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たまには本気で二次創作してみろ



はいどうもー。風物詩の季節ですけど、みなさんはかどってますか? 順調に進んでる人も迫り来る入稿タイムリミットの恐怖に怯えてる人も、俺はひとしく応援してるからな!(よっぽど人倫にもとるような作品じゃない限り)

だからまあ、今回の話は俺からのちょっとしたエールくらいに思ってほしい。

で、俺は今回これを声を大にして言いたかった。


二次をやってるやつの中にもし「どうせ二次だから」みたいな変な自己卑下してたり、そんな自己卑下が理由で手を抜くやつがいるとしたら、そいつはとんでもない勘違いしてるぞ!


「一次が上、二次が下」みたいなのも同じくどうしようもない勘違いだ! そんな勘違いが理由で二次らないやつは、貴重な成長のチャンスを逃してるぞ!


ラフやネームやマンガでも小説でもシナリオでも、何なら絵コンテでもなんでもいいから、とにかくストーリー要素が含まれるやつを、二次やったことないやつは今すぐためしにやってみろ。二次を甘くみてたやつほど、すぐ気づき、そして戦慄するはずだ。

だいたいね、俺に言わせれば


二次創作は偉大



みんなも何度か経験あるでしょ? 自分のすきな作品のすげえクオリティが高い二次がTLとかに流れてきたのを眼にしたとき、なぜか不思議と凄い感激の気持ちがわき上がってくるっていう、あの経験。あれを思い出して。んで、なんでそんなに感激したのかってことを考えてみてください。

クオリティが高い二次、作品の魅力やキャラクターの魅力を高い水準で理解して把握してるやつがカネになるわけでもないのにわざわざ時間と労力をつぎ込んだ作品、それを、同じ作品を愛する見知らぬ誰かが届けてくれる。それも、同じファンを喜ばせたいっていう理由で。そういうクオリティが高い二次を受け取ったファンは自然と、二次ったやつの作品への強いリスペクトを、そして同じ作品を愛するファンへのリスペクトを感じ取る。リスペクトされることの感激こそ、みんなが感じた感激の本質だ。だから本気で二次に取り組むことは、ファンコミュニティへのこの上なく偉大な貢献だ。その使命感と誇りを胸に堂々と二次れ。

だから、みんなこのことを忘れちゃだめだ。本当に優れたおもしろい二次をクリエイトしファンたちに届けることは、時に一次をも超える偉大さを帯びる。なぜか。本気で取り組むとき、二次のクリエイトには、一次には存在しない大いなる困難への挑戦が必要となるからだ

たとえば、あなたの仕事がシナリオライターで、既存の人気フランチャイズの新規エピソードのシナリオ執筆を任された、って想像してみてください。考えてみると、既存の設定と既存のキャラを使う新規シナリオ執筆作業の実態は、本質的には本気でファンのためにやる二次とほとんど変わらない。だから、新規エピソードのシナリオ執筆作業に伴う困難は、同じく二次にもあてはまる。もし仕事としての執筆と同じくらい二次に本気出して取り組むんであればだけど。

というか想像するだけじゃなくてためしに手をつけちゃったほうがいい。ほんと二次ってみて。クッソ難しくてビビるから。だけど諦めるな。すげえ修行としての効果がある。必然的にプロと変わらない振る舞いを要求されるからだ。

それじゃあ、なにがどうクソ難しいのか、どう修行になるのかをもう少しくわしくみてみましょー。


困難その1:好き勝手できない!


まずファンとしての自分自身に聞いてみて。元のオリジナル作品の設定に忠実な二次と、二次ったやつの趣味とか都合とかを理由に設定がいろいろ追加変更されてる二次、どっちが読みたい? 当たり前だけど前者ですよね。二次ったやつ個人の趣味とか都合を反映した設定変更が他のファンの趣味に合うとは限らないから当然だ。

ということはだ、みんながもし本気で二次るんなら、元の作品の設定とかを詳細に把握して、それに矛盾しないようにしないといけない。既に元となる作品があるから自分で設定とか考えなくてもよくて楽らくー、なんてことは全然ないことに気付くはずだ。全く逆。他人が決めた設定に縛られた状態で、新規ストーリーを考えないといけない。

こういうふうに、本気で二次るっていうのは、要するに他人が決めた設定の縛りの中でのクリエイトを強いられるってことです。んで、仕事でシナリオ書くプロは、まさに日々この困難に直面することになる。一次とは別の難しさがあるし、一次とはまた別なスキルが必要だってことにも気付くはず。自分で好き勝手に設定できる一次のほうがよっぽど楽だと感じることもしばしばです。

それでもまだ、作品の設定であれば設定資料とかウィキとかに情報として明文化されてるからそれを参照すればいいってことになるけど、問題は、その上、目に見えない要素まで把握しなくちゃならないってことだ。


困難その2:キャラクターの本気の理解と再現が必要!


はいまたファンとしての自分に登場してもらいます。なんかあんまり出来がよくないなーって感じる二次とクオリティ高い二次との違いってなんでしょうか。振り返ってみてどう? 

なんかがっかりな出来の二次って、大抵「なんかキャラが違う」「○○はそんなこと言わない」っていう感想が湧いてくるやつじゃない? キャラが二次ったやつの自己満足のために道具っぽく扱われてるというかなんというか、出てくるキャラから「いつものあいつ」って感じが伝わってこない。そのせいで絵面にも不思議とパチモン感が漂ってせっかくの美麗作画の魅力も半減。そんな感じじゃないですか?

それに対しクオリティ高い二次だと、たとえば見た目が本家とは全然異なる二頭身キャラとかにデフォルメされてるような場合でさえ、そこに出てくるキャラから「おなじみの、いつものあのキャラ」感が伝わってきて、「そうそう、こいつってこんなキャラだよね」っていう感想が湧いてきて、大した事件も起こらない日常の一コマ程度の作品さえすげえ楽しい。

で、いったいなんでこういう違いが生じるのか。それを把握しとかないと失敗する。プロでも監督とかから「なんかキャラがぶれてない?」みたいなこと言われて大幅修正とかされる。けど文句は言えない。これは最大の関門だ。

そしてこれは誰でも一度は通る道だ。本家のキャラの特徴をしっかり把握したルックに加えて喋るセリフも「○○なのだ」みたいな特徴的な語尾を押さえてるのに、それだけじゃ、なぜか自分で読んでみてもしっくり来ない。本家のキャラの生きいき感が失われてるというかなんというか、どうにもどこかぎこちない。なぜだ? なぜなんだ? キャラとはなんだ? 何がそのキャラをそのキャラらしくさせるんだ?

んで自問自答することになる。キャラの「らしさ」を感じる瞬間ってどんなときだ? って。らしさ。個性。そういう目に見えないし音でも聞こえないけど、確かに存在する何かがある。そしてそれが伝わってくる瞬間がある。何気ないちょっとしたセリフや微妙な表情の変化などなど、そういったものが、そのキャラの感情、性格、価値観、アティチュードなどなどに加えてキャラとキャラとの間の関係性、さらには無言でも伝わってくる、そのキャラの決断を支える強い意志といった、目に見える行動音で聞こえるセリフの内容をはるかに超える膨大な何かを伝えてくる瞬間。それが伝わってくることで思わずクソでかため息が出てしまう時の何物にも代えがたい喜び。

つまりだ、目に見える行動や音で聞こえるセリフなんてのは氷山の一角でしかない。水面下にはクソでか氷山の本体がある。巨大な、キャラの人格の総体がだ。「俺の解釈ではこのキャラはー」みたいな個人個人の好みや解釈とは無関係に、そういうのが独立して既に存在してるのだ。そういう水面下のクソでか本体(サブテクストとも呼ばれる)が伝わることで、はじめてキャラは「らしさ」を発揮するのだ。

要するに、目に見える行動や音で聞こえるセリフだけで直接何かを伝えようとあれこれ工夫するだけじゃ不十分だ。どういう行動、どういうセリフ、どういう仕草や表情やリアクションが、どういうサブテクストを伝えるかっていう観点を常に意識しないといけない

だから必要なのは、そのキャラの人格の総体を可能な限り理解することだ。そのキャラの眼を通じて見る作品世界や他のキャラがどう見えるか、そのキャラの性格やアティチュードに照らして自然なアクション・リアクションは何か、そのキャラの価値観を反映したセリフとして、思わず口から出てくるのはどんな言葉か……ってことを、自分の勝手な想像力とかそんなものに頼って考えるのではなく、とことん理詰めで詳細なシミュレーションとして考え、理解するんだ。「そこまでやる必要あるのか」って? ある。時間はかかるけど大いにやる意義がある。

そして、キャラクターの理解のために長い時間をかけてゴリゴリ思考してると、不意にある瞬間が訪れる。キャラが勝手に、思いもしなかったセリフを喋り出し、あらかじめ考えていた展開を平然と裏切る行動に出たりする瞬間。そんなのが勝手に連鎖してってストーリーすら紡ぎ出す。自分の想像力なんかあっさり超える新たな物語を、キャラと作品世界のほうが自分に教えてくれる。自分の役目は、そういった物語が形になることの手助けでしかないと悟る。そうして、「俺の解釈ではこのキャラはー」みたいな意識は自ずと用無しになり、「我」が消えた状態で作品に向き合いクリエイトする、クリエイトの真のよろこびを知る。

一次をやってるやつの中には反省するやつも出てくるかもしれない。「俺自身が考えたオリジナルキャラを、俺はここまで真剣に理解しようとしたことがあるだろうか。キャラの眼からみた作品世界を俺は本当に見ようとしていたか」って。その意識こそ、真の成長の証だ。

だから世間に眼を向けたとき、あらためて気付くだろう。世の中にはいろんな商業一次コンテンツがあふれてて、似たもの同士や二番煎じっぽいやつも結構あるけど、その中でも歴然と人気・不人気の差は存在する。キャラクターの人格面の作り込みの出来不出来が作品の面白さと人気不人気に直結していることが分かるはずだ。なぜなら結局のところ、ファンのキャラクターに対する愛情の本質は、さっきも言ったような水面下のクソでか氷山本体への愛情だからだ。だから水面下がどうなってるかを直接セリフとかで説明しちゃったりすると、水面下の氷山本体の体積がへってしまい、逆につまんなくなる。氷山本体がクソでかであればあるほど愛され、氷山本体がショボいと人気も出ない。ルックスとかの外見の要素は不要とまでは言わないけど、少なくともルックスだけで愛されるキャラなんかいないってことを忘れないで。

結論。水面下クソでか氷山本体への理解と、クソでか氷山本体に向けられたファンの愛情への真剣なリスペクトが、高いクオリティのために必要不可欠だ。二次でも一次でもだ。ぜったいわすれるな。


ちなみに、シリーズ第一期が大人気で大成功したのに、スタジオや監督が交代して作られた第二期が大コケするようなフランチャイズは、だいたいこのへんのキャラクターの理解みたいなものを軽視して、「自分の解釈ではこのキャラはー」みたいなのに基づいて話を作ってしまったせいで既存ファンから「何か違う」とそっぽをむかれたっていうのが失敗の原因になってる。ファンなめんな


困難その3:厳しい受け手目線が必要!


つまりね、真の意味でのファン目線を、受け手の目線っていうのを常に意識してないとダメなんですよ。俺が言ってるのは「ファンサービスしろ」みたいなレベルの話とは訳が違うってことは分かるよね?

いやほんとうにファンなめたら絶対だめ。たとえプロでも、ちょっとでもヘマをするだけで途端にニチアサみてるちびっ子にすら見破られて、「なんかおもしろくない」みたいなことを言われる。

あっそういえば、たまにいるでしょ? 「世間のほとんどのやつらなんて、小学4年生くらいの理解力しかないんだぜー」みたいなことを言って客を見下すやつ。あいつら全然分かってない。

人間ほとんど小学4年生くらいの理解力「しかない」っていう見方が根本的に間違ってる。サブテクストを読み取ってストーリーの意味を理解するっていう認知・理解に関する能力は小学4年生くらいでほとんど完成してるっていうのが正しい。みんなも自分の子供のころのこと思い出してください。小学4年生かそれくらいになるころには、周りの大人の顔色をうかがって思考を読んだり大人の嘘に気付いたりして未来予測をしてたし、自分でも立派に嘘や隠し事やらしてたでしょ? 今観ても面白いラピュタなんかだって、ちっちゃいころに初めて観たときも同じくらい面白かったでしょ?

つまり俺らの、ストーリーを読み取り理解する能力ってのは、かなり子供の頃に完成する本能に近い認知能力だ。その本能に根ざす部分の能力の高さそれ自体は小学4年生ですら相当高いんであって、客を見下す理由に全くならないということを肝に銘じるべきだ。ちびっこ相手ですら手抜きが許されない、全く油断ならない真剣勝負を強いられるのが現実だ。ドリームワークス・アニメーションみたいな世界トップレベルのクリエイター集団が超真剣にストーリーを作り込んで、アントニオ・バンデラスが超真剣に長靴をはいたネコを演じているという厳然たる事実にきちんと向き合え。そいういうことを理解しないまま客を見下した挙げ句、きちんと自分のスキルを高めたり丁寧に作品を作ったりすることを怠るような、ああいうあいつらみたいなのになっちゃ、絶対ダメだ。リスペクトを常に怠るな


困難その4:オリジナル要素はさらに難しい!


もうこのへんになってくると、あんまり詳しい説明は不要でしょう。既存作品の世界を使いつつオリジナルキャラを登場させたりするのは究極のチャレンジになる。考えてもみてくださいよ。これまで、どれだけたくさんの「劇場版オリジナルキャラクター」みたいなのが現われてはさっさと忘れられていったかを。つまり、たとえプロであっても極めて難しい。

ファンがいっぱいついてる既存作品っていうのは、いってみればいくつものクソでか氷山本体の複雑な連なりの上に微妙なバランスでなりたってる、きわめてデリケートな構築物なんですよ。確固たる世界観みたいなのがあるように見えて、ヘマをすればあっという間にファンから「世界観ぶち壊し」って言われるのが現実です。

それなのにあの監督ときたら「劇場版に出すオリジナルキャラクターの設定はこっちで済ませといたから。あとはシナリオ考えるだけだから楽勝でしょ?」みたいなこと気楽に言いやがって! 設定だけすりゃキャラができあがるわけじゃねえんだよバカヤロー! みたいなことを言いたいのをぐっとこらえつつ、結局おとなしく床の上でのたうち回り七転八倒しながら知恵を絞り続けることになる。効果的な尺で効果的なキャラの紹介シークエンスを行うとともに物語の鍵を握る存在としての登場の必要性をちゃんと明確にし、さらには新キャラとして存在感を発揮しつつも既存の人気キャラを食ってしまうようなことは避け、既存のキャラたちの人間関係を無駄に乱さないようにしながら新キャラを自然に溶け込ませる……と、そのためにはどのシーンでどの人物を視点人物にすべきか等々、もう本当に頭おかしくなりそうなほど数々の課題を克服しなきゃならない。

それでもなお挑戦するっていうのなら、俺は止めない。逆に心からの敬意を送ろう。だから絶対手を抜くな。常に本気でやれ。


リスペクトの季節だ


こうしてリスペクトを基礎にして真剣に行う二次創作は偉大なる至福の行為であることが完全に証明された。

だからいいか、絶対にリスペクトを忘れるな。俺は他人の二次創作にあれをするなこれをするなと注文をつけるつもりはないしその資格もない。だが、自分がよかれと思ってやった二次創作が逆に他のファンからは元ねたに対するディスリスペクトだと受け止められる可能性は常にある。その場合の落ち度は、つねに二次った側にある。それほどの過酷な荒野が待っているのだ。れんしゅうしろ。毎日だ。


それじゃ、またねー