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"偶然と想像"を想像する

現代社会で起こりうる魔法とは何か?

この作品を観て私が連想したのはポールオースターだった
ただポールオースターの偶然による奇跡はもっと宗教的でエモーショナルで感情的であるのに対し、濱口監督の偶然による奇跡はもっと庶民的で直感的、そして肉体的なものである。
私は1話冒頭を観て今回はドライブマイカーと違い軽い感じなのかな?となんとなく思っていたが大間違いだった。
ドライブマイカーよりもより作家性が強い、そしてながら観できる画面の気持ちよさ!(笑)でもながら観するとほんとにいいところを素通りします。この短編集は五感を研ぎ澄まさないと気付かない奇跡が所々で起こっている。
あーすごい。
決して難しい映画ではありません。
ただリラックスして真剣に感じる必要がある。考えなくても良いんです。むしろ考えない方がいい。

ちょっと具体的な感想を。

第一話

ラストの部分

まず芽衣子は自分が和明の元カノなのを隠していたことを唐突に二人の前で話す。その声音は非常に演技じみており、棒読みでその話しの途中で突然(偶然?)金属音のような音がリズミカルに鳴り始める。つぐみはショックで店を出る。和明はそれを追いかける。顔を覆う芽衣子。突然ズームするカメラ。芽衣子が顔を上げると涙は出ていない。
芽衣子の前にはまたつぐみと和明がいる。
明るい感じで私は邪魔だからと店を出る芽衣子。
芽衣子は近くの工事現場を通りかかる。工事の「音」がする。さっきの金属音が工事現場の音だとわかり、観客は「音」がこの作品の現実なのだと知る。芽衣子は工事現場をスマホで写真に撮る。同じ現実の「音」が空想でも鳴っていたことにより不気味な(意地悪な)余韻を残す。とてもチャーミングで大好きなシーン。

そして私の個人的な解釈を言わせてもらいますと、お店の中のあのシーンはそれ自体が空想なのではないかと考えている。
あのお店には芽衣子しかいなかった。
あの偶然が空想であるということ。
店の中や店を出て、工事現場の音がしたあの「音」だけが現実であると。
それであれば辻褄は合う気がするんですよね。

第二話

佐々木に唆されて瀬川を陥れるために研究室に入る奈緒。表情は固く、前の佐々木とのシーンに比べると明らかに話し方に違和感がある。ひどい棒読みであり、喋り方にムラがあり、何かを読んでいるようだ(佐々木とたくさん"練習"したんだなとわかる笑)。しかもユーモラスなのが、この不器用にぎこちなく演技をする奈緒が瀬川の目の前でセクシーな女を演じながらさらに棒読みで本の中のえろシーンを読むという...しかもその"緊張したおかしな"声の響きに対して瀬川がいたく感動し、録音をほしいという。たしかに奈緒が一生懸命(そして演技が下手!あくまでも奈緒が下手なのであって森郁月が下手ではないのがすごいんです。下手な人の演技なんです)なのが面白いし、濱口監督は森郁月から小学3年生ぐらいの女の子をこの演技で引っ張り出したのでは無いかと。だから、えろシーン読んでるのに不思議なイノセントを感じるんだよね。これに対して奈緒はその声でオ○ニーしてください、それならさしあげますという(これはひどい誤解ですね。何も理解してない笑)。瀬川は驚いた顔をしつつオ○ニーすることを約束します。森郁月が緊張しながら演技するいい女を演じる演技が下手な素人女を演じる(ややこしい)ことが面白く、奇妙な緊迫感がある。瀬川の奈緒に対する「変な人だなあと思いました」という素直な感想に思わず笑ってしまった。奈緒のふるまいは明らかにおかしいし、ほんとに奈緒がおかしな女(ある種イノセントな存在)になってて、本質的な風変わりな人が空間を綺麗に歪めてる感じがほんとに美しいなと。

第三話

この話はとてもポールオースター的である。
2人の人間がそれぞれに勘違いして奇跡が起こる。
たぶん一番わかりやすく展開がエモーショナルだ。
偶然って物語にとって一番の敵だと言われている。話が嘘くさくなるからね。
でもこの物語には嘘臭さがない。
声のトーン、歩く速さ、なにもかもが自然なのだ。役者の動きに合わせてカメラが置かれている。役者を動かしてない。役者が動いている。とんでもないことである。
そしてインターネットがなくなったらブルーレイが復活する。流動体から個体に変化する、いにしえに戻っていく社会を描いている。
人間はつながりを失い、名前を失い、個を失うけど(結婚したら姓も変わる、演技をすれば簡単に他者になれる、)そこで大切なものが演技の細部で表される。感動します。きっと心のどこかでこの物語を私は求めていた。でも形にならなかったものが目の前で展開されている。インターネットのない世界は、きっとインターネットによって失われた秘密や、嘘や、「偶然」を取り戻すための演出なのでしょう。しかも作為的には感じられません。すごい。

このように、濱口映画の俳優の声、表情、仕草は明らかに現実に起こったことそのものであり、現実をそのまま切り取ったドキュメンタリーよりもなぜかホンモノなのである。(その意味でこの前観たリトルガールとは対局である。あの作品は現実を題材に非現実を映し出した。サシャはカメラを常に意識しているし、"させている"ー )

この現象はなんて言うんだろう。名前がついてない。たぶん。この監督の作品にはカメラが消える瞬間がある。

あの場面のあの声、あの動きが現実のあの人やあの人だったりするのである。しかもそれが(おそらく)海外でもはっきり伝わる。言語を超えている。

まるで物理法則のように"あの人"の声が再現されたりすること。まるで魔法である。しかもそれが言葉そのものではないことにも留意したい。あくまでも大きさ、強さ、速さ。形。声帯。肉体。量の問題なのだ。なにか一般化のようなことが行われているようではあるのだが..よくわからない。

それは物体の運動なのである。それはあなたに大昔に魔法は科学だったことを思い出させる。それは錬金術のようなもの。

役者の話す声が、話し方が、仕草が
自分の母や彼女や
過去に自分に意地悪をしてきた女の子だったりする(笑)
2話「扉は開けたままで」の終盤で唐突にキスをしたあとに意味ありげに元カレを睨みつける森郁月の表情を、顔を、仕草を、私はたしかに過去に見た。そしてそのことに私は癒された(そんな自分が本当に嫌だと思う)。
そんな映画は他にはない。

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