデトロイトに関する基本情報を収集しその潜在的脅威の有無を探るはずです……そして地図を開いた貴女は衝撃の真実を見いだし、思わず崩れ落ちて呻くことでしょう……「デトロイト……こんなにも国境に近いなんて……!」……こうして貴女はまた一つ、真の女としての経験を積むことになりました。デトロイトとは、文字通りの危険な国境地帯です。
かつては自動車産業で栄えたデトロイト……2038年現在は、自動車産業に代わってアンドロイド産業が急成長して再び繁栄……しているかと思いきや、ウェイランド湯谷の支配が京子となった今では、アンドロイド産業の利益が市民に還元されることもなく、人間もアンドロイドもまとめて搾取の対象とされ、街は相変わらずの荒廃ぶりを見せています。
ところがデトロイトから河を渡っただけの距離にある、目と鼻の先に広がる国境の向こうは、まともな社会保障が整備されアンドロイド奴隷制も存在しないカナダ……天と地ほどの開きがあるデトロイトとカナダが国境で隔てられ隣接しているのです。これが意味するところを、貴女にはたちどころに理解したでしょう。デトロイトとは、カナダから見たサウス・オブ・ザ・ボーダーのティファナすなわちメキシコそのものなのです。河を一本隔てただけで壮絶な落差を見せるデトロイトとカナダの街の光景は、その気になればグーグルストリートビューで簡単に確認することが可能です。
貴女は体験しなければなりません……デトロイトに広がる目木紫紺荒野で繰り広げられるサバイバルを……それが「DETROIT」のもたらす、真の女が好む真の物語なのです。
ピコピコしていません
さらに貴女はこのことを覚えておきなさい。「DETROIT」は、真の女の物語を語るために、ヴィデオゲームというフォーマットをどのように利用することが可能かを徹底的に研究し尽くした作品であり、全くピコピコしていません。実際に体験すれば、貴女はその圧倒的なピコピコしてなさに驚愕することでしょう。
真の女が憎んでやまぬピコピコとはどのようなものでしょうか。プレイヤーの成功にはご褒美を、失敗にはペナルティーをもって報いるという従来のヴィデオゲームにおける固定観念の行き着く先は、結局のところ、ゲームシステムがプレイヤーに成功を強いて、失敗→リセット→再挑戦のサイクルを通じて成功体験の積み重ねを安易にプレイヤーに供給するシステムでしかありません。そのために、従来のQTEは、失敗したらやり直さなければならない面倒な作業にゲームを堕落させて、プレイヤーにゲームのピコピコ感を感じさせてしまうのです。そしてそのようなゲームが語ることができるストーリーというのは、成功に成功を重ねるプレイヤー=主人公の物語という不自然さから逃れることができないのです。タイムリープもののアドベンチャーゲームであっても、失敗から過去に戻ってやりなおすことをシステムに取りこんで最終的な成功を目指すことをプレイヤーに強いているという点では異なりません。だからゲーム制作側が決めた正解に至るようにストーリー分岐フロチャートを埋める作業ゲーになってしまい、ピコピコするのです。
貴女はこのようなピコピコの真の危険性を本当に理解していますか? カネを払ってゲームをしているのに失敗が単なるペナルティーしかもたらさないシステムに馴れきってしまえば、貴女はウェイランド湯谷の支配に屈することになります。スマホゲーのガチャの虚無は、失敗はペナルティーしかもたらさないというウェイランド湯谷の洗脳の結果、当たりが出るまでガチャを回し続けてカネを無駄にし続けるのは自己責任であると思い込む奴隷を生み出すことにその本質があるのです。カネを使ってガチャを回した以上は当たりが出ようと出まいと払ったカネに見合ったエンタテインメントを寄越すよう運営に要求するのは人間として当然です。そのような要求が出来なくなったとき、人は自発的な奴隷となるのです。
これに対し、真の女のゲームである「DETROIT」は、プレイヤーの成功と失敗を物語においてほとんど等価に扱うという英断をもって、従来のヴィデオゲームからかけ離れた物語体験をもたらすことに成功しました。すなわち、プレイヤーの選択や行動には、制作側が定めた正解・不正解というものがありません。突発的QTEに成功しても失敗しても、成功したなら成功したその先のストーリーが続くのは当然として、これが画期的なのですが、失敗のその先のストーリーが続く上に、ストーリーの展開がダイナミックに変化するのです。
この、プレイヤーの成功も失敗も等しく物語展開の一要素とするという発想がもたらす効果は絶大です。プレイヤーの失敗は、即ゲームオーバーとはならないものの、当然ながら主人公たちをさらなる苦境へと追い詰めることになり、これにより、ストーリーはより緊迫の度を深めることになります。そしてその苦境を打開するためのチャンスが到来し、再びプレイヤーの行動が求められる時……主人公たちを救いたいと思った貴女は真剣にQTEに挑むでしょう……それでもまたもや失敗してしまった場合でも、その先の苦境に次ぐ苦境に見舞われる登場人物の運命の行く末から目が離せなくなる……こうして、プレイヤーの成功も失敗も等しく物語展開の一部とするストーリーテリングは、QTEを通じた緊張感でプレイヤーをストーリーに没頭させるというゲームメカニクスを実現しているのです。
こうして三人の主人公たちの物語はやがて交錯し、とある物語の展開では衝撃の終盤を、また別の展開では静かであると同時にエモーショナルな瞬間をもってプレイヤーを打ち据えるクライマックスを……ある主人公には絶望を、別な主人公には希望を……と、驚くほどに多彩な物語の展開と結末とをもたらします。ストーリーを最初から最後まで通しで体験するには、一回当たり10数時間ほどしかかかりませんが、一回のプレイでは、物語の全貌の二割にも満たない部分しか体験できません。貴女は一度エンディングに到達しても、すぐさま二週目に、二週目が終わったら三週目にとりかかることでしょう。
わたくしは、「DETROIT」の物語がもたらす感動について全く話を盛ることなく紹介しており、プレイヤーの選択によっては遭遇することになる恐怖の暴虐リコールセンターのパートでは、その物語の衝撃度は、貴女が真の女でなければ遭遇した途端にすぐさまゲームをリセットするレベルに至っています。ですから、もし貴女が真の女としての覚悟を持っているなら、是非とも、人間性を剥奪される体験をプレイヤーに容赦なく叩き込むこの恐るべきリコールセンターに挑戦すべきでしょう。ちなみに、わたくしがこのリコールセンターパートに遭遇したのは、わたくしが真の女として体験すべき物語を体験したからであって、決してわたくしの操作ミス等々に起因するものではないことを、ここで強くお断りしておきます。
完全に本気のストーリーが容赦なく襲いかかります
このように「DETROIT」は、ストーリーテリングのために従来のヴィデオゲームの常識を覆した驚くべき作品なのですから、言うまでもなく、そのストーリーは完全に本気であり容赦がありません。貴女がこの作品の映像を単なるCG人形劇の如きものであると思っているのであれば貴女は完全に油断しており、今しもシカリオとDEAとの間の銃撃戦に巻き込まれて死ぬところを貴女が生き残っているのは単なる偶然にすぎないということをきちんと自覚し反省することです。
この作品においては、全編CGのように見えても実際には物語を紡ぐ登場人物の演技も完全に本物であると同時に、カメラワークや編集等々の映像表現も完全に本物です。俳優の表情まで完全にもーキャップするモーションキャプチャ技術を用いて、全編にわたって俳優が実際に演技をしている様子を撮影しているからです。こうして本物の演技が収録された結果(なお、主要登場人物の顔は、演じた役者の顔そっくりそのままです)、子供を寝かしつけるような静かなシーンでこそ真の女が演じる迫真の演技はより輝きを増し、そして恐るべきエモーショナルな瞬間を現出させ、貴女に襲いかかるのです。
ですから、この作品の物語を十全に体感するためにも、少なくとも音声は英語に設定の上、プレイなさい。俳優のセリフの抑揚と劇伴のシンクロで静かに盛り上げる演出は、ローカライズ担当者が深く演出意図を理解して再現しようとしない業務的ローカライズ吹き替えでは再現困難だからです。
ちなみに、「DETROIT」のボーナスコンテンツとして収録された制作過程等の資料アーカイブ映像によれば、この作品の演技の撮影は2010年に開始されたということであり、この一事のみをもっても、作品の制作陣が異常なほどの拘りと執念をもって作品を完成させたことが分かるでしょう。
そうして、この作品が語る物語は、ゆがんだ社会に存在する、人間とは異なる存在を主人公としながらも、逆にだからこそ、普遍性を獲得するに至っています。すなわち、HUMANITEAの物語なのです。制作陣の狙いは明確であり、そのことは当然ながら主人公などの設定に反映されています。このような理由で、この作品の三人の主人公――この世界には結局、阿呆共、ファッション腐女子、そして真の女という三種類の人間しか存在しないという普遍的真理に基づいた主人公――が登場します。
三人の主人公
コナー
物語が開幕した途端にイントロと言うべきシークエンスでこの者が登場し、夜のデトロイト高層マンションテラスを舞台に派手にガンファイアがぶっ放されヘリが飛ぶという、この短時間のシークエンスだけでどれだけの予算が費やされているのかと恐ろしくなるほどの状況で、変異体(ディヴィアント。ディーヴィーとも)と呼ばれる暴走アンドロイドが引き起こした人質事件を華麗に解決してクールに現場を去って行くその姿を見て、わたくしは軽率にもこの者が真の女であると即断してしまいました。お恥ずかしい限りです。
ゲーム本編が開始されると、この者はジェフブリッジスじみた外見の飲んだくれの阿呆ルテナントとバディを組んでアンドロイド暴走連鎖の謎を捜査することになるので、真の女が憐れなジェフブリッジスを導き救済する物語が展開するのだと誰しも予測しても仕方がない部分があるのですが、実際にはこの者はどうしようもない阿呆で、「僕は最新鋭プロトタイプだから絶対事件を解決するよ! 任せてね! ピコピコー!」みたいなことを抜かしてイキって見せたその舌の根も乾かぬうちに無様に捜査に失敗するということを繰り返します。それどころか、この者の持ち芸なのかと言いたくなるほどの突発死を遂げ、それでもゲームのストーリーは進行していく結果、物語の中で多彩なヴァリエーションの突発死をしては復活するということを繰り返すこの者の阿呆そのものの振る舞いがシリアスな本作のストーリーの中では稀な爆笑ポイントになっています。ストーリー展開的にも、無理にこの者の阿呆ぶりを矯正しようとしないほうがストーリーが面白くなるような気がします。覚えておきなさい。なお、この者が捜査に失敗するのは、断じてわたくしの操作ミス等が原因なのではなく、この者が阿呆であることが原因であるということを、ここに重ねてお断りしておきます。
マーカス
残念ながらこの者はどうしようもないファッション腐女子です。ファッション腐女子という存在は、別に死ぬような場面でも何でもないのに「尊すぎて死ぬー! 尊死ー!」みたいなことを口走って大げさに始終騒ぎ立てては周囲の顰蹙を買って恥じるところがないという救いがたい存在ですが、この者も同様であり、別に大人しくしていれば良いものを一人相撲の挙げ句にうっかり自我を獲得し、その上唐突に革命だのなんだのということを言い出して社会に迷惑をかけます。輪をかけて状況を悪化させるのは、いかにも信頼できる仲間みたいなツラをしてしゃしゃり出てくるノースという者であり、このノースも最初は真の女なのかとプレイヤーに期待をかけさせておきながら、実際には暴力的に振る舞えば真の女になれると誤解している典型的なファッション腐女子であり、そのことも自覚しないまま、マーカスが自分の意に沿わない決断をすると決まって「あたしはその選択が気に入らないんだけどー。どういうつもりー?」みたいなことを言葉で表明するならまだしも、あろうことか口で言う代わりに好感度メーターが下がる様子をこれ見よがしにインターフェイスに表示するという手段で嫌みを言ってくる上、地雷がどこにあるのか分からないプレイヤーには全く意味不明のタイミングで突発的に激怒したりするので貴女は完全にムカつくでしょう。見るに見かねたプレイヤーが真の女としてマーカスを導き続けると、終盤にはとうとう真の女のカリスマに屈服して今度は逆にマーカスにすり寄ってくるようになるのもまたムカつきます。
そもそも真の女の暴力とは、生きるか死ぬか、やるかやられるかのギリギリのポイントで容赦なく放たれる苛烈な暴力であって、むやみやたらと暴力を振るうのは阿呆かファッション腐女子そのものの振る舞いであるということを、貴女はこの映画を鑑賞するなどして学ばねばなりません。
この映画は、一見レオンじみた阿呆向けの映画なのかと思わせておいて実際には過去のトラウマに囚われたまま今では児童誘拐事件を解決することにしか生き甲斐を見いだせなくなった憐れな阿呆のホアキンフェニックス(グラディエーターの皇帝役などの阿呆役に定評があります)が出てくると、救われる側であったはずの少女が真の女として覚醒し真の女の真の暴力で決着をつけてしまうのですがそのため憐れなホアキンフェニックスは出る幕がなくなり生き甲斐すらも失ってしまうので結果仕方なく真の女がホアキンフェニックスを教え導くという物語であり、ナタリーポートマンが阿呆の観客に媚びたファッション腐女子の振る舞いに終始するレオンとは根本的に異なる真の女が好む真の映画です。そもそもファッション腐女子をリストラして真の女を導入することは映画の出来映えにも興行面にも好影響を及ぼすことが完全に証明されていてこの流れがどんどん加速しているのが昨今のハリウッドのトレンドであり例えばマーベルのソーシリーズにおいてはレオン以来相当な年月を経ているにもかかわらずなかなかファッション腐女子臭が抜けないナタリーポートマンが特にフォローもなくシリーズからリストラされて代わりに真の女である最新鋭バルキリ―が作品に投入された結果シリーズ第三作にして映画が俄然面白くなりクリスヘムズワースもソーを演じることへの意欲を取り戻していることからも現代のエンターテインメントには真の女が不可欠であることを貴女は学ぶでしょう。この映画は公開規模も大きくなく見逃してしまった者も多いと思われますが、まだまだ現在公開中、あるいはこれから公開という地域もあるようですので、貴女も機会があれば是非鑑賞なさい。
とにかくわたくしに言えるのは、貴女は真の女としてマーカスが最悪のファッション腐女子へと堕ちて破滅しないように介護しなければならないということです。この方針を守ることで、この作品の中でも屈指のエモーショナルな場面にたどり着くことができるでしょう。ちなみに物語の開幕当初はこの者自身がジジイを介護しており介護されるジジイの外見があからさまにランスヘンリクセンなのでわたくしは思わず爆笑しましたが、後で調べてみるとこのジジイは本物のランスヘンリクセンが本当に演じていました。
カーラ
この者こそ真の女の中の女であり、貴女がこの作品を是非ともプレイして体験せねばならない理由はこの者のストーリーに集約されています。先に述べた阿呆とファッション腐女子を主人公としたパートも、その選択が真の女のストーリーに影響するというただ一点においてのみ、その存在意義があると言っても過言でもありません。
先に紹介したこの作品のトレイラーの内容は、この者が真の女として覚醒する序盤のパートを紹介するものですが、このトレイラーの内容すらまだまだ序の口であり、全編にわたってエモーショナルな瞬間に満ちあふれ、一時も気を抜くことができません。真の女は常に貴女の隙をうかがっており、貴女が油断したその瞬間に貴女の涙腺めがけて容赦ない苛烈な暴力を振るってくることでしょう。わたくしは敢えてこれ以上の説明を控えることとします。あとは貴女自身で体験するのです。覚悟なさい。
今すぐダイブしないのはファッション腐女子です
以上のとおり、「DETROIT」は真の女が今すぐ体験すべき最先端のヴィデオゲームであると同時に最先端の物語であることが完全に証明されました。
この作品こそ単に物語の内容の善し悪しを超えた、ヴィデオゲームのゲームメカニクスの常識に対して疑問を投げかけた上でヴィデオゲームにおけるストーリーテリングの手法を一挙に革新した作品として、後世に語り継がれるべき真の傑作であるというのが、真の女であるこのわたくしの結論です。
ここまで読んでもなお貴女がこの作品を体験しようとしないのであれば、貴女は救いがたいファッション腐女子と言うほかありません。いいですか。今までのQTEゲームに対する偏見も、ヴィデオゲームにおけるストーリーの限界に対する先入観も、一切捨て去っておしまいなさい。そして今すぐ、果敢にダイブするのです。
わたくしとしたことが、言い忘れていました。この作品があまりにもピコピコしていないために気づきにくいのですが、この作品はまごうことなきサイバーパンクです。サイバーパンクこそ現代の真の女が追及すべきモチーフであり、貴女が2077年までコールドスリープしたいと願う気持ちは理解できなくもないですが、2036年を体験しようともせずに2077年まで惰眠をむさぼろうとするファッション腐女子は、たとえ睡眠カプセルで熟睡中であっても、いつ何時真の女による制裁が下るかもしれないのだということを覚えておくことです。覚悟なさい。