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僕の小規模な絶望、および、表現行為にあたってアティチュードをキメることの重要性について



なんかこう……僕の個人的な話から始めて恐縮なんですけど、僕はこう見えて結構絶望してるんですよ。そりゃ僕だってこんな話を聞かされる側になるのは嫌ですし、絶望してる人間がどうして絶望してるのかなんて理由をくどくど語ることの惨めったらしさで自分がさらに凹むことになるのは分かってるんですけど……タルサ・ドゥームの支配っていうんですか?世の中に蔓延してるああいうひどい何かが超つまんないコンテンツを量産してる状況がどこから来てるのかが、最近あることをきっかけに僕の中で腑に落ちちゃったんですよ。なので……もしかしたら僕が思いついたことが実は大事なことなのかもしれないっていう可能性をどうしても自分で否定できないので、クソみたいな文章ですけど書こうと思います。

(編集部注:先生の意図に反する誤解を避けるため、編集段階で、ある特定の個人や団体を連想させる用語はすべて「タルサ・ドゥーム」に統一して置き換えましたことを予めお断りします)

これから書くことは、皆さんにとってまず読む価値がないと思いますので……できればここで読むのをやめて帰っパして頂けたらと……ここから先は、自分の中にうまれた誇大妄想と陰謀論にとらわれた馬鹿が自分語りをしてるのを見物するのが趣味の人だけお読みください。以下、長文です。すごい長文です。

(編集部注:「帰っパ」との用語に関してですが、先生と編集部のいずれにおいても、特定のゲームを貶める意図は持っておりません。編集段階において、「帰っパ」を別な用語に置き換えることを先生に提案したのですが、この点については先生が頑として譲らなかったため、やむを得ず、原文通り記載しています。)


それで、そのきっかけというのがこのトゥギャッターまとめなんです。


「けものフレンズ」12話の「引き算の演出効果」の話が、小説のそれと似ている話


いや……皆さんはこれを読んで「これがどうかしたの?」って思うでしょうけど……だけど僕はすごい引っかかったんですよ。どういうことかと言いますと……


「受け手のスキル」って概念はタルサ・ドゥームの罠じゃないですか?

ってことなんです。

(編集部注:先生と編集部のいずれにおいても、ツイッター上の特定の発言あるいはその発言者を非難する意図は全くありません)

だって、皆さんも考えてみてくださいよ……たとえば、スピルバーグがジュラシックパークを撮るときに「観客の受け手スキルはこのくらいと想定しよう」とか考えてたりとか、プライベートライアンやシンドラーのリストを撮るときには「ジュラシックパークの時とは想定される観客の受け手スキルを変えよう」とか考えてると思いますか?って話ですよ。スティーブ・ジョブズがiPhoneを開発するときに「使い手スキルが低いやつに買わせる製品を開発しろ」とかいう発想で開発したか?って話なんです。そりゃ勿論「受け手のスキル」みたいなものが高い人とか低い人とかの違いは世の中には存在するのかもしれませんけど……僕は、そんなスキルの高い低いを気にする人に、じゃあスピルバーグはETを受け手スキルが高い人向けに撮ったのかそれとも低い人向けに撮ったのかどっちなんですか?……って聞きたいわけです。「ジュラシックパークは受け手スキルが低い人向けの恐竜映画だから受け手スキルが高い俺には全然物足りないね」みたいなことを言う人も世の中にはいるってことは分かってます。でも、皆さんなら分かってくれる……と信じて書きますけど、スピルバーグだってジョブズだって、素晴らしい作品を生み出すクリエイターの人たちはみんな、絶対、受け手のスキルが高いか低いかなんて全然気にしてなくて「クリエイターの実力で全人類に伝わるようにして、楽しませたり考えさせたりする。伝わらなかったらそれは作り手スキルの問題だ」って考えてるはずですよ。そういう姿勢でクリエイトしてるから、タイムトラベルによって生じるタイムパラドックスの問題みたいなややこしいことを言葉で逐一説明しなくても観客に理解してもらうためにはどうしたらいいかってこととかをクリエイターが考え抜いて工夫を尽くして……そうやって老若男女だれでも楽しめるバック・トゥ・ザ・フューチャーみたいな作品が生まれるんだと僕は思います。

それで、じゃあ何で「受け手のスキル」概念がタルサ・ドゥームの罠なのかっていう話になるんですけど……皆さんに「もしクリエイター側が受け手スキルを気にし始めたらどういうことが起こるか」って想像してもらいたいんです。だいたい今の日本でメジャーコンテンツを作って供給している人たちはお金とか権力とかがすごいビッグですよね。そういう人たちは、多分ですけど、日本人の大半は受け手スキルが大したことない人たちばっかりだって思ってるんじゃないかと僕は思うんです。そういうふうにお客さんを見下してる人たちが、より多くのお客さんたちに買ってもらうためのコンテンツを作るとしたら、どういう発想でコンテンツを作るかというと……たとえば「原作アニメのファン層を狙いたいけど、アニメばっかり見てる理解力の乏しい観客にはイチイチ言葉とかで説明しないと伝わらない」って発想になっちゃうんじゃないでしょうか。その結果生まれたコンテンツは……最近よく話題になる「コスプレ学芸会みたいなアニメやマンガの実写化」とか「テレビドラマの二時間スペシャルを劇場公開」になっちゃうんじゃないかと僕は思います。最近話題になっているといえば、映画のポスターや予告編が日本向けのやつだけダサいとか、映画の予告編で本編フッテージにないテロップやナレーションを入れてネタバレするとかを公式がやるっていうのも、結局、根っこは同じで、作品を供給する側がお客を見下していて、あらすじやらなんやらをイチイチ説明しないとお客が作品に興味を示さないって決めつけてるんですよ。その挙句「この夏一番の感動をあなたに」みたいに、感動を売り物にできるって発想のキャッチフレーズを何の疑いもなく乱用するんです。僕はこういうふうに見下されるのは別にどうとも思わないですけど、人を見下した結果、作品作る側が作り手スキルを高めようともせずに作品の質が低下することは無茶苦茶頭にきます。ネタばれ予告編が蔓延することにもすごく怒ってます……皆さんも怒ってくださいよ……

ただ、誤解してほしくないんですけど、僕は、コンテンツを作るにあたって対象とする顧客層を絞ること自体は全然反対してません。女の子向けに少女漫画を描くとか、ちびっこ向けにロボットアニメを作るとか、そういうことは全然おかしくないです。もし僕が何か作品を作るとしたら、ボンクラ趣味のものしか作れないので、ボンクラコンテンツ愛好家を狙って作って、ボンクラ同士の電子的傷の舐め合いが捗るようにするでしょう。問題なのは、「ちびっこは受け手スキルが低いから受け手スキルが低い人向けのロボットアニメを作る」みたいな発想です。富野カントクは、ご自身でも発言されてますけど、ちびっこ向けのロボットおもちゃ販促コンテンツとしてファーストガンダム作りましたよね……それでも富野カントクは、テレビの前のちびっこに誠実に向き合う姿勢を貫いて、結果、ファーストガンダムが生まれたんです。僕もガンプラブームの時に小学校低学年で再放送を見た世代ですけど、小学校低学年の僕ですら、ランバラルの自決とか、ハモンさんとかマチルダさんとかセイラさんとかのすごいエロさとか、「ミハルーミハルー」って言いながら三角座りでグエッグエッ泣くカイさんとか、ドムの群れを虐殺するガンダムのテレビ中継にかじりつくアムロの親父の異様さとか、ララァのすごいエロさとか、ガンダムが頭も左手ももげちゃった状態でラストシューティングする場面の壮絶さとか、アムロの成長とか、そういうのが当時でもビシバシ伝わってきてテレビの前で固まってたんですよ。それで、大きくなってからふと小さなころに見たガンダムのことを思い出して、あらためて、富野カントクが、ちびっこたちに将来大きくなってガンダムのことを思い出したら気づいてほしいメッセージみたいなのを詰め込んでいたことに気づいたりしたんです。昔のアニメって、ガンダム以外でも、未来少年コナンとか、カルピス名作劇場とか、ちびっこ向けのアニメをプロフェッショナルが妥協抜きで作ったやつがたくさんあったのに、今は、何で家族で見るちびっこ向けアニメのゴールデンタイム放送がこんなに減っちゃったんでしょうか。文化の側面で考えると、すごく危険な気がします。

(編集部注:先生はガンダムやアニメについて独自の見解を有しており、編集部の見解と必ずしも一致するものではありません)

すみません……ガンダムの話になるとどうしても脱線してしまいます。そんなことを僕のちーさい脳みそで考えてるうちに、どんどん芋づる式に他のことも引っかかり始めたんです……なので、ここから本格的に陰謀論みたいなキモい話を僕が独断と偏見で語りますので、皆さんは帰っパしたほうが賢明だと思います。

ようやく本題に入りますけど……僕がめそめそグチりたいのは、要するに


分断を手段としてコンテンツの質を低下させるシステムに囲まれて、僕は絶望してるんですよ

ってことなんです。どういうことかといいますと……いろいろ考えてるうちに、さっき初めのほうで紹介したトゥギャッターまとめに出てくる「引き算の演出効果」っていうのも妙に引っかかったんです……これじゃ分かんないですよね。仕方がないので、これから僕は物知り自慢をしながら説明します。そういうのが嫌いな皆さんは帰っパしてください。「ああ、こいつは物知り自慢以外に自慢できることが何一つない可哀相なやつなんだ」と僕のことを正当に憐れんでくれる人だけが読んでくれればそれで充分です。

だいいち、映像における演出、モンタージュ技法みたいな映像の文法っていうのは、そもそも「省略」を基本的な手法として機能するものじゃないですか。何でもかんでも映して喋らせたら全然映画にならなくて、あえての沈黙、あえてのカットとカットの間の飛躍があるからこそ、その沈黙や飛躍によって省略された部分に生じる空白が直接的な表現よりもはるかに雄弁に物語るようになるってのが映像表現の根本じゃないですか。受け手スキルが高いだの低いだの関係なしに人間に本来的に備わっている、どうしても本能的に空白を類推で埋めてしまうっていう傾向をいかに刺激するか、どういうカットを示すことで観客の印象をどんなふうに操作して空白を埋めようとする無意識の働く方向を制御するか、そうしてさらに続くカットで観客の期待を裏切ったり期待の斜め上をいったり、あるいは観客の嫌な予想そのままの画面を突き付けたりとかの手法によって、空白に孕まれる意味合いを多層化して、続けてコンボ技で画面に映ってるものの意味を膨らませていくっていう感じで、どんどん次の空白、次のカット、次の空白って続けてくことで観客に体感させるコンボチェーンの継続が映像クリエイトの腕の見せ所じゃないですか。それなのに、なにかの映像の演出をほめるときに「引き算の演出効果」なんて言っちゃうと、「え?なんで『引き算』を特筆するの?普段は引き算以外の手法を演出の基本にしてるの?」っていうヘンテコな話になっちゃうんですよ。

(編集部注:あくまで先生の個人的見解であり、言うまでもなく先生は映像制作に関しては素人です。以下に続くテキストも同様です。単なる素人の個人的見解ではありますが、もし反論等がありましたら編集部宛にお願いします)

これは別に僕がアートだの芸術だのについて高尚な話をしたいからしてるんじゃないです。身近にある映画とか音楽とか小説とかは、基本、いかに作る側の工夫と努力で受け手の想像力を刺激し、これにより作品への没入を導くかが面白さを決定づける主要な要素になってるんでして、作る側・供給する側が受け手側に対してクリエイターが作った作品の内容を理解しろと要求したり作品を理解するスキルを要求したり、ましてやクリエイターが作品に込めたテーマやら思想やらを理解しろとか要求するスタンスなんかは根本的に間違ってると僕は断言します。分かるように作るっていう作り手の義務があるだけで、受け手には分かろうとしないといけないなんて義務はないんですよ。だから「作家性」みたいな言葉でクリエイターを持ち上げることは容易にタルサ・ドゥームの罠に嵌る危険を有していると僕は思います。「作家性」が現にタルサ・ドゥームの罠として機能していることはまた後で触れます。

ここまで読んで、皆さん僕を誤解してると思うので……いや、誤解されるのは僕が悪いと分かってるんですけど……説明しておきます。僕は、恥ずかしい知ったかぶりを晒しながら説教を垂れたいのではないんです。「面白さ」の根源は、すごく単純で簡単なものなのに、タルサ・ドゥームの手先がすごい昔から浸透を続けた結果、タルサ・ドゥームの戯言があふれかえりすぎて、単純なことや簡単なことに気づくことを妨害されるのが当たり前になってるってことや単純なこと・簡単なことの価値が貶められてることを怒ってるだけです。

ということで……僕のテンションもなんか変な方向に暴走していることですし、ここで簡単なリズム遊びをしたいと思うんです。僕の経験上、「空白」が生み出す絶大な効果を簡単に体感するにはこれが一番です。やることは凄く単純で、4拍子の「ワン・ツー・スリー・フォー」にあわせて「タン・タン・タン・タン」と指で机をコツコツ鳴らすとかして音を出すだけです。こいつに空白を意図的に作るとどうなるかという一種の実験みたいなもんだと思ってください。

じゃあ、いきますよ。できれば皆さんもご一緒に。


1   2   3   4

タン  タン  タン  タン

タン  タン  タン  タン

(以下好きなだけ繰り返し)


A では、まず手始めに、3拍目の「タン」をなくしてみましょう。かわりに、3拍目で「ウン」みたいなタメを意識してみてください。「ウン」のタイミングで足踏みをするのもいいでしょう。


1   2   3   4

タン  タン  ウン  タン

タン  タン  ウン  タン    

(以下好きなだけ繰り返し)


なんだか3拍目が空白になることでリズムっぽくなってきたと思いませんか?思わない人がいても続けます。


B 次は、4拍目も「タン」をなくして、「ウン」みたいなタメもない完全な空白にしてみましょう。


1   2   3   4

タン  タン  ウン  

タン  タン  ウン  

(以下好きなだけ繰り返し)


空白をさらに広くとったら、何ということでしょう!例のクイーンの「ウィーウィール ウィーウィール ロッキュー」になりました!……嘘でもいいので驚いてくれませんか……僕も結構恥ずかしくなってきてるので……けど、4拍目の空白に引力が生まれていて、これが「ウィーウィール ウィーウィール ロッキュー」の力を導いてることは実感してもらえたと思います……実感できましたよね?音を鳴らさない空白に生まれる引力は、音を鳴らすことで生み出すことはできないんですよ。ここを実感していただければと……

で、何で空白に引力が生まれるのかというと、あくまで僕個人の考えですけど、それは、この空白を本能的に想像力が埋めようとするからなんですよ。自分自身でうんたんうんたんしてるのに、自分で自分がやってるうんたんの空白を埋めようとしちゃうくらい、人間の想像力は強力で抑えがたいものなんだって僕は思うんです。

つまり何が言いたいのかというと、「面白さ」の根源は、作品にあったりなかったりする何か作品内の要素じゃなくって、人間一人ひとりが持ってる本能としての想像力なんじゃないかと僕は思うんですよ。皆さんは、面白いと感じる作品には、その作品の中に面白さがあって、受け手がそれを発見していると思ってますよね?それが間違いだなんて僕は言いません。当たり前ですけど……けど、僕は、面白い作品というのは、作品が僕の中の想像力から面白さを引き出してくれるものだと思うんです。そういう考え方も十分ありだと思ってくれませんか?もし、クリエイターの立場にある人たちが、「受け手のスキルの高い低いに応じた作品」を作るのではなくて、「人類が普遍的に等しく持っている想像力に働きかける作品」を作る意識でクリエイトしてくれたら……受け手はみんな等しく想像力を有しているんだから、あとは受け手を信頼してこちらは想像力を刺激するために全力を尽くすだけだって覚悟を決めて創作してくれたら、なんかすごいワールドワイドで勝負できる作品がいっぱい生まれるんじゃないか、それでタルサ・ドゥームの包囲網を破ってくれるんじゃないかと密かに期待してます……

いやー……なんだかうんたんうんたんしてると楽しくなっちゃいますね……お前のどこが絶望してるんだって言われそうですけど、暗い話をするのは先延ばしにしたいんで、もうすこしうんたんを続けて、空白の効果の応用編みたいなのをしたいと思います。


C さっきやったAに戻って、こんどは2拍目に短い空白を入れてみたいと思います。2拍目を更に半分に切ってみて(4分音符であれば8分音符ふたつになります)、前半分を空白にして、後ろ半分に短い「タ」を入れてみます。


1   2   3   4

タン  ンタ  ウン  タン

タン  ンタ  ウン  タン

(以下好きなだけ繰り返し)


どうでしょうか。自由にテンポも変えてみてください。ゆっくりめにすると、Aのときに比べてCのほうがノンビリした感じがしませんか?なんかレゲエっぽい感じがするかもしれません。逆にテンポを速くすると、AのときよりもCのほうがドンツクしたテクノっぽさが感じられませんか?


D では、さらに、Cの4拍めをCの2拍目と同じ「ンタ」に変えてみます。テンポは意識的にゆっくりめにしてみてください。


1   2   3   4

タン  ンタ  ウン  ンタ

タン  ンタ  ウン  ンタ

(以下好きなだけ繰り返し)


どうでしょうか。なんか繰り返してるうちに、ゆっくりめのテンポなのに、4拍めの「ンタ」から1拍めの「タン」に戻るところで「タターン」ていう感じのスピード感みたいなのがでてきませんか?それが、「ワン・ツー・スリー・フォー」のカウントに別なリズムが乗っかって同時進行してるような感覚になってきませんか?

このスピード感を生み出しているのが4拍目の短い「ン」なんですよ。「ン」の短い空白に生まれた引力から解放されて「タ」が鳴って、続けざまに1拍目の「タン」が鳴るところが加速感になって、2拍目の「ン」で着地するっていう組み合わせになるんです。4拍目の短い「ン」を「タ」に変えて4拍目を「タタ」にしても似たような感じにはなりますけど、加速感の強さがだいぶ違うことがわかっていただけると思います。


E では、「タターン」のスピード感が出る部分を増やすために、3拍目の「タン」を復活させてみましょう。


1   2   3   4

タン  ンタ  タン  ンタ

1   2   3   4

タン  ンタ  タン  ンタ

(以下好きなだけ繰り返し)


これでシンプルながらも、短い「ン」が生み出す加速と着地の感覚が短いサイクルで繰り返すパターンになりました。ここまできたら、皆さんはもう立派なジャズドラマーです。近くにあるお箸か何かでお皿とかを適当にたたいて「タン」や「タ」を鳴らしてください。「ン」は左足で想像の中のハイハットを踏んでみてください。さあどうぞ。


……いかがですか。これがフォービートのグルーブです。フォービートって、「ワン・ツー・スリー・フォー」を意識すると「チーンチキ チーンチキ チーンチキ チーンチキ」って感じになってグルーブがなくなっちゃうんですよ。それを、「タターン」の加速から「ン」の着地、また「タターン」の加速から「ン」の着地っていう加速減速のパルスを体感しながら鳴らせば、自然と皆さんは体全体が動いちゃうグルーブを生み出してるはずです。ゆっくりめのテンポでやれば、楕円を循環するパルスみたいな感じで、だんだんとスピードを上げていくに従って楕円が真円に近づいていくイメージも容易だと思います。

それだけではないですよ。ためしに、お近くの時計とかでタイミングを計って、テンポを1秒間に4分音符ふたつ(1分で4分音符120個。「ワン・ツー・スリー・フォー」の一小節で2秒)に設定してみてください。そのテンポで、まずは適当にロックとかのエイトビートを頭の中で鳴らしてみてください……そこそこ早いテンポですよね。ところが、同じテンポでフォービートをやってみると……あら不思議!さっきのロックとおなじテンポのはずなのに、なぜかゆったりめのテンポに聞こえる!……聞こえますよね?……聞こえてくれないと話が進まないので、どうかお願いします……

こんな感じで、空白は、引力を生み出してフックになるとともに、空白に続けて何を提示するかで、スピード感を生み出したりテンポの感覚をいじったりとかみたいに人の意識を操ることすらできるようになるんです。空白すごい。ビバ空白!

すみません……なんか本題から外れまくってるように見えるかもしれませんが、これからする暗い話をご理解いただくためにはどうしたらいいかと考え抜いた上でうんたんうんたんしたんです。信じてください……

20世紀初頭に、蓄音機の発明とかで音楽鑑賞が大衆化して大衆音楽という概念が生まれ、短い期間のうちに大きな市場を持つ大衆文化になりました。その大衆音楽が爆発的に広がる時代、商業映画の劇伴とかとの相乗効果もあって国境とかを軽々超えていきなり覇権を握ったのがジャズだったのは皆さんもご存じだと思います。そして、ジャズのリズムやグルーブっていうのを特徴づけるフォービートは、空白の効果をより高め洗練させることを中心に据えたリズムパターンの進化の中で生まれたものなんです。そこでは、当然、ミュージシャンたちは空白の持つ効果を自覚的に追求してたわけですよ。皆さんにうんたんしてもらってフォービートの成り立ちみたいな話をした理由も、ここを体感して理解してほしかったからです。

で、どうしてそんなことを理解していただく必要があったのかというと、皆さんにこのことに最低限同意してほしかったからです。つまり、音楽をはじめとする創作やコンテンツの面白さの秘密っていうのは、実はさっきからでてきてる「空白」みたいな、すごく簡単で単純で、誰でも体感して理解できるけど、それでもすごく重要なものであり、面白さを生み出す秘訣は9割がた技術の問題であって、なんかすごい才能のあるクリエイターみたいな人の作家性とかの要素が面白さに寄与する部分は思ってるよりもずっと小さいんだってことと、技術が次の世代へ、また次の世代へと受け継がれ、あるいは同世代の中である技術とある技術の相互の影響があったりしつつして文化の継続性が維持されることを通じて、文化は発展し、新しいスタイルが生まれ、クリエイター同士がコンテンツの質の面で競い合う健全な競争ができる環境が維持されて、良質な作品が生み出されるんだってことです。

(編集部注:これはあくまで先生の個人的見解に留まるものであり、かつ、先生と編集部のいずれも、クリエイターの皆様のクリエィティビティを軽視するものではありません。また、スケジュールとテキスト分量との折り合いがつかず、やむを得ず、テキストの掲載を最優先とすることと決定したため、以下、校正が不十分なテキストをほぼ原文通りに掲載することとなりました。予めお詫び申し上げます。悪いのは編集部ではなく、全責任はうんたんうんたんに紙面を費やした先生にあります)

捕捉すると、文化の継続性っていうのはこういうことです。さっきからジャズを引き合いにだしてるのは、僕がジャズ博士だからじゃなくて、こういうたとえ話をするのにジャズが都合がいいからなんですよ。どういうことかというと、ジャズは1920年代から1940年代の大衆音楽の代表みたいなもんでしたが、そのうち新しいスタイルの音楽の登場により駆逐される運命は避けられませんでした。だからといってジャズは単に過去のものになったのかというとそうじゃなくて、ジャズの発展の中で生まれたリズムやハーモニーの技法とかはリズムアンドブルーズとかずっと後の時代のソウルとかカーペンターズみたいなポップスとかに受け継がれていきますし、リズムアンドブルーズはロックの基礎になるわけです。あんまりメジャーなコンテンツじゃなかったコテコテのブルーズみたいなのは、イギリスのロックの基礎になり、イギリスのほうがかえってモッズたちが(ジャマイカの)ロックステディもコテコテブルーズも分け隔てなく聞いて踊る文化が発展したせいでイギリスのロックがアメリカに逆輸入されるとアメリカのロックは以前にも増して巨大な市場になってウッドストックになったり、ブラックミュージックはブラックミュージックでソウルとかファンクとかに進化していったと思いきや、元は難解ジャズのレジェンドだったハービーハンコックが突然ロックイットし(編集部注:話を分かりやすくするためにハービーさんの来歴やヒップホップの歴史は意図的にシンプル化しています)、それまでは狭い地域の文化だったヒップホップをいきなり全人類に分からせるという音楽史上、いや、人類文化史上稀に見るカラテを放ってあっという間にストリートが世界を席巻して風見慎吾がブレイクダンスするほどの影響力を発揮しそれから10年もしないうちにラップも巨大市場になった結果タルサ・ドゥームに目をつけられてしまい、不幸にもタルサ・ドゥームの罠に嵌ってしまったラッパーがリムジンを乗り回して東西で殺し合うみたいなヒップホップの精神に反する振る舞いを強いられてしまうという悲しみがありつつ、ロックもラップのスタイルを平然と取り込んでレイジアゲンストザマシーンのザックデラロチャさんが超強いMCでゲリラレディオするし、ヒップホップもタルサ・ドゥームの策略で生じた大きな犠牲を乗り越え、ついにファレルウィリアムズとかケンドリックラマーとかが受けまくり、ジャンルを超えてナイルロジャースをゲストに迎えたダフトパンクとかが受けまくる時代を迎えています。そういう感じで常に新しいスタイルと新たな名曲をバンバン生み出している一方で、過去のスタイルや過去の曲が単に過去のものになったのかというと全然そうじゃなくて、ファレルウィリアムズとかケンドリックラマーとかが、フライングロータスとかロバートグラスパーとかサンダーキャットとかカマシワシントンとかのジャズ系の強いカラテマンと現在進行形コラボしてて全然ジャンルの垣根なんかないし、エスペランザスポルティングちゃん超カワイイ。それでジャンルの垣根があるようでないことはランDMCのおかげでエアロスミスが謎の復活からアルマゲドン級成功を収めたりアンスラックスとパブリックエナミーがブリングザノイズしたやつが今聞いても全然かっこよかったりすることからも明白で、だから今現在も世界中のDJやトラックメイカーが30年も40年も昔のジャズやソウルやファンクをディグして魅力を発掘しつづけてるし、動物がでてくるミュージカルCGアニメのクライマックスで、僕が大好きな40年以上も前のドンチュウォリーバラシングをゾウさんが歌うなんて事前情報仕入れてなかったから全くのアンブッシュになって、ゾウさんが振るうソウルカラテでぶん殴られた僕はボロボロ泣いたんですよ(編集部注:先生に確認したところ、鑑賞したのは字幕版であり吹き替え版は未見とのことです)……僕の涙を笑う人は今すぐ帰っパしてください……


Herbie Hancock - Rockit 


Stevie Wonder - Don't You Worry 'bout A Thing



それで、ここを強調しておきたいんですけど、さっき僕が列挙したニンジャたちには、誰一人として、「受け手のスキル」なんてものを気にする奴はいなくて、そのおかげで、各時代各時代に生まれる新たなキッズたちがまっさらな状態でカラテに触発されて、また一人また一人とニンジャの道を歩み始めるってことが海の向こうでは続いていて、それで、ここも強調したいんですけど、その結果は、超でかい市場が新鮮で良質なコンテンツを届けているってことなんです。過去の遺産もすごいリスペクトされてますよ。それで、何でそれが僕の住んでるところでは起こってないのかってことなんです。

僕は知ったかぶりばっかりしてて実は全然無知だから、アニメイシヨンのコンピレーションのおかげで、僕が知らないところですごいカラテの研鑽を積む凄腕がいっぱいいるんだってことを知って、本当にすごい嬉しく思ったんですよ。思ったんですけど……じゃあどうしてあれだけすごいニンジャが日本にも沢山棲息してるのに、そういったニンジャがカラテで日本の市場を席巻してないんですか?……なんで今まで僕に誰も教えてくれなかったんですか?ってことがすごい疑問で、同時にすごい頭に来たんですよ……それって日本のニンジャが受け手を侮って受け手のスキルなんてものに合わせたニッチ需要ごとに分断された作品しか作ってないから……なんてあり得ないですよね。現実逆ですよね。メジャー市場に供給されてるコンテンツって、既に受け手のスキルだのファン層だのなんだのの訳わからない細かいカテゴライズでジャンル・サブジャンルに細分化されたコンテンツばっかりになってますよね。仮に受け手スキルの高い低いってのがあるんだとしたら、日本に住む皆がなるべくニンジャのカラテに気づかないようにして管理芸能界のコンテンツ供給で商売がなりたつようにするために、タルサ・ドゥームがみんなの受け手スキルが低くなるように誘導してる……という結論にならざるを得ないと思います。けど……それはたぶん勘違いですよ。シヨンのエンディングで初めて未見のニンジャを知った人たちが全員こぞってボリスでエキサイトして劇場支配人でアイエエエして、メメント森が一発で全員に完璧にネオサイタマを分からせてるわけですから、結局、カラテのパワーは万人を等しく分からせるスキルの結晶であり、受け手スキルの高い低いなんて概念はただの幻想だ、っていう結論が妥当だと僕は思うんです。

誤解してほしくないので念のために言っときますけど、僕は「海の向こうチョースゴイ!ドメスティック市場チョーダサイ!」みたいな海外崇拝をしろと言ってるんじゃないです。当たり前ですけど、どこの国にもタルサ・ドゥームの魔の手は及んでますし、国によって文化とかの違いがあることは否定できないことで、その国ごとの文化や市場の在り方が違う以上、市場の違いによって市場ごとに金の稼ぎ方が違ってくるし、金を稼ぐ方法や搾取の方法が違ってくることで、おのずと、タルサ・ドゥームが弄する策略の種類や、タルサ・ドゥームの支配のしかたがどれだけ直接的かってこととかにも違いが出てくるんです。これは、普段からタルサ・ドゥームの影に怯えて常に観察と警戒を怠らない僕の見解なので、かなり信ぴょう性がある見解だと自負しています……北米音楽市場を例にあげると、北米音楽市場は、定期的にアウトサイダーが出現してそれまでの流行をひっくり返すことが繰り返されていて、そのうえ、ブリティッシュ侵略とかユーロ圏からのディスコの侵略まで度々あるもんだから、タルサ・ドゥーム世界本社は、アウトサイダーの出現やら海外からの侵略までコントロールするのは不可能だと考えて直接的な北米市場コントロールによる支配はハナっからあきらめてるんです。そのかわりに、北米担当のタルサ・ドゥームは、新たなアウトサイダーの出現とかをすごい注意深く観察していて、新しくこいつが流行りそうだと思ったら、新しく出現した奴と従来の市場のビッグネームを喧嘩させて従来のやつを貶めることで「新しいやつクール」みたいに流行を煽ったり、あるいは、新しく出現した奴を見えない鎖で飼いならすために「ギャングスタ!香りだぜ!」みたいなイメージを増幅させて新しいやつら同士の争いまで煽るみたいな悪辣な手段を使うんですよ……ほとんどのニンジャはそんなタルサ・ドゥームの戯言に惑わされずにラブとリスペクトでカラテをしていることは、さっき説明したとおりです。でも、中には、北米ドゥームの罠に嵌って犠牲になってしまう人もどうしても出てくるんです。北米ドゥームの手口は、アウトサイダー出現の効果をすごい増幅するっていう点で決して悪いとはいえない副産物も生むんですが、それでも、北米ドゥームによる犠牲の巨大さは決して忘れてはならないと思います。

北ドがこういう手口を使ってるってことは完全に証明されていて、有名な具体例として、カートコバーンとアクセルローズのケースがあります。もともとアクセルローズは新しい奴が出てくることに全然否定的じゃなくて、頼まれもしないのにNWAがクールだからって理由だけでNWAのキャップをかぶってNWAの認知に一役買って感謝されたり、無名時代のシャノンフーン(ブラインドメロンのフロントマンとして後にヒットを飛ばす)を大々的にフィーチャーしたデュエットをシングルカットしてヒットさせたりしてたんです。ガンズンローズィーズがインディーのふりしてデビューしたギミックへの負い目もあったのかもしれません。もちろんカートコバーンに対する悪意を持つ理由なんかなかったんですよ。なのに、北ドの手先は両者にデマを信じ込ませたり、デマを本気にしたほうが相手を攻撃する発言をすると大々的にメディアで取り上げるとかして、お互いがお互いを攻撃するように仕向けたんです。その結果は皆さんがご存知のとおりです。二人とも不幸になって、一人はもう取り返しのつかないことになりました。みんなそれを知ってるのに、北ドの狡猾さは常にみんなの一枚上を行っていて、さっき話したようなラッパー同士の抗争とかも起きたし、現在進行形でリアリティショーに飼いならされる大衆を生み出したりみたいなことがずっと続いてるんですよ……こういうことがあると、本当にシーン全体がおかしくなっちゃう悪影響はすごいでかくて、将来を嘱望されていたシャノンフーンもオーバードーズで早々に死んでしまい、ブラインドメロンはほぼ忘れ去られた状態です。それが僕には本当に気にくわないので、貼っておきます。


Blind Melon - No Rain (C) 1993 CAPITOL RECORDS 



いやー……やっと本題の中の本題に入れそうです。いちいち説明したり誤解を解いたりですごい長くなってますけど、僕には皆さんに一発で分かってもらえるようにできるようなカラテのスキルがないんで、仕方がないんです……けど、ここからする話は、ここまで読んでくれた人には少ない説明でも分かってもらえると思うし、何より僕自身が考えただけでムカついてくることを書くことになるので、ムカつきたくない人は帰っパしてください。


要するに、日本のショウビズとかのマインドはテキヤが仕切る興行の世界から全然抜け出せてないんですよ。見世物小屋を立てて「小屋の中には怪奇ヘビ女がいるよ!」みたいなプロモーションで客を呼ぶみたいな意識や手法が平然と横行してるから、あらすじとかを何でもかんでも説明するいらんお節介にまみれた予告編やポスターがあふれかえって、15秒の尺のCMにあわせた「親しみやすいメロディ(笑)」を「透明感あるボーカル(笑)」で歌う「サビ(笑)」を売りにする粗悪ポップスばっかりになるんです。あげく若者の音楽離れが発生して、その原因は、業界のほうがコンテンツの質の低下を積極的に進めすぎて、カラオケブームの時と同じような同調圧力で買わせる手法では買わせるのが不可能になるほど金を払う価値がないものばっかりになりすぎて飽きられてるってだけなのは明白なのに、ネットのせいとかにする。やつらがやってることは、断片的な情報でティーザーして「この中にはなにがあるのか秘密!」みたいに客の好奇心や想像力を頼りにするプロモーションとかとは逆なんです。つまり、最初から客の好奇心を殺すか好奇心を持った客をがっかりさせることが前提の手法という点で、これは完全に客をみくびってエクスプロイトの対象としか見ていないことを示す手法で、コンテンツの質で勝負するなんて意識は全くなく、いつの間にか成立した管理芸能界を通じた効率の良いエクスプロイトのシステムで金を稼ぐことに慣れ切ったタルサ・ドゥームからすれば、質の良いコンテンツの出現は、むしろ防止しないといけない、すくなくともメジャーで注目を集めるべきものではないってことになるんです(この点は後でもう少し説明します)。それで、偉そうに、客の好奇心や想像力を信頼したプロモーションが失敗したらどうするんだみたいな言い訳をあたかも正論のように振りかざして、自分たちの利益ばっかりに走って、エクスプロイトされた客に対する責任もコンテンツの質の低下に対する責任も、自己責任がどうのとか好きな人は買ってるんだから質の低下とか言ったらそのひとを傷つけるよみたいな詭弁を弄して、責任は微塵もとらないんですよ。

だから、やつらは「英語が分かんないのに洋楽を聞くとかカッコつけすぎだよねー」みたいな意見が正しいみたいな風潮とかをネットで作るとかの手段をものすごいバリエーション用意して実行して、受け手が積極的に冒険してみたい、ジャンルの壁の向こうの光景を見てみたいっていう動機を積極的に殺しにかかるシステムを構築してるんですよ。僕が最初のほうから問題にしてる「受け手スキルの高い低い」っていうのも、要するに、ジャンルの細分化とそれを通じたジャンルの壁による分断を推し進めるためのバリエーションの一つにすぎないんだってことは、ここまでくれば皆さんにも分かるとおもいます。「ラノベとか読んでるくせにラップを聞くなんて背伸びしすぎててダセー」って自分が言われたとしたら、どれほどの、理不尽に対する制御不能に近い怒りが沸き起こるか、どうか皆さんも想像してみてください。そして、どうか、分かってください。いや、まじで、そういうことを言うやつには、今度ポルトガル語分からないけどボサノバが好きなフランス人連れてってやるから、そいつに向かって「ポルトガル語が分かんないんならおとなしくフレンチポップス聞いてればー」とか言えるもんなら言ってみろってんだよコンチクショー。

……ごめんなさい。これでもだいぶ抑えてます。さっきから僕の中の逆噴射先生が「この程度では全ぜん甘すぎてはなしにならない」って言ってるのをなだめててもこうなります。もうすこしきをつけながら続けます。

「ラノベとか読んでるくせにラップを聞くなんて背伸びしすぎててダセー」みたいな話が聞こえてきても、それは所詮はネット上の匿名の書き込みにすぎないってこと、匿名ネットの性質上、常にその書き込みは誰かの意図的ななりすましや情報操作である可能性があること、そして「ラノベとか読んでるくせにラップを聞くなんて背伸びしすぎててダセー」なんてことをわざわざ書き込んで得をするのは要するにタルサ・ドゥームの軍勢くらいしかないこと(それ以外のやつにとってはそんなことをして時間を無駄にする動機がない)、以上を総合すると、皆さんが自分がディスられたと感じる書き込みは、合理的に考えて、皆さんをディスることを目的としているのではなく、管理芸能界のコンテンツ以外を摂取しようとすると制裁を受けるよとかお前がインディー好きなのはいいけどそれを広めようとしたら恥かくよみたいな思い込みをさせてタルサ・ドゥームの支配を維持・強化することが目的であると結論付けることが妥当です。実際のところ、ネットで誰もが意見を言えるんなら、糞みたいな掲示板やSNSは糞みたいな書き込みで情報操作に利用するってのが金儲けしてるやつらの当然の発想ですよ。わざわざ色んな金儲けをしているやつらが、仕事の一環で情報操作の書き込みをすることは一切なく、なぜかビジネス抜きで誠実に本心をわざわざ糞みたいな掲示板やSNSに書き込んでるって信じきることができる人がいたら、その根拠を教えてほしいくらいです。ネットの発達により、国境とかジャンルとかの壁が自然と消えていくなんて予想は、遠い昔の素朴な夢にすぎませんでした。そんなことになったら一番困るタルサ・ドゥームの勢力が、アホみたいな労力をつぎこんで、ネットを分断の装置に変えている。それが現実です。だから、皆さんがディスられたと思ったときは、ディスりに対して反論するのではなく、タルサ・ドゥームへの対抗策を積極的にとるのがお勧めです。

どういうことかというと、分断が当然っていう空気やジャンルの壁を意図的に自覚的に積極的に無視した時、そこにどのような言葉の強さや体験の強さ、そして、伝えることの強さが生まれるかっていうのを見せつけるんです。試しに僕がやってみますね。


「ヘンテコだけど、最高に熱くてロックで、無茶苦茶踊れるナンバーを紹介するぜ!デカい音で聞いてくれ!チェケラウ!」


Pharoah Sanders - You've Got To Have Freedom 





(なるべく最後まで聞いてから下にスクロールしていただければと)







……聞いてくれました?ジャケ写からしてもう危険なカラテが満ち溢れてるし、この爺さんの、実際完全に危険なアフリカカラテで殴ることしか考えてないっていうアティチュードが前面に出すぎてて、聞いてて思わず笑った人も多いのではと思うんですけど、皆さんどうでした?僕が初めて知って聞いたときは、その場にいた全員が笑い転げました。これ、もうジャンルがなんであろうと、カラテの熱さで踊らせて笑わせにかかってきてる時点で完全にニンジャですよ。

ここで注意していただきたいのが、この曲がレコード屋に行ったらジャズの棚に置いてあるジャズのジャンルに分けられてるってことや、この音楽が、ジャズよりもレアグルーブとかの文脈で評価されていることなんかをたとえ知っていても、紹介の際に体験前の人に教えることは有害でしかないってことです。「ジャズなんだ」とか「クラブなんだ」みたいな先入観で身構えさせることなく、まっさらな状態でカラテ体験をしてもらう。皆さんが伝えることに宿る強さは、ジャンルを問題にすることで確実に損なわれるんですよ。


なんかまた楽しくなってきたので、ついでにもう一曲いってみましょう。


「ジャンルなんて完全無視の俺が紹介するのは、マジで沁みるワルツだ。なるべくベースやドラムがしっかり聞こえる音量まで上げて、チルアウトしてくれ」


Wayne Shorter  Wild Flower 




(なるべく最後まで聞いてから下にスクロールしていただければと)









……聞いてくれました?……はい、そのとおりです。ごめんなさい。実際には全然チルアウトしないやつです。ジャケ写からして不穏なカラテを予感させてるので最初は身構えてしまい、曲が始まってからは静謐なワルツでチルアウトしかかっちゃうんですが、あれよあれよという間にアフリカワルツがその真の暴威を発揮し始めて、国境の壁やジャンルの壁をワルツカラテでなぎ倒し、なんかアイルランドかどっかあのあたりにある2時間サスペンスで犯人追い詰める断崖みたいなところに無理やり連れていかれて、彩度が低い曇天の下でしょっぼい野原に立たされて、ぽつんぽつんと地味な野の花が咲いてるような光景の中にいる自分が見えてきて、そこから潮風を浴びながら崖の向こうに広がる鉛色の海を眺めてると、不意に自分の中に、実際には見たことも行ったこともない場所なのに、その場所への胸かきむしられるような郷愁にも似た憧れのような感情が沸き起こってきて、いろんな国によって色んな言葉で呼ばれる、アメリカだとブルーズって呼ばれたり、ブラジルだとサウダージって呼ばれたりする、どんなに文化とかが異なってても人類みんなが共通して持っているあの感情が刺激されることが実感されて、人生がこの先どうなるかとか成功っていったい何なのかなんてさっぱり分かんないけど、多分、人生ってあの光景にたどり着くための旅なんだってことや、あの光景で待っているかもしれない人に僕は会いたいんだってことをガツンと分からせられちゃって、相変わらずワルツが暴れまわってる最中でもすげえ心に沁みてるみたいな体験だったでしょ?嘘でもいいからそうだったって言ってください。僕が喜ぶんで……マジで僕は最初に聞いたときに泣いたんですよ……こいつらは、ジャズレジェンドの夢の組み合わせなのに、ジャズらしさとか黒人らしさとかを要求してくるマーケットの都合を意図的に完全に無視して、ジャンルの壁をぶっ壊すことで溢れ出るワルツカラテの熱量によってすごい沁みさせて分からせにきてるんですよ……これはジャンルが何であろうと完全にニンジャです。

ここで皆さんにもう一つ分かってもらいたいのが、ジャンルを無視することで、なんかジャンルのタコツボのローカルルールが要求してくるお作法に則った正しい評価だの妥当な評論だのから完全にフリーになれるってことです。だから、どう体験してどう感じようと個人個人の自由だし、皆さんが伝えるときは、お作法なんか無視して、ただ体験だけを伝えればいいってことが可能になるんです。そして、その伝えかたが一番強くなると僕は信じてるので、ここでそのとおり試してます。場合によったらウソついてもいいと思います。コメディ映画のふりした宣伝をして、やってきた観客が予想外のホラーとか見せられて、それでもホラー体験がばっちりすごくて客が納得するなら、そういう嘘っぽいやつもありなんだと僕は思うんです。

それとさっきから意図的にジャズから引用してるんですけど、これも理由があって、ジャズたこつぼに好んで棲息してる人たちには「ジャズは他のジャンルより高尚で偉い。だからジャズが好きな俺は偉い」「ジャズは思想だ。だから思想があるので高尚だ」みたいなことを本気で信じてる人が他のジャンルタコツボよりも多くて、そんな人はごく一部にもかかわらずそういう人が目立つせいで、ジャンルの壁が分厚くなってる例がほんとに多いんですよ。あくまで僕がそう思うだけなんですけど。「ジャズ」とかジャンルとかを意図的に無視すれば、ニンジャのカラテは誰にでも一発で伝わるのにそうならないのはすごい悲しいので、皆さんも、どうか、ジャンルは無視してください。

あ、補足しますと、自分が作るときに、その表現スタイルとしてどういう手段を採用するかっていう面でのジャンル分けは当然ありますよ。けど、出来上がった作品については、たとえ作った本人でも、ジャンルを区別するっていうのは有害です。「俺はSFを書くぜ」はいいですけど「俺はSFを書いたんだからSFとして読め」みたいなのはダメなんです。こういうのは、本当に広まることを阻害すると僕は思います。だから僕はカクヨムの類には一切手をだすつもりはありません。

それとついでにお願いが一つあります。さっき紹介したワルツのやつですけど、このへんのアフリカワルツとかは完全に手つかずの鉱脈だと僕は思ってるんで、もしDJとかトラックメイカーとかのかたがいらっしゃいましたら、僕のかわりにこのへんの鉱脈を掘ってみてくれませんか?僕は口ばっかりでトラックメイカーとかの能力は全然ないので、僕のかわりに、どうかお願いします。

それで……とうとう、本当にどうしようもない絶望について説明するときが来ました。

タルサ・ドゥームが受け手をジャンルとかスキルの高い低いとかで分断する試みは、受け手の側が「そんなの単なるタルサ・ドゥームの幻術で、本当は存在しない壁だ」って言い切ってやることで破れる可能性があるってことはお話ししたとおりです。

でも、タルサ・ドゥームが同時にクリエイター側に仕掛けてきてる罠に関しては、どうにも、僕がどんなに声を張り上げてもクリエイター側に声が届く可能性がめちゃくちゃ限られてるので、正直もうどうしようもないんです。

つまり、こういうことなんです。さっき、海の向こうで技術が連綿と受け継がれて文化の連続性が保たれることで文化が発展して新しいものがうまれるとともに、クオリティの面で競い合う環境になるし、古いものや昔のものの魅力の再発見が絶えず起こってるっていう話をしたと思います。これが起こってると、いくらタルサ・ドゥームが受け手側を分断して支配しようとしても、受け手側はおのずとより高いクオリティの作品を求めるようになるので、タルサ・ドゥームの目論見は頓挫する可能性が出てくるわけです。だからタルサ・ドゥームは、クリエイター側にも罠を仕掛けて、高いクオリティの作品がメジャー化する可能性を潰してくるわけですよ。それで現に、身近なコンテンツを見ても、ジャンプシステムとかの自然発生的な競争システムを通じて巨大市場になったマンガ業界や、最初から国際市場をターゲットに入れてるヴィデオゲームみたいな分野の例外を除いて、もっと基本的な音楽や映画の分野でメジャーコンテンツとされるものに技術の継承と文化の連続性みたいなのがあるかというと、そんなのが日本で全然みられないというのが僕の考えです。まあ、マンガも最近ちょっと怪しい感じになっているような感じがするんですけど……

皆さんの中には「コンテンツのクオリティの面で競争しても北米みたいにタルサ・ドゥームが儲かるんなら、結局コンテンツのクオリティを制限する陰謀なんて無意味だから、君の考えてることは単なる妄想だよ」っていう当然の指摘をする人もいるかとおもいます。ですが、次の2点を考えてみてください。

まず1点目ですが、実はクオリティ競争でクオリティが高い作品が生まれるかどうかという点は、完全にクリエイターのスキルに依存することなので、クオリティが高まる方向でのタルサ・ドゥームの策略っていうのが事実上不可能なんです。タルサ・ドゥームがどうがんばっても、クリエイターが実際にどれだけクオリティを高められるかは、タルサ・ドゥーム側から見たらコントロール外の要素になっちゃうんですよ。すなわちギャンブルです。

それで2点目なんですが、クオリティ競争が完全ドメスティック市場内で行われるのであればともかく、開かれた競争の環境は、海外コンテンツと国内コンテンツとを全然区別しないクオリティ競争になることは避けられません。北米音楽市場でクオリティ競争ができるのは、北米由来大衆音楽が全世界的な覇権を握っていて、北米市場で勝ったやつのコンテンツで海外売り上げも見込めるし、たまに流行を過度に煽って犠牲者とかを増やしつつ北米市場の競争を通じてタルサ・ドゥームが儲かってる状況が続くのであれば、たまに海外発ヒットが出たところでそんなに北米ドゥームは困らないという余裕があるからです。日本ドゥームから見ると、完全に国境をとっぱらった競争にすると、従来ドメスティックコンテンツで得ていた儲けが海外ドゥームにかっさらわれるリスクがでかすぎるわけです。さっき言ったとおり、国内コンテンツで高いクオリティの作品が出てくるかどうかすらギャンブルな上、海外コンテンツと勝負できるやつが出てくるかどうかは、もう分が悪いギャンブルとしか言いようがないからです。

このように、国内でのクオリティ競争が行われる環境は、受け手が海外コンテンツに目を向けてしまって国内コンテンツの売り上げ低下につながる可能性がある以上、ひとたび管理芸能界で楽にエクスプロイトするシステムが成立しちゃった日本ドゥームとしては、リスクを招く高クオリティコンテンツの出現は憎むべきものになるんです。技術が連綿と受け継がれて文化の連続性が保たれることで文化が発展することは、このような理由で、タルサ・ドゥームによる妨害を受けるわけです。そこでタルサ・ドゥームが実行する策略は、技術の継承ラインの断絶です……だからやつらは「作家性」っていう言葉を使ってそれを実現させてるんですよ……

具体例を挙げます。昔、黒澤明という偉大な魔術師が存在して、フィルムカラテで全世界に分からせていた時代がありました。黒澤のフィルムカラテで殴られたスコセッシとかスピルバーグをはじめとする全世界のフィルム・ニンジャクランの構成員は、即座に思い知らされたのでこぞって黒澤のまえにこうべを垂れてドゲザし、黒澤のマーシャルアーツを我が物にせんと修行にはげみました。そういう修行をしつつも、ちゃっかりオズ・ニンジャやその他の神話級リアルニンジャのワザマエも学習したりして、完全にぬかりなくやってました。修行の途中でゴダール・ニンジャとかに乗り換えたやつも当然いましたが、その是非や偉大なるニンジャ同士の優劣を気にする奴なんかほとんどいませんでした。そうして、黒澤という巨人の肩を目指して必死によじ登り、その肩に立った者だけが行うことができるシンピテキなハナミ儀式を行い、ほんの少しでも黒澤の上に独自のカラテを積み上げるというフィルムの神への貢献を示すことでリアルニンジャとなり、やがては偉大なる黒澤フィルムに匹敵し、あるいはそれを超えるとの評価を受ける作品を生み出していくというミーミーの継承を行っていったのでした。

一方、黒澤の故郷である日本では、黒澤のカラテは学習で習得することができるものではなく、黒澤独自のインスピレーションが黒澤のカラテの根源なのであって真似しようとしても無駄であり黒澤は突然変異の天才だ、いきなり日本のフィルムメーカーが全世界から賞賛を受けるという異常事態が発生していることがそのことを証明している、だから、おまえはおとなしく、黒澤独自のインスピレーションとその発露たる黒澤のカラテを「作家性」と呼んで賞賛するにとどめ、黒澤の真似をしようなんて考えは金輪際捨てろという、評論家を名乗る腰抜けどものいうことが正しいとされていました。なんでこんなことになっちゃったのかというと、いきなり日本の黒澤が全世界を屈服させたというのが同じ日本人として信じられなくて正直ビビってたというのもありますが、それまで、日本映画は日本人の好みにあわせてドメスティックに作ってるから海外のやつにくらべて日本人向けの良さがあるんだよみたいな甘言や英語分からないくせに吹き替え版を見ずに字幕版にこだわるとかチョーダサイみたいな戯言でドメスティック映画市場を育ててたのに、いきなり日本映画が普通に海外で通用したために日本映画が日本人向けみたいな戯言が大嘘だとバレちゃう危険があり、そうすると黒澤フォロワーを自任するおっちょこちょいどもが大量出現し自分もカラテで勝負するぜとかイキった挙句、海外ニンジャにことごとく敗れ去り、せっかく育てたドメスティック映画市場が海外ニンジャに食い荒らされる危険があるとタルサ・ドゥームが考えたからです。そこで、タルサ・ドゥームは子飼いの評論家とか抜かす腰ぎんちゃくどもの戯言を意図的にアンプリファイして、お得意のクウキシハイ・ジツを発動したのです。

ですが、タルサ・ドゥームの真の邪悪性はこんなとろこでとどまるものではありませんでした。タルサ・ドゥームは、念には念を入れて、あろうことか黒澤その人を甘言で篭絡することにしたのです。そして、不幸にも、その目論見は成功したのです。

その手口はこういうものでした。まず、アンプリファイされた賞賛を黒澤に浴びせるようにします。いかな黒澤であってもクオリティを信念に基づいて磨き上げた傑作と自負する作品が国内外で正当な評価を得ることでやりきった感で充実し油断することは完全には避けられません。そのために多少の慢心が生じても黒澤だけを責めることは難しいでしょう。そして、タルサ・ドゥームは、その賞賛のアンプリファイ度をどんどん高め、黒澤をまるでエンペラーの如く賞賛することすら平気でやり、同じ賞賛を世間にまき散らしたのです。このような策略とクウキシハイ・ジツの相乗効果で、黒澤は孤高の存在へと押しやられ孤立し、その傲慢さが目立つようになってきました。当然、黒澤自らがその技術とミーミーを次世代に継承させようなんて様子は微塵も見られません。いつのまにか、自分の業績は全て自分の作家性に起因するものだと思い込まされるようになってしまったからです。すると今度はタルサ・ドゥームは、その黒澤の傲慢さをアンプリファイして拡散し、自分の責任は棚に上げて、わざとニュービーニンジャたちに聞こえるように「黒澤エンペラーのやることだから仕方ないけど、それ以外のニュービーどもが黒澤を目指したら仕事はないものと思え」みたいなことを話すのです。皆がタルサ・ドゥームの陰謀に気づいたときには既に遅し、たとえ黒澤を目指し自らのカラテの研鑽を志す者がいても、管理芸能界が設定した予算と納期に従うほかなく、自由にカラテを振るう環境などとうに奪われてしまったあとなのでした。こうして、日本では、脚本とかが影も形もないのに「原作マンガやアニメのファンが多いので、そのファンの取り込みを狙う」という常套句が会議で通りやすいからという理由で通った実写化企画を、いきなりゼロから脚本書いてリミットまでに撮影を完了しろとクリエイターに押し付けることが当たり前のようになり、真の新たな才能は、タルサ・ドゥームの目を逃れたところから飛び出してメジャー市場にアンブッシュを決めるという極めて困難な試練を乗り越えねば登場できなくなりました。黒澤は、エンペラー扱いされて以降、ついに全盛期のカラテを取り戻すことなく、この世を去りました。

とはいっても、過去を振り返ると、希望がなかったわけではありません。実写映画が完全に夏枯れの時代を迎えたのちでも、アニメの分野では、ヤマトやガンダムといった作品がタルサ・ドゥームのコントロール外からスマッシュ・ヒットを決めることがありました。ただ、タルサ・ドゥームは、こういった作品を、狭いアニメファン向けのコンテンツと侮り管理芸能界への影響は小さいとみていたため、これが幸いし、アニメの分野はタルサ・ドゥームの目が届きにくい聖域となり、独自の発展が行われました。そして、ついに、高畑勲と宮崎駿という二人の偉大なる夢見人の王が共同統治する王国が、人類すべてを対象に分からせる時代が到来したのです。ですが、その夢の王国の末路もまた悲しいものにならざるを得ませんでした……


……すみません……朝起きてここまで読み返して、何で途中から昔話になってるのか自分でも分からないので修正していきます。こんな駄文に先週も今週も週末をつぎ込んでるせいでぜんぜんゼルダが進まないのに、何で僕はこんなことやってるんでしょうか……あとタイタスクロウサーガの悪影響が出てますね……つい先日邦訳版が完結したタイタスクロウサーガは「帰還」あたりからものすごい読んでてパルプがキマり、最後にはマジで神話を終わらせにかかってくるのでおすすめです……


要するに、ついにジブリの玉座に次代の王が君臨することなく王国がその廃墟を晒している理由は、受け手側に対するジャンルの壁による分断と、クリエイターに対する「作家性」という言葉を使った神格化にあります。ジャンルの壁をとっぱらっちまえば、ジブリの技術の基礎は実写映画の文法にあることは明白です。「自転車泥棒」でチーズはさみ揚げをちびっこがかじってチーズがにゅーんて伸びるところとかはまんまジブリ飯ですし、ラストでカメラがちびっこの周りをぐるーんと回るカットなんかはそのまま未来少年コナンのラスト近くでぐるーんて回るカットとかに引用されてるほか、すごい「これジブリでみたやつだ」がたくさん含まれてます。「ミツバチのささやき」とかはハイジとか母を訪ねて三千里とか赤毛のアンとかにすごい沢山引用されてるというか、それは単なる僕の勘違いで、ただ単にビクトルエリセも高畑勲も同じような映画から映像文法の作法を作り上げてるから同じようなテイストになってるだけかもしれません。多分そっちのほうが可能性高いか……誰か僕なんかと違って本当に映画に詳しい人が、ジブリが引用したカット元ネタ一覧表とか作ってくれませんか。これがあれば何を学ぶべきか一発で分かるし、過去の遺産の上に駿とかが乗っけた独自性も明確になるので、後進の人たちがすごい捗るはずであり、人類への貢献は計り知れないと思います。

それで、映像の文法を優れた映画を通じて身に着けた駿ですが、駿のイマジネーションの世界とか飛翔のイメージとかは実写映画では具体化できません。だから駿はアニメカラテを振るうのですが、たとえアニメでも、技術的には実写と同様の映像の文法を使ってカット構成し編集しているのであり(もちろん2次元に落とし込むために適切なデフォルメを入れたりする)、そこに駿オリジナルの腐海に脅かされる世界と、駿でしか、アニメでしか表現できない(できなかった)蟲愛ずる姫の飛翔の躍動感がのっかればジブリの出来上がりなんです。駿はアニメファン向けのアニメコンテンツとして作ってるつもりは毛頭なく(当然そんなことアニメファンに聞こえるように発言することはない)、単にアニメを表現手段とした映画として作ってるので、姫は全然観客に媚びておらず、それどころか、でかいオームに優しくしたかと思いきや突然ブチ切れて一瞬のうちに観客が目で追い切れない速度のカラテを繰り出しトルメキア兵を殺す。んで、人をブチ殺しときながらすぐに冷静に戻る。こいつ命の重みの基準とかが一般人と違いすぎる。観客は、こいつはアニメヒロインではなく神性を帯びたなんかとして物語に関与するのだと分かり、以後、アニメヒロインべったりの視線ではなくて観客と姫との間に適切な距離感が生まれので、観客の関心のバランスが、谷や姫の行く末と、もっと広いスケールでの世界の運命とに適切に振り分けられ、世界系みたいなのには全然ならない。だから体験し終えた観客の中には「谷や姫が助かってよかったね!」みたいなハッピーエンドの余韻ではなく「人類の宿命と傲慢さ……」みたいなのが宿るんです。

それなのに、ジャンルの分断が続きクリエイターが神格化されると何が起こるか。駿フォロワーを自任しクリエイターを目指す者は、誰しも最初は受け手側だった。そういった人たちが「アニメはアニメ、実写は実写であり別物」というタルサ・ドゥームによる洗脳を解かれぬまま目指したところで、神格化された駿の表面的な技術のみを必死に模倣するだけである。駿のアニメ技術は、土台は実写と共通する映像の文法にあるのだが、実際に作られたアニメでは、映像の文法は2次元向きにチューニングされている。そのことに気づかず駿を模倣し、アニメの範囲内だけで技術を積み重ねると、その映像文法はアニメ特化し、やがて、アニメ映像は、普遍的な映像の文法の基礎からかい離する。実際既にかい離している。もっと具体的にいえば、駿は脳内に実写のカメラがあり、脳内で実写撮影のカメラワークとかを想定しながらカットを決めていくが、タルサ・ドゥームの洗脳を受けたままの弟子は、アニメの画面にどう映すかという発想しか持ちえない。脳内実写カメラがある駿は、脳内世界に役者を登場させ、登場人物にどう演技をさせてそれをどう撮影するかという発想ができるし、実写では不可能な(不可能だった)カメラの位置やカメラの移動をアニメ内で実現することの絶大な効果を理解しているが、脳内実写カメラがなければ、単にアニメの画面のなかでキャラクターをどう動かすかという発想しか出てこない。だから、昨今のアニメは、いい加減現実からかい離しすぎの突飛な髪形やコスチュームの色分け、あるいは「〇〇ですの~」みたいなわざとらしい語尾を各キャラごとに用意するみたいな手段でしか登場人物の区別をすることができない。少なくとも、そういった表面的な手段での差別化を排除することへの勇気を持つことができない。そこには、人格を持たぬ記号としてのキャラクターしか創造できないクリエイターが残るのみである。これが、30年も昔のジブリの名作に感じられる躍動感を現在のアニメに見いだせない理由だ。だから、玉座を継ぐものがいないのだ。


いやー……なんか読み返して恥ずかしくなってくるんですけど、初期衝動でハードコアで貫くことにしてますので、この文章のまま残します。正直、僕がグダグダ書いてることが全部間違いで笑いものになっても全然かまわないんですよ。問題提起にさえなれば十分なんですよ……それで、僕の間違いが指摘されて僕なんかよりもずっと良い説明がでてくれば、結果としてタルサ・ドゥームへの対抗手段が強化されるんですから……だから、ポジティブな手段として、僕は自分の正しさへのこだわりを一切捨てて言いたいことを言うようにしてます。

だから、この事実だけは皆さん認識してください。ジブリアニメの影響は絶大で、ディズニーとかピクサーとかの奴らが、アニメ映画は子供向けとかオタク向けとかの限られたマーケットよりもはるかにデカい市場で勝負できるものになりうるっていうことをジブリによって気づかされたんです。それで、ディズニーとかは実際にスタジオ体制を刷新して、年齢層を問わないアニメづくりにシフトし、脚本チームとか職人チームとかのリソースを投入してハリウッドビッグバジェット映画と同様のチームワークで練り上げることを始めて、現在巨大な成功を収めています。結果ぼくはゾウさんで泣きました。目玉監督の作家性なんてものに頼らずに成功させてるから、実写とアニメとを問わない映像文法のさらなる開拓(シングなんかはヴィデオゲームのカメラワークを積極的に導入してました)は続き、文化の連続性と発展はこれからも維持されるでしょう。かたや、ジブリは後継者が出てこなくて消滅です。つまりスタジオ設立前の昭和40年代から続いた文化の消滅です。それが事実です。僕がグダグダ開陳した理由が全部間違いでもいいですから、皆さんで、なんでディズニーが復活して成功したのにジブリが消滅するのかってことを考えてほしいんですよ……

皆さんが僕に正しい回答をくれないと、僕はいつまでも、何でもかんでもタルサ・ドゥームのせいにして、管理芸能界を通じて強固なエクスプロイト体制となったシステムに立ち向かう方法をあれこれ考えないといけないんですよ。その結果、これまでグダグダ述べた通り、ジャンルの分断とクリエイターの神格化は具体的に説明できる経路をたどってコンテンツと文化を殺すってことを本気で信じています。クリエイターの神格化は他人がクリエイターをどう評価するかの問題だからタルサ・ドゥームどうこう関係なく僕にはどうしようもないですけど、ジャンルによる分断は断固拒否するっていうアティチュードは必須だと思います。

つまり、アティチュードは必須です。だから、最後に、単なる精神論じゃなくて、具体的な技法・技術の実践にアティチュードがどういう意味を持つかについて書きます。




「悪童日記」でアティチュードによる文章作法をキメろ!そしてその先を目指せ!


……すみません。なんか偉そうに命令口調ですけど、実際のところ、これから書くことはごく最近気づいたばかりのことなんです。けど……僕がそもそもnoteアカウントを作って駄文を書き一人いい気になってる理由くらいはきちんと説明すべきだと思いますし、僕なりに気づいたことがあるっていうことは、要するに、少なくとも僕が知る範囲では、僕が気づいたことを明示的なノウハウとして指摘している人がいないということを意味すると思いますので、書こうと思います。

それで、最近になってnoteアカウントを作って駄文を書き一人いい気になってる理由、そして、これから書くことに気づかされたきっかけというのが……

逆噴射総一郎先生なんです。

逆噴射総一郎先生のことをご存じないかたのために、参考記事を添付します。


他の逆噴射先生の無料公開記事は

https://note.mu/gyacko/m/m7493f4a36947

で公開されています。

実のところ……前から逆噴射先生をご存知の皆さんも今知った皆さんも、正直言って、逆噴射先生のことを絶対誤解してると僕は思うんです。逆噴射先生は、決して、唐突に「メキシコ」「真の男」といった言葉をぶち込んだりして笑わせる面白記事を書く人に留まるものではなく、さりげなく、途轍もないテクニックを開発しながらそれを全然自慢することなく、前衛的な文体の技法とリーダビリティーを両立してるんですよ。そのことを僕が把握できた範囲で説明したいと思います。

と……相変わらず偉そうな態度が続いてるんですけど、実際のところ、僕も最初は逆噴射先生の文章で大爆笑し、どうにかしてこの文体を模倣してふざけて遊びたいっていうのがスタートだったんです。

で、試しにやってみたんですが……これが全然うまくいかないんです。特徴的な変な言葉づかいで笑える記事だったら、なんかあの2ちゃんねるのコピペみたいなやつみたいに、逆噴射先生の文章を適当に改変すれば簡単に逆噴射クローンの出来上がりってなるはずですよ。それなのに、全然うまくいかない。なにより、原文のリーダビリティーが損なわれるんですよ。つまり、逆噴射先生の文章は、表面的な目立つ言葉遣いだけに着目すると見落としてしまう、文章の裏に隠された文体の技法があるってことです。

ここは凄く重要なポイントなので、皆さんにも、今一度よく考えてほしいんです。できれば、前から逆噴射先生をご存知のかたも、先に貼った「ゲットダウン」の紹介記事を読んでいただければと思います。圧倒的なリーダビリティーのせいで隠されているすごく単純な問題があると理解してほしいんです。つまり

読者を「おまえ」呼ばわりする、「メキシコ」「ハイボレア」等の内容とは無関係な単語が唐突に登場しまくる、「スマッホ」といった誤字脱字だらけの文章が、なぜこれほどまでに読みやすく、しかも紹介するコンテンツの魅力はきちんと読者に伝わるのか?それは単に文章力といった曖昧な評価軸で説明されるべきものか?それとも、もっと意図的な計算があるのではないか?

という根本的な疑問が僕の中で浮かんだんですよ……で、考えてみた結果、結論から言いますと、逆噴射先生の文体は「悪童日記」に示された方法論のようなアティチュードの明確化を文章に直接反映させる技法を拡張した上で、更に独自の記号論の応用を行ったものであるとの結論に至りました。

(編集部注:繰り返しますが、本記事はあくまで先生の独自見解を述べるものであり、先生の見解の正確性ないし妥当性は一切保証されておりません)


そこで、まずは「悪童日記」に示された方法論に触れたいと思います。


悪童日記(Amazonリンク)

戦争が激しさを増し、双子の「ぼくら」は、小さな町に住むおばあちゃんのもとへ疎開した。その日から、ぼくらの過酷な日々が始まった。人間の醜さや哀しさ、世の不条理―非情な現実を目にするたびに、ぼくらはそれを克明に日記にしるす。戦争が暗い影を落とすなか、ぼくらはしたたかに生き抜いていく。人間の真実をえぐる圧倒的筆力で読書界に感動の嵐を巻き起こした、ハンガリー生まれの女性亡命作家の衝撃の処女作。

……なんかいかにも読書界とか(いやマジで読書界ってなんだよ)感動の嵐とかブンガクっぽい感じがして敬遠されちゃうかもしれませんが、商品説明に騙されないでください。実際には、完全に画太郎ババアとしかいいようがないババアと、ヒューマニズムのためなら手段を択ばない暴挙に及ぶハードコアパンクの精神の具現化としかいいようがないガキどもが無茶苦茶をやる話で、つっけんどんな文章に慣れてしまえばあとは疾走するだけのすごいグルーブする小説です。ちなみに、作者のアゴタ・クリストフは、プロの文章作成の作法の秘密みたいなのを、デビュー作だったんでこの作品で素人感覚であっさりバラしてしまったので、その後、タルサ・ドゥームの策略であっというまに「作家性」とか言われるようになってしまい、ついぞこのデビュー作を超える小説は書けませんでした。

それで、この悪童日記なんですが「ぼくら」が淡々とつっけんどんに出来事を記載した日記というスタイルで書かれているんです。それで最初は読者が戸惑うことは織り込み済みということで、かなり最初のほうで、「ぼくら」が何でこんな文章のスタイルを採用するのかっていうアティチュード宣言があるんです。作中から引用しますと

「クルミの実が好きだ」という場合と、「おかあさんが好きだ」という場合では、「好き」の意味が異なる。前者の句では、口の中にひろがるおいしさを「好き」と言っているのに対し、後者の句では、「好き」は、ひとつの感情を指している

ので、

「好き」という語は精確さと客観性に欠けていて、確かな語ではない

ことから

感情を定義する言葉は非常に漠然としている。その種の言葉の使用は避け、物象や人間や自分自身の描写、つまり事実の忠実な描写だけにとどめたほうがよい。

だから、

ぼくらは、「ぼくらはクルミの実をたくさん食べる」とは書くだろうが、「ぼくらはクルミの実が好きだ」とは書くまい。

というスタイルを採用するというんです。

ちなみに、なぜ、「確かな語」の使用にこだわるのか、また、なぜ、そもそもこのような日記を書くのかというところまでは作中では明示されていません。このあたりは、「ぼくら」の行動原理にかかわることなので、読者の判断にゆだねられているということでしょう。なので、あくまで、文体に直接かかわる部分に限ったアティチュード宣言となっています。

さて、このアティチュード宣言ですが、このアティチュードに基づく文章は独特ですから、ある程度は「ぼくら」の上記の説明がなくてもその文章の特徴は読み取ることはできますし、文体の傾向なんかも読み取ることは可能です。そこで、「特徴的な文体は、筆者が持つアティチュードの文体への意図的な反映である」と仮定することができれば、「文体からアティチュードの推測が可能」ということになります。特に、異なる記事と記事とで、また同一の記事の中で反復される一定の傾向等があれば、それはアティチュードの反映であるといいやすいでしょう。この仮定に基づいて、逆噴射先生の文章を検証しました。なお、検証にあたっては、

ダイハードテイルズ出版局活動月報

に課金することで読める記事も検証しており、そのため、逐一検証した対象をここで引用することはできないことをご了承ください。

では、以下、逆噴射文体の特徴とそこから読み取れるアティチュードを列挙していきます。なお、列挙の順番はかなり適当です。


1 「おれ」と「おまえ」

ほぼすべての文章が、逆噴射先生である「おれ」が「おまえ」に語りかけるスタイルとなっています。ドラマ等を紹介する記事もです。紹介ではなくレビューの体裁では独白となっています。そんなの見ただけで分かるかもしれませんが

2-1 執筆の目的は「おまえに」「分からせる」

この「分からせる」の目的のためにこそ、「おれ」が「おまえ」に語りかけるスタイルを一貫させる姿勢をアティチュードとして自覚的に採用しているといえます。

2-2 フェイストゥフェィスのスタイル

単に架空の「おまえ」を設定したスタイルではなく、常に具体的な「おまえ」の置かれた状況等を想定しながらの会話を想定しています。そのため、「おまえ」との論争や「おまえ」に対する直接的な非難等はおこなわれていません。そのような他者との論争や他者に対する非難等におく価値は低いかあるいはまったくの無価値というアティチュードを貫いていると思われます。このようなアティチュードは別なところにも反映されていることは後に紹介します。

3 「真の男」と「腰抜け」あるいは「タルサ・ドゥーム」

これらは必ずといっていいほど逆噴射先生の文章に登場しますが、実は、後に触れる「メキシコ」といった言葉の使用法とはかなり異なっています。「メキシコ」が何なのかは皆さんは「国家の名称である」と知っているので、国家の呼称が問題になるような文脈でもないのに「メキシコ」という言葉が使用された場合、その作品の中での独自の記号性を帯びます。しかし「真の男」「腰抜け」「タルサ・ドゥーム」といった言葉はその本来の定義というのがほとんど曖昧であり、作品中でも、それらが具体的に何を指すのかも具体的に示されません。ただし、用法は一貫しており、「真の男」とは逆噴射先生が重んじる価値観ないしはその価値観を体現する人物、しばしば逆噴射先生自身のことであり、「腰抜け」はそれに反する価値観あるいはそのような価値観を持つ抽象的な誰かとされ、「タルサ・ドゥーム」は、「腰抜け」の価値観が蔓延った結果の抑圧状況を呼称する語として使用されます。ですので、これらの語は、単独では単に、逆噴射先生が信奉する価値観とこれに反する価値観の対立状況を表すものであり、他の記号との兼ね合いで、初めて記号性を帯びるものといえます。

4 評価、特にネガティブな評価や非難の欠如

逆噴射先生の文体からはなんだか乱暴な印象を受けますが、実は、他者に対するネガティブな評価や非難は全くといっていいほどありません。一部の例外を除けば抽象的な何かや誰かを「腰抜け」「あほ」呼ばわりした場合でもこれは、「自分の価値観に反する」との指摘を代替する表現に留まっていますし、どう腰抜けなのか、どうあほなのかといった点の具体的指摘も全く欠如しています。「タルサ・ドゥームはモルドールの地割れに落ちろ」、あるいは、「腰抜けは死ね」といった類の悪口に及ぶことは一切ありません。「おまえ」に対して頻繁に腰抜け呼ばわりしているのではないかという印象を持たれるかもしれませんが、注意深く読むと「そんなことをしてたら腰抜けになるぞ」といった意味の文脈での注意喚起等となっており、一部の例外を除き、「おまえ」あるいは特定の誰かを「腰抜け」と断定することはありません。逆に、ポジティブな評価も具体的なものは「ドリトスチョーうまい」といった、褒めているというよりも自らがドリトスを好んでいる事実の宣言の修辞的表現にすぎないものであり、結局、ポジティブな評価も見当たりません。「ゲットダウンは凄い」という表現はしても、これは、逆噴射先生がゲットダウンを好んでいるという宣言以上の意味はなく、どこがどのように良いとか素晴らしいといった具体的な指摘はありません。

5 体験を通じた紹介

先ほど述べた評価の欠如に伴い、逆噴射先生は一貫して主観的な感想といったものを排除しています。あるドラマに逆噴射先生がどういった感想を持ったかという記述は徹底的に排除され、そのかわりに「俺の口の中はからからにかわいた」「俺は〇〇と分かった」といった、体験及び体験がもたらすリアクションが一貫して語られます。ついでにドリトスやビールを摂取する描写が入ります。そして、ドラマの紹介等に顕著ですが、逆噴射先生は、あらすじやプロットの紹介を装いながら、常に、人物を取り巻く状況の紹介、その状況を構成する要素の紹介、および、上記の要素がどのような働きによって状況を構成するのかに関する端的な説明を重視しています。すなわち、逆噴射先生は、どういうプロットが生起するのかの紹介ではなく、ドラマを駆動する装置の紹介を通じて、ドラマを通じた体験の予感を読者にもたらすことを重視しています。

6 「メキシコ」及びこれに関連する記号

さて、肝心の「メキシコ」「ダニートレホ」「バンデラス」といったメキシコ関連用語ですが、これは、作品の冒頭近くで意図的に実際のメキシコとは無関係な文脈で用いられ、必ず、映画「デスペラード」関連の用語、および「すぐ殺される」といった端折りすぎの極端な状況がセットになっています。その意図は、ほとんどカリカチュアといえるほどの想像しうる最悪の過酷さを体現した大地という、現実からかい離した作品中のみで意味をなしうる記号性を「メキシコ」に与えることであることは明白です。これは、最終的な逆噴射先生の狙いにとって、極めて重要です。読者は皆、逆噴射先生の作品を読みながら「逆噴射先生にとってメキシコって何なのw」といったツッコミをしつつ、頭の中に、現実からかい離したファンタジーとしてのメキシコを思い浮かべますが、実際には、逆噴射先生は、逆噴射先生が考えるメキシコとはどういったものかという説明は一切していません。つまり、読者の側で勝手に「メキシコ」にファンタジー的な意味合いを含む記号性を与えてしまっているのだということに注意してください。

7 読者に委ねられる記号の重層化

これまで述べてきたとおり、逆噴射先生の際立ったアティチュードは、一切の主観的評価の表明を拒否するというものです。そして、「ゲットダウン」の紹介記事を例にとると、逆噴射先生は「ニューヨークは過酷だ」とも「ニューヨークはメキシコのように過酷だ」とも表現していません。逆噴射先生の採用する記述は「ニューヨークはメキシコだ」です。この文章を受けて読者がニューヨークにどのような印象を持つかは、実は逆噴射先生の言及するところでは全くなく、先ほど述べた、読者が勝手に連想し記号化した逆噴射先生にとってのメキシコ(と勝手に読者が思っているもの)により決定します。そして、同時に、ニューヨークの過酷な状況を勝手に連想した読者は、「ゲットダウン」に表れるニューヨークに過酷さをもたらす要素を、記号としての「メキシコ」に追加あるいは上書きし、読者の中の「メキシコ」が持つ意味は重層化します。つまり、逆噴射先生がドラマを紹介する文章を読んでいるはずなのに、読者は逆噴射先生の感想ないし評価は全く読み取っておらず、逆噴射先生が本来行うべき評価は、全て読者の側で勝手に行われていることになります。

8 不在の魔術師

以上のとおり、逆噴射先生の作品の文中には、逆噴射先生の主体的な意思の表明は全くありません。逆噴射先生は、主観的評価の表明を一切拒否し、読者の予感に作用しうる要素を提示するのみで、記号への意味の付与は完全に読者に委ねられています。逆噴射先生が顔を出すのは、せいぜい、末尾で(逆噴射総一郎プロ)といったパンチラインを決める存在として登場する場面のみです。逆噴射先生は、あなたが勝手に「メキシコ」に極端な記号性を付与するよう仕向け、そして、「真の男」は「メキシコ」で生き抜く存在であり、「腰抜け」及び「タルサ・ドゥーム」が真の男と対立関係にあるという設定を与えただけです。そして、ニューヨークはメキシコであるとの言及により、あなたは、「ゲットダウン」の構成要素を用いた「メキシコ」そこに生きる「真の男」、「腰抜け」そして「タルサ・ドゥーム」の意味合いをおのずと肉付けすることになります。

つまり、逆噴射先生の作品は、実はあなたに対する問いかけであることを一切隠した問いかけなのです。逆噴射先生の作品には一切直接の問いかけとなる文章はなく、したがって、問いかけの主体たる逆噴射先生も存在しないといえます。逆噴射先生が言及する「メキシコ」「真の男」といった単語は何を意味するのかは、完全に読者の判断にゆだねられるという意味で、逆噴射先生の作品は、読者に対して「真の男とは何か」と問いかける逆噴射先生を読者の内面に植え付ける装置であり、決してコラムではありません。「ゲットダウン」を紹介するかのようにみせかけた作品をあなたに読ませることで、逆噴射先生は、あなたに対し、既に、ゲットダウンを見るかどうか、ゲットダウンを体験することで真の男について考えるか、真の男ならばタルサ・ドゥームに立ち向かうか、といった問いかけをあなたの中に常に内在化させることに成功しているのです。あなたの外部には一切そのような問いかけをする存在はなく、あなた以外に、そのような問いかけに答える他者は、逆噴射先生を含めて一切存在しない構造になっているからです。

9 結論 

要するに逆噴射先生は凄すぎてすげえ怖いし、もうお前も俺も逆噴射先生から逃れられないんです。逆噴射先生の文章は、実際には、文章というよりも言語を材料に使った文章以外のなにか別のものとしかいえません。SFだと出てきそうな人間の精神に対するハッキングを現実化させたものが逆噴射文体です。逆噴射先生の作品のリーダビリティーは、文章から読み取るべき意味合いが実際には何も存在しないことに起因します。そして、逆噴射文体は、逆噴射先生が他者への非難を含む一切の主観的評価の表明を自己に対して禁じ、自ら、人間に対する抑圧に関して常に問いかける存在であることを目指すという逆噴射先生のハードコアなアティチュードの直接的な表れなのです。



最後に

以上をもちまして、今回の実験は終了します。お気づきのかたもいらっしゃると思いますが、このテキストの大半は、いかに逆噴射文体において採用されている、また、ニンジャスレイヤー本編でも大々的に採用されている、意味不明の単語に読者が勝手に記号性を付与する仕組みをどのように応用するかという観点での実験であり、マガジンの最初の記事と同様、ニンジャスレイヤーの方法論に関する私なりの仮説の実証実験です。

一応の実験の成果は上がったと思いますので、次回からは本格的にニンジャスレイヤーを直接扱いたいと考えています。






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