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【短編小説】セリグマンの黒猫

※この物語はフィクションです。実在の人物、団体、黒猫とは一切関係ありません。

 かつて一人の男がいた。名をセリグマン。心理学者である彼は、黒猫を用いてとある実験を行おうとしていた。
 電気が流れる二つの箱に、それぞれ黒猫を入れる。一方の箱は、電気が流れた際、箱の中のスイッチを黒猫が押すと電流が止まる仕掛けが施されている。もう一方の箱は何をしても電流が止まらない箱である。電気を流したとき、両者の間にどのような違いが生まれるのか観察するというのが、この実験の目的だった。
 この実験で彼が示したかったのは、のちに学習性無力感と呼ばれるモノだった。長期的に回避困難なストレス環境に置かれた動物は、その状況から逃れようという試みすら行わなくなるという仮説を、彼は実証したかったらしい。

 黒猫を小脇に抱え、セリグマンは実験室に入った。机の上には彼が昨晩、徹夜して作り上げた箱が二つ置いてある。彼の徹夜には明確な理由があった。と言ってもそれは至ってシンプルで、”大事な大事な学会が近いから”というものだった。これから彼は、仮説を実証するために実験をして、結果をまとめて、考察して、論文を執筆して、発表の資料を作って、プレゼンの練習して……と、数多のステップを踏まねばならない。論文提出の締切が迫っているというのにだ。一日徹夜した程度では、この遅れは取り戻せない。それは彼が一番よくわかっていた。だから、彼は焦りを感じていた。焦りを感じていたから、猫を抱える力が弱くなっていたのかもしれない。箱に入れようとしたところで、黒猫は彼の腕からするりと抜け出し、机の上、箱の傍らに着地した。
 黒猫は「にゃあ」と一声鳴いて毛繕いをはじめる。
 「こら」と、セリグマン。
 「大人しくしていてくれないか」
 「大人しくしろって言いますけど」と、黒猫。
 「一体何をするんですか」
 気だるげに、にゃあにゃあと飼い主に尋ねる。
 「実験だよ。いいから箱に入るんだ」
 「いやです。にゃあ」
 黒猫はセリグマンが伸ばした手を素早くすり抜け、部屋の隅の棚の上に器用に登った。そして、セリグマンを見下ろした。セリグマンは唸るように黒猫に嘆願する。
 「頼むよ。協力してくれ」
 「別に協力してもいいですけど、にゃあ、せめて何をするのか教えてくださいよ」
 黒猫の言い分ももっともだと思ったセリグマンは事実と嘘を混ぜつつ、特に、"電気が流れる"ということは伏せて、大まかな実験の内容を黒猫に語った。黒猫は「ふぅん」と一声鳴いた後、「でもそれだと、黒猫、もう一匹必要じゃないですか」と、これまたもっともな意見を述べ、セリグマンを説きつけた。
 セリグマンは黙って黒猫に背を向け、実験室をあとにした。それから、リビングに入り、ソファでくつろぐもう一匹の黒猫を抱きかかえた。こちらの黒猫は「にゃあ」と一声鳴くだけだった。
 セリグマンは考える。徹夜明けだからさ、と。徹夜明けだから、こんな失敗をしたんだ。一匹足りないなんてこと、普段の私ならすぐに気が付いたはずさ。徹夜明けだから、仕方ないんだ。徹夜明けだからたかが黒猫にあんな指摘をされたんだ。これまでの実験が全て、何から何まで上手くいかなかったのも、私が学会で肩身の狭い思いをしているのも、全部全部徹夜のせいなのだ。あぁ、そうなのだ。徹夜さえしなければ、私はもっとできる男なのだ。やればできる男なのだ。一回の徹夜がなんだ。苦難を乗り越えてこそ、栄光への道は開けるのだ。
 考えているうちに、セリグマンはいよいよやる気を取り戻した。いささか奇妙な取り戻し方だったとはいえ、彼がやる気になったことに違いはない。ずんずんと廊下を歩き、実験室の扉を開けた。黒猫が「おかえりにゃさい」と棚の上から声をかける。それに対しセリグマンは「あぁ!」と威勢よく返事をし、連れて来た黒猫を箱の中にそっと入れた。それから、棚の上の黒猫の方を向いて、「さぁ、君も入るんだ」とセリグマン。「にゃあ」と黒猫。一つ鳴いてから棚から降りて、ぴょんと跳ねて箱の中へ。ちりんと首輪の鈴が鳴る。
 電気ショックが流れる二つの箱に、それぞれ黒猫を入れる。一方の箱には、箱の中のスイッチを黒猫が押すと電流が止まる仕掛けが施されており、もう一方の箱は、中の黒猫が何をしても電流は止まらない。箱の中の猫は、どのような反応を見せるのか。
 セリグマンは可及的速やかに実験を始めなければならなかった。何故なら彼には、結果をまとめて、考察して、論文を執筆して、発表の資料を作って、プレゼンの練習して……と、いくつもの仕事が残っているからだ。時間に余裕はない。すぐにでも始めなければ提出には間に合わないだろう。
 「さて」とセリグマン。「にゃあ」と黒猫。彼はスイッチに手を伸ばし、箱に電流を流した。猫は、二匹とも無反応だった。片方は箱の中で丸くなって眠り、もう片方はあくびをして退屈そうにセリグマンの様子をじっと見ている。
 「おや」とセリグマン。「にゃあ」と黒猫。彼はもう一度スイッチを押した。猫は、やはり二匹とも無反応だった。片方は箱の中で丸くなって眠り、もう片方は毛繕いをしたあと、「にゃあにゃあ」と唄うように鳴いた。
 「むう」とセリグマン。「にゃあ」と黒猫。彼は諦めず、もう一度スイッチを押した。猫は、当然のように二匹とも無反応だった。片方は箱の中で丸くなって眠り、もう片方は「旦那」とセリグマンに声をかける。
 「旦那。無駄ですよ。電気は流れません」
 その言葉で、セリグマンは自身の思惑はすべて見透かされていたのだと悟った。震えた声で「なぜ」とセリグマン。黒猫は鳴かなかったが、その代わりに彼の問いに答えてやった。
 「旦那がもう一匹連れてきてる間に、箱を調べたんです。そしたら、旦那から聞いた実験の手順には明らかに不要な電気ショックの装置があったので、外しました。それだけです。にゃあ」
 セリグマンは膝から崩れ落ちた。それは徹夜して作った箱を黒猫に台無しにされたからでも、まして徹夜明けだからでもない。黒猫は箱からぴょんと跳び出して、机の上に着地する。
 「というか、箱に蓋とかつけないと、電気流した時に逃げちゃうんじゃないですか。こんな風に」
 セリグマンは地に手をついた。それは徹夜して作った箱の致命的な欠点を黒猫に指摘されたからではない。黒猫は机からぴょんと跳び下りて、セリグマンの背中に着地する。
 「また、失敗ですね。」
 セリグマンは全身の力が抜けるのを感じた。そしてとうとう五体投地の姿勢となった。急激な眠気がセリグマンを襲たのだった。「また失敗ですね」という黒猫の言葉が頭の中でぐるりぐるりと反響し、やがて何も聞こえなくなった。

 セリグマンが目覚めたのは、それから二十時間後のこと。固い床で寝ていたせいで全身が痛んだ。耳元で黒猫が「にゃあ」と鳴いた。セリグマンは慌てて飛び起きて、時計を確認し、そして絶望した。また、失敗した。
 実のところ、セリグマンの実験が成功したことは今までで一度もない。毎回何かしらの理由で失敗している。失敗する度、彼は次の実験を成功させようと躍起になり、そして、失敗してきた。延々と繰り返される失敗から逃れるために実験を行い、失敗。ストレスのかかる状況を打破するために実験を行ってきたはずが、失敗。
 彼はもう、すべてを投げ出してやろうという気になっていた。実験してもどうせ失敗するんだから、だったらいっそ、何もしなくていいじゃないか。
 「おはようございます」と黒猫。
 「あぁ」とセリグマン。
 「実験、しないんですか?」と黒猫が尋ねる。
 「あぁ、あれはもう、やめだ」
 セリグマンはどうしようもない無力感に襲われていた。実験室を出て、ふらふらとリビングまで歩き、ソファに沈み込んだ。二匹の黒猫がとてとてとやってきて、彼の膝の上に乗った。
 もう研究はやめよう。と、セリグマンは決意した。これ以上失敗を積み重ねるだけの日々は、もう嫌だ。
 学習性無力感。
 長期的に回避困難なストレス環境に置かれた動物は、その状況から逃れようという試みすら行わなくなるという仮説。
 セリグマンはその身をもって、この仮説を実証してみせたのだが、それに気づいているのは、彼が飼っている黒猫だけであった。

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