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オグリキャップとハルウララ~日本の社会変遷と競馬~

1.はじめに

 2021年、スマホゲームアプリに一つの衝撃が走った。株式会社Cygamesがリリースした『ウマ娘 プリティダービー』が、ランキングトップを文字通り独走したのだ。

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〈写真元〉2021/08/08現在の画像

 社会現象とは言わないがこの影響は少しずつ波紋を広げ、統計によれば令和元年・2年度の競馬における「開催場動員数」はコロナの影響で15%まで落ちているが、「総参加人数」はほぼ横ばい、「売上金額」は前年度より上がっている。『ウマ娘』は原因の一つと数えられるほど、「プチ競馬ブーム」の火付け役となったわけだ。
 何よりこのクロスメディアコンテンツのコンセプト、『あの競走馬が美少女になった!』がいかにも現代らしい。
 つい最近では『けものフレンズ』が記憶に新しいだろう。あの美少女化された動物たちは『FNS歌謡祭』にも出演するほど社会影響を広め、その年の一つの象徴ともなった。しかしどうして『けものフレンズ』があそこまで波紋を広げたのか?その理由の一つを産経新聞は挙げている。

アニメ研究家の氷川竜介氏は、同作の人気が長続きする理由について、次のように指摘する。
 「何かとストレスを感じやすい最近の世の中で、独特のゆるい雰囲気に包まれたい人が多いのでしょう。また、世界観の設定など作品に『余白』が多い。だから、視聴者がいろいろと考察を膨らますことができます。主題歌に『けものはいても、のけものはいない』という下りがありますが、この他者を許容するダイバーシティ(多様性)など、メッセージ性の強さも魅力です」
『産経新聞』2017/12/31 17:00 のインターネット記事より引用
2021/08/08閲覧

 現代はストレス社会と揶揄されがちである。アニマルセラピーはそのストレス解消方法になりうる。統計によると、2018年を底に年々とペット保有率は増加傾向にある。つまり『けものフレンズ』や『ウマ娘 プリティダービー』のような動物をテーマとした(『しろくまカフェ』のように動物そのままで出演させてもよいが、擬人化した方が何かと都合がよいのであろう)メディアコンテンツが時代を作り上げても、何らおかしいことではないのである。

 私はここで、馬や牛、豚などの経済動物と社会の干渉性を取り扱ってみたい。『命の教室』が出版されたことを皮切りに(もちろんそれ以前もあるが)、21世紀は経済動物の価値観について大きく動かされた時代でもあるように思われる。漫画などのサブカルチャーの中では『銀の匙』などが映画化したこと等、どこにおいてでもいえることだ。
 主な考え方としては「家畜たちは我々人間のために生を尽くしている。家畜たちにもそれぞれの生があり、彼らは我々と同じようにその中で必死に生きているのではないか?」というものだ。その思想は日常生活で忘れがちなものではあるが、言われるとそれに同意をする人は少なくないであろう。八軒勇吾が愛情込めて育てた豚が肉になって帰ってくるのをなんとも言えない表情で見つめていた時、複雑な心境になった読者は少なくなかったはずである。

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〈参考〉荒川拡『銀の匙』4巻8ページ

 つまり、人間は経済動物にも同情しうる。そしてそれは、21世紀という荒波の時代に育っている我々だからこそ、より深く感受できるものがあると考える。
 
実際、この八軒は経済動物を受験戦争に負けた自分の面影に重ね合わせていた。これは誰にだって同じで、あくまでエゴイズムに過ぎないが、自分も家畜も社会を形成するうえで同じ一員であると考えたときに、どうしても家畜に感情移入するものである。私は肉が好きだが、やはり経済動物たちには感謝している。

 ところで先に述べたように、経済動物と社会の干渉性を見てみたい。厳密にいえば、社会の変動は人が経済動物に求める像の変遷であると言えないだろうか?その一例として、現代では「癒し」や「同情」などが挙げられた。ならば過去にも経済動物に求めたものがそれぞれあるのではないだろうか?
 私はこれを考えるときに、適応できる例が一つあると考える。それは冒頭でも紹介した、「競馬」だ。馬は経済動物であり、人はその家畜たちに期待を詰め込んで走らせる。なんとも語りやすい例だ。


2.時代が「名馬」を作り出す

 競馬は過去に大きなムーブメントを起こしたことが2度ある。1度目は1973・74年「ハイセイコー」の大衆賞である。

72年、ハイセイコーが出現してようやく「私は競馬ファンです」と胸を張れる時代がやってきた。
その真摯な走りに幼稚園児からお年寄りまでが「ハイセイコー」の名を呼び、熱狂した。
少年雑誌の表紙に登場し、ルバング島のジャングルで小野田寛郎元少尉が母国からの短波放送で、その名を知ったというエピソードも有名だ。ハイセイコーは実は競馬が市民権を得るきっかけを作った功労馬でもある。
東京シティ競馬、『TCKコラム』 インターネット記事より引用
2021/08/09閲覧

 2度目は言わずもがな、1987~90年「オグリキャップ」の奇跡だ。

88年にJRAへ移籍し、国民的アイドルホースとして競馬ブームの起爆剤となった。若いファンの心もつかみ、オグリの縫いぐるみを抱えた女性ファンが声援を送る姿は一つの観戦ファッションにもなった。それまで「おやじのギャンブル」というイメージだった競馬に、おしゃれ感覚が加わり健全化。入場者、売り上げは飛躍的に伸び、90年のラストラン有馬記念には17万7700人が押し寄せた。
「オグリキャップ、笠松競馬の守り神」『岐阜新聞web』インターネット記事より引用
2021/08/09閲覧

 ハイセイコー・オグリキャップは二頭ともアイドルホースの筆頭であり、それぞれ第1次・2次競馬ブームを引き起こした立役者である。特にオグリキャップなんかは顕著で、ラストランの有馬記念には18万人の観客が押し寄せ、競馬を見ない家庭のリビングにもオグリキャップのぬいぐるみはあったという逸話が残るほどである。
 この2頭は基本的な背景が同じである。地方から出てきてその強さを見せつけ、途中で挫折があり、皆に惜しまれながら引退するという現役生活を送った。似通ったこの2頭が競馬ブームを引き起こしたのは、この2頭を取り巻く社会的背景が同じであったからである。

 これと対照的な競走馬が1頭いる。「ハルウララ」である。

 思い返せば、ハルウララの存在が知れ渡ったのは2003年頃のこと。
 馬券が売れず、存続が危ぶまれた高知競馬が考え出した窮余の一策が"負け続ける馬"ハルウララを売り出すことであった。
 この作戦は見事に当たり、この年の暮れに100連敗を記録するや、ますますハルウララの人気は上がった。
 ハルウララは当時、年間20レース以上走っていた。その出走手当てが預託料とほぼ同額だったことから、負けても、負けても競走馬であり続けられたのである。
「「無敗」が脚光を浴びた2020年。「無勝」のハルウララに会いたくなった」『web Sportiva』インターネット記事より引用
2020/08/09閲覧

 地方の若武者が中央に殴り込みを決めて名を挙げるというスタイルの二頭とは対照的に、地方の高知競馬でひたすら負け続けて人気者となった馬がこの馬だ。
 ただし一つだけ注意を入れておこう。この馬が連敗記録を保持しており、そのおかげで飛躍的に知名度が上がっているという認識であったら、それは大間違いである。仮にそうなのだとしたら私はこの馬の名前を挙げて記事になどしてはいない。
 ちなみに現在の連敗記録を保持しているのは「ダンスセイバー(→記事)」であり、ハルウララが持つ113連敗のだいたい倍の敗北数を喫している。むしろどうしてそこまで走れるのか…
 しかしなぜダンスセイバー(218連敗)やマイネリアトリーチェ(192連敗)が話題にならず、ハルウララ(113連敗)が愛された名馬となったのか?それはもちろんハルウララがこの連敗のパイオニアということもあるが、ハルウララは一貫して「高知競馬場のアイドル」となったからである。これについてはまた後程説明する。

 本題に移ろう。オグリキャップとハルウララ、競馬の中で人気になるにも、どうして「地方の若武者」と「負け組の星」という両極端な人気の取り方となってしまったのだろうか?これには何度もいう様に、日本を取り巻く社会的要因があったからだ。


3.オグリキャップと高度経済成長期

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〈参考〉「葦毛の怪物」、オグリキャップ 2021/08/11現在の写真

 オグリキャップがJRA(日本中央競馬会)で名を馳せたのは1988年のことである。そのころ日本と言えば、高度経済成長期の真っただ中であった。

日本の首都である東京の経済は 1980年代には他県からの人口の流入を伴いながら,一貫して全国よりも高い成長を続け,金融サービスや企業の中枢機能である本社部門が東京に集中するといういわゆる「東京一極集中」の構造が形成された.
田口裕史「東京経済の構造変化と日本経済 バブル期前後の東京経済」
学術記事から引用 2021/08/11閲覧

 この引用文内にもあるように、80年代後半に起こったこととして「東京一極集中化」が挙げられる。

1985~90年の東京都内生産額は,年率 6.9%と東京以外のその他全国の成長率(4.6%)を 2ポイント以上上回る高い成長率となった.
特に金融・保険(年率 16.7%),対事業所サービ ス(同 15.5%),建 設(同 11.1%),商 業(同 9.6%)等が非常に高い成長を果たした.この期間は建設を除けば,1985年において既に東京での特化係数の高かった金融・保険,対事業所サービス,商業などで,非常に高い成長率を示したことが特徴である.
同上から引用

 ちなみに88年は東京ドームが開場した年でもある。
 人々や産業の東京への流入が進む中で、地方都市とは光と影のような存在である。簡単に言えば都市部への憧れが当時には強いのだ。都心の夜は明るく、シティーボーイ・ガールたちはディスコで踊り明かし、女子高生たちは渋谷の109(マルキュー)に向かう。(ちなみに1988年は「六本木ディスコ照明落下事故」が起きた年であり、そこから衰退をたどる。)そんな都心部の姿を見て、地方の民は羨望のまなざしを送るのだ。

 そこに現れたのが、地方競馬の星であった「オグリキャップ」である。高度経済成長期真っただ中の人々は、みな上を見上げた。社会が「東京一極化」に向かう中、地方出身である葦毛の怪物が中央の猛者たちを次々と力でねじ伏せる。その光景はたまらなく痛快であろう。気が付けば平成3強と謳われた。そんなオグリキャップの姿は、まさに「地方競馬の星」と呼ぶにふさわしいものだろう。

 しかし1989年の春の怪我から、オグリキャップの1着は徐々に遠のいてしまう。レース内容としてはイナリワン、バンブーメモリー等の強敵とデッドヒートを演じるも、90年の天皇賞秋から完全に歯車が狂ってしまう。掲示板からオグリの番号が消えたとき、誰もが「引退」を頭に浮かべた。
 一方、日本経済においてはバブル景気も窮地に立たされていた。

しかし、株価の方は1989年末を過ぎると、その後はかなりヤバいペースで下がり続け、1990年末には日経平均株価は2万3000円台にまで下落している。これは相当な下げ幅だ。ということは、少なくともこの時点で株価バブルは崩壊し、誰もが日本の先行きに危険な臭いが立ち込めていることを予感できたはずだ。
『DIAMOND ONLINE』「今知っておきたい、90年代のバブル崩壊物語
3分で学びなおす日本経済史」 インターネット記事より引用
2021/08/11閲覧

 上を向いていた人々は徐々に頭が下がる。実際にバブルは弾けたわけではなかったが、この時経済が暗黒時代に突入することを人々は暗におびえていた。
 そして90年、有馬記念。オグリキャップ、ラストランを見に18万人が中山に押し掛ける。

 鞍上には、スーパークリークが引退したことで騎乗馬がいなくなった武豊が再度迎えられた。スローペースの中終始中団を進んだオグリキャップは直線で先頭に立ち、追撃してくるメジロライアン、ホワイトストーンを抑えて優勝。
 誰もが「ない」と思っていた、勝利で飾った引退の花道。「神はいる、そう思った」という後のJRAコマーシャルのコピーは、決して誇張ではない。「最後のオグリキャップの走りを見たい」と集まった、中山競馬場の収容能力の限界とも言える18万人の観衆が、どよめく。揺れる。そしてどこからともなく発生した「オグリ!オグリ!」の声がすぐに満場の連呼となり、ウイニングランを行うオグリキャップを包んだ。
『ニコニコ大百科』「オグリキャップとは」 インターネット記事より引用
2021/08/11閲覧

 このオグリコールは、誰もが「オグリが1着になる」とは予想だにしなかったがゆえの歓声である。しかしながら暗闇の中でもがき、最後に一花咲かせた人気者の姿は、同じく闇を抱えた社会の中で「神はいる」と思えるものだったのだろう。
 オグリキャップは第2次競馬ブームという一大イベントを作り上げた。それはバブル景気という経済的な側面も後押ししたものだった。しかしながら、「オグリキャップ」というアイドルを作り上げたのは、社会そのものである。私はそう考える。


4.ハルウララと「失われた20年」

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〈参考〉「負け組の星」、ハルウララ 2021/08/11現在の写真

 ハルウララを「負け組の星」にしたのは、高知競馬場の経営難である。本当はハイセイコーやオグリキャップのように「地方のヒーロー」が都合よいのだが、たまたま負け続けていた馬を推してみたら引っかかったというような売り出し方であった。

そのときのことを、前田はこう振り返る。「勝ってる馬を売り出そうとしたんやけど、全然当たらんかった」。県庁を引退し、この3月まで民間会社の役員。ビシッとしたスーツに身を包み、福々しい顔をほころばせる前田が目の奥をぎらりと光らせた。「ところが、負けてたんが当たったんや」。山っ気たっぷりの語り口は、元県庁職員より起業家といった風情だ。
「落ちこぼれ競馬の逆襲 どん底から生き延びました(上) 「もうからないならやめて当然」?」『HUFFPOST』インターネット記事より引用
2021/08/11閲覧

 経営難とは高知競馬場だけではない。オグリキャップのところで先述したように、90年代~21世紀初頭はひたすらに景気が悪い。「失われた10年」・「20年」の到来である。

バブル経済崩壊後の1990年代を、よく「失われた10年」と呼びますが、2000年代に入ってからも、日本の経済成長は1970年代、1980年代に比べて緩慢なものにとどまっていました。バブル崩壊で露呈した銀行の不良債権問題や企業のバランスシートの傷みといった問題は基本的に解決していたにもかかわらず、経済成長はバブル崩壊以前の水準に戻らなかったのです。
「「失われた20年」の構造的原因」『独立行政法人経済産業研究所』
学術論文より引用 2021/08/12閲覧

 以前私は池袋のあるビルに訪れたことがあり、そのビルの階段の踊り場は面白いことに、年代別に池袋の駅前の写真が貼ってあった。1~2階なら1920年の写真、3~4階なら40年代の写真という具合だ。そこでは面白いものが見れた。90年と2000年の写真が驚くほどに変わっていないのだ。他の写真はひたすら変化を続けている。真っ平だった土地に交差点ができていたり、60年代ではでかいビルもちらほら建っていた。しかし最後の2000年の写真は、未来の行きついた先のようだったのである。
 この「失われた20年」の話をすると、必ず思い浮かぶ映画がある。『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲』(2001年公開)だ。

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〈参考〉原作:臼井義人、監督:原恵一 2021/08/12現在の写真

 簡単なあらすじを言うと、「20世紀博」というテーマパークで大人たちは昔を懐かしむが、次第に様子がおかしくなってゆく。大人たちは「大人の振る舞い」をやめ、みな子供化してしまう。それを食い止めるべく、野原しんのすけ率いる子供たちがオトナ帝国に立ち向かうという話だ。
 この映画の大事な点は、しんのすけたちが「未来をつくる」のではなく、「正しい未来を取り戻す」話だということだ。昔の栄光をいまだ夢見ている大人たちに立ち向かい、一般サラリーマン代表であるひろしに「苦しくても21世紀は幸せだ」ということを思い出させようとするしんのすけの姿が描かれている。きっとこれを映画館で見ていた大人たちは、家族を守るために理不尽な時代の流れに立ち向かおうと、戦い続けようとする野原家の姿に涙を流したのではないだろうか。

 この戦い続ける時代に現れたのが「ハルウララ」である。どれだけ負けてもひたむきに走り続ける。それが何のためであるかは、この馬が考えるところ次第であるが、社会情勢の中で人々に感動を与えるには十分な存在だっただろう。 そしてこれは大事なことであるが、厩舎の職員をはじめとする全員が、誰もハルウララが負け続けることを望んでいなかったのだ。

負けることを賞賛される、「一生懸命」であるということだけで特別視されることは、競馬関係者にとってはそれまで「見送って」きた数多の馬たちを愚弄する行為に他ならなかった。
ハルウララがマスコミに頻繁に取り上げるようになってからも、牧場や厩舎、騎手のコメントにハルウララが負けることを良しとするようなものは皆無であり、陣営は最後まで彼女を勝たせるための努力をしていた。実際、引退までの最後の5レースは全レース掲示板に残っている。決して「負けてもいいや、負けた方が話題になる」と思ってレースをしていたわけではないのだ。
「ハルウララとは」『ニコニコ大百科』インターネット記事より引用
2021/08/12

 実際名ジョッキー、武豊は彼について「足は遅いが一生懸命」とコメントを残しているのは有名なことだ。しかしそのコンプレックスを抱えながらも一着を目指すところが、「負け組の星」と呼ばれた所以なのだろう。

 私は2節で述べた「なぜダンスセイバー(218連敗)やマイネリアトリーチェ(192連敗)が話題にならず、ハルウララ(113連敗)が愛された名馬となったのか?」という問いに解答しよう。
 例えば応援しているサッカーチームがひたすら負け続けていたらどう思うだろうか?「一生懸命頑張っているから応援しよう」となるだろうか?
 ハルウララは一般論から見れば「駄馬」である。しかしながら、これを名馬と仕上げたのは高知競馬の売り出しなのだ。
 経営難から脱却しようと、話題作りのために負け続けている馬を売り出す。社会背景も含め、たまたまその方針が当たる。そして結果的に受け手の同情を買って、高知競馬場のアイドルとして走り続けた。それが結果的に他の負け続けた馬との隔てを作ったのである。
 オグリキャップのように、時に名馬は時代を作る。しかし時代もまた名馬を作りうるのである。


5.「強さ」はどこへ向かうのか?

 決してこの2頭だけが「名馬」に当てはまるわけではない。むしろハルウララなんかは外れたほうである。ただ今回の話に顕著に当てはまったのがこの2頭だったというだけだ。
 しかしオグリキャップのほかにも、競馬を知らない人でも知っている馬がいる。「ディープインパクト」だ。

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〈参考〉「近代競馬の結晶」、ディープインパクト 2021/08/13現在の写真

 重賞レースを複数制した馬は数多くおれど、「最強」の称号が似合うような馬というのは案外少ない。ディープインパクトその称号が似合う稀有な存在の1頭だ。
 また、ディープインパクトほど有名な存在ではないが、「オルフェーブル」もこれに当てはまる。やはり最強馬と言われてこの馬を外せないという人も多いであろう。しかし今回ばかりはディープに焦点を当てよう。

 ディープインパクトが活躍したのは2006年の出来事だ。そしてその頃の社会では、国外での活躍というものが望まれてくる。
 特に野球が顕著であるが、MLBでのイチローや松坂、松井秀喜、またWBCの優勝など、日本がスポーツにおいてかなり国際的に関わってくる時代になる(オリンピック競技を除く)。21世紀は国際的な時代である。
 競馬においては「凱旋門賞」がカギとなる。資料を見ればわかるが、ディープインパクト以降、凱旋門賞出走馬が一段と増える。つまり、「凱旋門賞」で結果を残せそうな馬が良き馬の基準となるのだ。まあいい馬だから凱旋門賞に出走するのだが。

 強さはいつの時代も正義である。しかし、「国際的な強さ」を求める時代だからこそ、結晶たちに磨きがかかるのだろう。


6.おわりに

 人気になるには理由がある。それは競馬という勝負の世界において「強さ」以外に決着をつけるものである。
 「無事是名馬」という言葉があるように、何が名馬の条件となるのかは曖昧なものだ。しかし人がいなければ名馬にはなり得らない。人気は文字通り、人が作るものなのだから。

 以上、ここまで結論付けてきたのだが、最後に一つだけ何か言うのだとすれば、この記事はでたらめだということである。あくまで思い付きで書いたに過ぎない。引用は多いが、信用してもらっては困る。これは論文ではないのだから。
 しかし人によっては思い当たる節があるのではないかと思い書いている。今後もこの時代に合った名馬が登場することを、一人の競馬ファンとして祈るばかりだ。

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