技術と上手く付き合う

まえおき

少し前に、大学から課された数千字のレポートをChatGPTに頼めば、レポート案を作成してくれるといった話題がSNSやニュースで話題になっていた。
その内容に対する多くの反応は、「もう大学で課題出すの意味ないのでは」といった主旨の内容であった。

そんなことは、どうでもよい。どうでもよいというか、技術の進化に只々怯えていてもしょうがない。
常に念頭に置いておきたいのは、「ではそんな時代に、何ができるか」である。

本編

レポート課題とChatGPTの相性の悪さ

先にあげた大学のレポートについてであれば、何が言えるか。

※前提として、大学は、国が(もっというと世界が)豊かになるために人材が学ぶ機会を得る場所としている。豊かになるというのは、GDPが高くなるという経済的な観点もあれば、文学や音楽などお金では計ることが難しい芸術の観点もあるだろう。
いずれにしても、大学を卒業した後には卒業や修了といった証拠だけが残るのではなく、確実に卒業生自身に変化(知識がつく、体力がつくなど)があるべきである。

ChatGPTがレポートを代わりに書いてくれるということは、これまで通り「〇〇について5000字程度で記述せよ」的なものは、学生が何もせずにレポートを出すことになってしまうだろう。ましてや、「〇〇というワードを含めて」「〇〇という観点から」といった条件があろうものなら、ChatGPTにヒントをあげているようなものだ。
いずれにしても、大学としては本来の学習の機会を提供できているとは言えない。

ChatGPTがある時代において何ができるか

では、大学は何ができるか。

例えば、フィールドワークなどで必ず写真や動画などを課題の一部とするのはどうか。それらの文字以外の課題コンテンツに関連したレポート内容を課するのはありえるかもしれない。

他にも、レポートという形式をやめるのも手であろう。何も持ち込みのできない試験で、決まった時間で回答を絞りだすのもナンセンスな気がするので、複数週に亘る口頭試問にするなども面白いかもしれない。

いずれにしても言いたいのは、「技術に淘汰される、やばいぞ」ではなく、「新しい技術のおかげで、もっと我々が磨くべきところに無駄がなくなった」と考えようということである。

あとがき

科学の分野ではよく知られている「ムーアの法則」というものがあり、計算機の頭脳の集積度は18ヶ月で2倍になるという、計算速度の指数関数的な成長を示すものである。
(ただし、これは努力目標ではあるが、これまでは研究者・技術者の努力で満たされている法則である)

技術の進化のスピードはものすごく、想像をはるかに超えてくる。「もし質問をしたら、回答をくれる技術が半年後にできるとしたら(ChatGPTのような技術が出たら)」という考えを持てるともっと良いのだとは思う。

その"What if ~"をさらに超えてくるのが、技術の進化なのだが。

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