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何者にもなれなかった人間の駄文5

 休みの日の夕方に、家の近所をまったりと走る。これが飽き性がちな私が未だに続けている習慣の一つだ。
 競馬中継を見終えてから、お風呂を沸かして、マスクをして家の外を出る。扉を開けた途端、肌にまとわりつく空気の乾湿と寒暖を察知するたびに、「ああ、もう春が来たんだなぁ」とか「そっか、もう秋も終わりなんだなぁ」と再認識させられる。
 最近は走るコースもほぼ一本になった。家から近所の公園を通り抜け、車の通行の少ない小路を抜け、最寄りの駅まで走って折り返し。そこからまた元来たルートを辿るように引き返してきて、往復約30分。同じコースばかりで飽きないのかと思われるかもしれないが、ゆっくり走りながら周りの景色を眺めてみると、意外と変化や発見がそこかしこに落ちている事に気付かされる。
 まず木々の変化。特に中間点に当たる公園に一本、大きな木があるのだが、夏はあんなに大小様々な葉が重なり、大きな緑の傘を作り上げるというのに、秋になるにつれて赤や黄に色付き、冬になればと枯れ葉となって地に落ちる。このどうしようもなく抗えない『あはれ』さを徐々に噛み締められるだけでも、外で動く楽しみがあるというものだ。
 あと身に着けている衣装もだ。家の近くの通りを歩く老若男女の服装の変化をつぶさに感じられるのもいい。時折、冬なのに半袖短パンで走っている人だったり、女子高生の制服を着ているお婆ちゃんだったり、個性的な方々と出くわすのも楽しい。子供の頃なら茶化していたりしたけど、今となっては自分をしっかり表現出来ていて羨ましいなぁと、すれ違い様に心の中で敬意を払うばかりである。
 とはいえ、さすがに全裸に絵の具を塗って、堂々とベンチに腰掛けていた中年男性だけは、無理だった。だってM字開脚で、見かけた僕に明らかに股間を見せつけていたのだから。当然帰宅してすぐに警察に通報して、呆気なく御用となったのだけど。

 しかしながら、以前はもっとランニングの頻度も多かった。それこそ、平日でも仕事が終わってから一息ついた後で、家から少し離れた場所にある大きな公園まで往復する。時々気分を変えて、県境をまたいで走ったり、はたまた商店街の中を買い物しながらゆっくりと走ったり。
 けれども、それも2年ほど前からガラリと変わった。そう、コロナ禍になり緊急事態宣言が発令された時期である。別に一人で走るわけだから、気に病む必要など無かったのかもしれない。けれども、メディアがこぞって謳った『お家時間』『ステイホーム』のシュプレヒコールは、僕の信条とする「自由気ままに走る事」に対する心理的ブレーキをかけるには十分効果を発揮したのかもしれない。知らんけど。

 そもそも、何故走る習慣が身に付いたのか。中学高校と陸上部(それも中長距離)に入っていたからといえばそれまでなのだけど、やはりその原点は前回の駄文にも少し書いたが、小学校5年の頃から中学に入る前まで続けた早朝ランニングの習慣によるところが大きい。
 もともとアレルギー性の小児喘息を患っていた僕は、小学生になってからというもの、季節の変わり目に入る度に呼吸が苦しくなっては、病院に行って吸入装置のお世話になっていた。こうも定期的な病院通いを4年以上も続けていると、小学生ながらに「なんだか一緒に付き添ってもらっている親に申し訳ないな~」という一抹の罪悪感も芽生えてしまうもの。そこで心肺機能を高める運動を始めようということで、パッと思い付いたのがランニングだったのである。
 しかし、この当時から(いや今も大して変わっていないかもだけど)飽きっぽい性格だと自覚していた僕は、普通に走っていただけでは絶対に続けるのを止めてしまう事が容易に想像出来た。そこで何かモチベーションというか目的になるものを見つけようと、幼い頭で必死に考え考え、考えヌイた末に――辿り着いたのが『エロ』だった。

 小学校高学年に入ったばかりの僕は、思春期真っ盛りの時期に突入していた。親への反抗期も示しつつ、それ以上に興味津々だったのが『性』だった。学校での保健の授業で習った性教育の内容が、教科書を読んだだけではよくわからなかった(特に子供の作り方とか。どうやって受精に至るのかとか、字面だけじゃわからなくね?)当時の僕は、どこか悶々とした思いを抱いていた。
 しかしそんなある日、僕の目の前に突如現れた一冊の聖書が、それまで抱えていた悩みを一気に吹っ飛ばしてしまう。雨の中の、学校からの帰り道。雨宿りがてらに寄り道した団地の踊り場の隅に打ち捨てられていた一冊の雑誌。誰かが読み終えて捨てたのだろう雑誌の名前こそ忘れてしまったが、何となしに捲ったしわくちゃのページの先に広がっていたのは、未知なる桃源郷だった。牡としての本能が滾ったあの日の夜は、結局一睡も出来なかった。

 あの日を境に、僕の頭の中の一部はすっかり『エロ』の二文字に支配されてしまった。
 女子クラスメートのおっぱいの大きさを想像したり、踊り場から階段を上っていく女子のスカートからチラリとお下着を拝められないか密かに狙ったり、体操着から透けて見えるブラジャーに生唾を飲んだり、『トゥナイト2』や『ギルガメッシュないと』や『アルテミッシュNIGHT』といったお色気番組を見ようと、こっそり起きて居間のテレビを付けたり、その他etc.……   某トークサバイバー番組の言葉を借りれば、あの頃の僕は『性に極めて前向きな男子小学生』と化していたのだ。ただのエロガキだって? そんな言葉で一蹴しないで欲しい。これは健全な青少年に成長する上で避けては通れない、いわゆる通過儀礼なんです。

 少し脱線してしまったが、話をランニングに戻そう。このようにすっかりエロに取り憑かれていた僕は、2つの目的を設定した。

①河川敷沿いや人目のつかない団地・公園をゆっくり走り続ける。
②個人経営のコンビニor古本屋を見つけ出す。

 ①は団地の一角でエロ漫画雑誌を拾った経緯から、安易にエロ本やエロ漫画が打ち捨てられているであろう場所が団地と公園、そして当時某三年B組の舞台でお馴染みのあの河川敷だった。「河川敷の中には色んなエロ本がある」という少年漫画などから得た知見も大いに後押しした。
 そして②は図書館やの帰りによく寄っていた古本屋の存在が大きい。そこの古本屋は色々とオープンというか雑な構造で、半分以上が成人向けの雑誌や漫画を取り扱っていたにも関わらず、仕切りなんてものが存在せず、老若男女問わずなウェルカムなお店だったのだ。ところが、そのお店があるのは通学区域内。しかもクラスメートの家のすぐ近く。万が一知っている人、ましてや同級生なんかに出くわした日には、気まずいなんてもんじゃない。なので、学区域外にそういった小さな古本屋や人目に付かない個人商店やコンビニの目星をつけようと考えたのだ。後日お店が開いている時にこっそり訪れて、そこに陳列されているエロ本を立ち読みする――そんな妄想を膨らませながら(年齢的に買いたくても買えないので)。

 それからは週1~2回の頻度で朝4時前後に起きて、軽くお茶を一杯飲んでから家を出る。自分の知っている学区域の外を目指して、ひたすらに走る。見知らぬ公園内や団地を見つけたら、脳内に記憶したのち時間の許す限り隈なく探し回り、そして時間が来たら家へと引き返す。またある日は3、4キロ離れた河川敷まで走って、着くなり河川敷の探索に取り掛かる。今なら確実に(当時でも大人の年齢だったら間違いなく)不審者と指差されても仕方ない行為だったと思う。
 本当ごめんなさい。でもしょうがないんです。性目覚めた思春期男子にとって、新たな燃料を探し出す事が何よりの楽しみだったのだから。
 ありったけの欲望をかき集め~エロ本を探しに行くのさ~ワンピース♪

 しかしながらこの目論見、失敗に終わるのである。少なくとも目的①に関して言えば。
 2年間早朝ランニングを続けたが、結局エロ本は1冊も見つけられなかった。単純に探し方が下手だったのか、それとも僕のゲスな下心にお天道様が天罰を下したのか。いずれにせよ、僕の早起きのしての頑張りは、無駄な苦労で終わったのである。
 とはいえ、それもあくまで当時の話。この2年間コツコツと続けたランニングの習慣の効果は相当なもので、小学校6年の終わりの頃には1000mや1500mといった(小学生にしては)長距離のレースでは校内でも1,2を争える走力までアップしていて、それに比例して喘息の頻度や症状も改善された。またこの頑張りを当時の担任が進学予定先である中学校の陸上部の顧問に話していたらしく、それが中学校入学してすぐに顧問から半ばスカウトみたいな形で陸上部に誘われるきっかけともなった。
 加えて、目的②のお店も幾つかリストアップ出来て、後日そういった古本屋でこっそりエロ本を読もうというミッションに挑んだりもするのだが……それはまたいつかの機会にでも。

 PCアダルトゲーム『聖奴●学園2』(Liquid)を読み進めた昂りを抑えるべく書き始めたつもりが、気付けば随分と長文になってしまった。時計の針を見れば午前4時過ぎ。久しぶりにこの時間から走ってみようと思う。
 さすがにあの頃みたく、エロ本を探し回りながら走ろうとは思わない。もう30代半ばともなればアダルトな本もゲームもグッズも買える。だいたいデジタル化の進んだ昨今において、成人向け雑誌という存在自体が徐々に消えかけているというのに。紙の文化が失われつつあるのは寂しさもあるけど、時代の流れとしては間違ってはいないと思うし、それもまた右肩上がりの進歩の一つとして喜ばしい事として受け止めようではないか。

 さてと、こんな文章を書いた事だし、今日はいつもと違うコースを走ってみようかな。でもって、いつもより視線を下に向けてみようと思う。
 ひょっとしたら、エロ本ではなくとも、何か新しい発見に出くわすかもしれないから。
 道端の小石や草に紛れて、ひっそりと零れ落ちている『何か』と。

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