子どもが産まれるということ⑥ - 出産の日
前回の記事はこちら(準備万端)
妊娠36週と5日目。
予定日より約3週間早いが、
この頃、僕は「そろそろ生まれるのだな」と覚悟をしつつあった。
妻は子宮頸管縫縮術を行い、赤ちゃんが出てこないようにしていた。
子宮頸管を縛っている糸を切るのが36週と5日目だった。
なぜこのタイミングかというと、37週に入ったら正期産といって、いつ生まれても赤ちゃんの今後の発育に問題ない時期に入るからだ。
子宮頸管縫縮術の抜糸をしたら、その日にそのまま子宮口が開いて生まれる人もいるらしい。37週まではあと2日あるので、あと2日は出てきて欲しくないところだ。僕は抜糸後の妻からの連絡を待っていた。
「抜糸が痛くて衝撃。子宮口全然開いてなかった。今日は産まれなさそう」
翌日もその翌日も生まれる気配はなかった。
妻のお腹ははち切れそうになっていて、もう限界だと言っていた。赤ちゃんは自分のタイミングで産まれてくるという。好きなタイミングで出てきてもらいたいが、本音としてはもう産まれてきて欲しいと妻が言っていた。
切迫早産の時はあんなに出てきて欲しくないと思っていたのに、
今はなかなか出てこない息子を待っている。
妻は早く生まれるように陣痛を促すお茶を買って飲んだり、
歩くと子宮口が開くというので、近所の田んぼ道を散歩したりしていた。
だがなかなか生まれる気配はない。
もしかしたら予定日まで生まれないのかもしれない。それはそれで良い。お腹の中で1日過ごすと、外で過ごす1週間くらいの成長をするらしい。ゆっくり成長してから出てくるといい。
と、すっかり油断していたある日。
妊娠38週目に入った日。
僕はその日、大事な仕事がある日で、もしこの日に出産になっても立ち会えないので、ここだけは避けて欲しいなと思っていた日だ。
午前10時頃、妻からLINEが来た。
「今日仕事終わったあと実家にこれるかな」とのことだったが、
「今日は無理だな。明日なら行ける」と答えた。
妻から「了解」と返ってきて、しばらくして「実は今病院にいる」と連絡がきた。
出産への工程(?)だが、「おしるし」と呼ばれる血が出た後、陣痛が起きて、破水して、子宮口が10センチくらいになったら生まれるらしい。破水が先に起こる人もいる。
陣痛は最初は10分間隔くらいで1分間の激痛がきて、激痛が去り、を繰り返し、だんだんと7分間隔、5分間隔、と縮まっていくらしい。
最後は1分間隔で、つまりずっと痛いという。
妻は深夜におしるしがきて、3時くらいから陣痛が始まったらしい。5分間隔になったので、病院にきたが、5分間隔になってからも数日生まれない人もいるらしく、このまま入院するか、一度家に帰るか、先生が考えているということだった。
そのLINEが来た5分後に、「破水した」と連絡がきた。
「破水したから入院決定。すぐ生まれるわけではないので仕事優先で」とのことだった。妻もこの日、僕に大事な予定があるのを知っていたので、気遣ってくれていた。
その後、妻と連絡が取れなくなった。義母と電話でやりとりをした。
僕は仕事を中断して、病院へ向かうことにした。この日のために準備してきた大事な予定だったが、結局うまくいかなかった。
14時00分
病院に到着した。
助産師さんが「分娩室」と書かれた部屋に案内してくれた。
部屋を開けると妻の荷物で散らかっていた。衰弱している妻が「バナナを取って欲しい」と言った。
妻は陣痛バックと入院バックというのを二つ用意していた。入院バックは出産後に入院する時に必要な洗面用具などが入っており、陣痛バックには陣痛中に体力を蓄えるための食糧や飲料が入っている。
妻はどこに何を入れたかわからなくなった結果、分娩室を散らかしたようだった。
ぐちゃぐちゃの鞄の中からバナナを探して差し出すと喜んでいた。
部屋にはラジカセが置いてあり、リラックスさせるためオルゴールの音楽が流れていた。妻も普通に話せて、思っていたよりも余裕だなと思った。
しかし、陣痛が始まると苦しそうな表情になった。
普段は力の弱い妻が、腰のここをさすって欲しいと僕の手を引っ張る力は今まで感じたことない力の強さであり、そこから必死さが伝わってきた。
妻が「もう大丈夫」というまで1分間、全力でさする。意外とうまいと褒められた。5分経つとまた妻に「お願いします!」と言われて全力でさする。
そんなことをずっと繰り返していた。陣痛のたびに、妻の呼吸は荒くなっていった。陣痛がどんな痛みなのか聞いてみたが、答える余裕はなさそうだった。
時折やってくる助産師さんに「その呼吸じゃ過換気になっちゃう。ゆっくり息を吐いて」と言われていたが、妻は苦しそうにしていた。ソフロロジー出産という、笑顔で赤ちゃんを産む呼吸法を勉強していたと言っていたが、それをできる余裕もなさそうだった。
18時16分
母子の心拍を測る機械がアラートを鳴らしはじめた。(出産の記念に記録を取っていたので時間もきっかり覚えている。)
アラートを聞いてやってきた助産師が、機械の数値を見て「おっと」と言った。続けてバタバタと医師と助産師数名が駆けつけてきた。
何が起こったのだろう。
「旦那さんは廊下に出られててください」と焦ったように言われ、
僕は廊下に出た。
部屋で何が行われているかわからなかったが、助産師が何人も来て、医療機器を持って部屋に入っていった。
僕は廊下でポツンと立っていることしかできなかった。出産の時、男の僕にできることはないのだと、自分の無力さを感じた。
中で何がされているのだろう。
ここまで来たのだ。
赤ちゃんにも妻にも何もありませんように。
僕にできるのは祈ることくらいだった。
18時40分
助産師さんに部屋に入っていいと言われた。
赤ちゃんの心拍が乱れたと説明を受けた。
場合によっては、緊急で帝王切開を行う可能性があるので同意書にサインをして欲しいと言われた。
帝王切開をやるとしても、手術室の予定もあるのでいつできるかわからない。明日かもしれないとのことだった。
同意書には、いろいろと注意事項があったが、全然頭に入ってこなかった。
とにかく無事に産まれるベストな方法で、何でも良いのでやって欲しい。
そう思った。
妻は陣痛が1分間隔になり苦しんでいる。普通は1分間隔になると子宮口は十分に開いているはずなのだが、いっこうに開かない。何故だ。子宮頸管無力症とは何だったんだ。
たくさんの書類にサインをしながら、妻の腰をさする。妻は苦しんでいる。サインをする。
義母から電話が鳴る。
LINEを見ると、「しゃぶしゃぶだけどのぶ君何時に帰ってくる?」という平和な内容だった。
義母は今日は産まれないであろうと思い、僕をもてなすためにしゃぶしゃぶにしてくれたらしいが、今こちらはそれどころではない。
19時8分
妻が一瞬の陣痛の合間に、体力をつけるために病院食を食べようとしているところだった。付き添いの助産師さんの電話が鳴り、助産師さんが「えっ」と言い、「わかりました」と答えた。
電話を切った助産師さんが、「今日の20時に帝王切開をすることが決まりました」と言った。なので何も食べないでくださいとのことだった。
再び、いろんな人が部屋を出入りし始めた。手術前にレントゲンや採血をするらしい。僕はまた廊下に出るように言われた。
廊下でスマホで帝王切開について調べた。妻は事前に出産方法についてはいろいろと調べており、帝王切開についてももちろん調べていた。
もっとちゃんと妻の話を聞いておけばよかったと後悔した。
19時56分
妻が手術室に運ばれるところを見送った。
その後、僕は待合室に案内された。
よくドラマで、家族全員で産まれるのを待つシーンを見ていたが、今はコロナの影響で夫以外の家族は入れない。
待合室は僕しかいなかった。
不安だった。
助産師が来て、手術が始まったので、あと1時間で産まれると伝えられた。
1時間後にはついに赤ちゃんに会えるのか。
待合室には何もなかったので、いつも通りスマホをいじってみた。
しかし、何も頭に入ってこなかった。
20時58分
助産師さんがカートを押して、待合室に赤ちゃんを連れてきた。
ついに産まれたのである。
急な赤ちゃんの登場に僕は動揺した。
僕の初対面の感想は、
「サルじゃん」だった。
よく動物園にいる産まれたばかりの小さな生き物のようであった。
想像していたよりもだいぶ小さかった。
ただ、その小さな生き物も、力が弱くはあるが、しっかり呼吸をしていた。
良かった。。。
無事に産まれた。
ホッとした気持ちだった。
妊娠してからずっと、切迫早産のリスクなど気を張り詰める日々が続いていた。初めての妊娠・出産であり、夫婦でよくわからず不安な中やってきた。
でもこの小さな赤ちゃんの微かな呼吸で、
今までの苦労が一気に報われたような気がして、
自然と涙が出てきた。
そうして、泣きながら写真を撮り続けた。
良かった、本当に良かったと心の中で思いながら。。
しかし、すぐに罪悪感を感じ始めた。
赤ちゃんが生まれた後も妻の手術は続いており、この場にはいない。
妻はおそらくちゃんと赤ちゃんに会えていないだろう。
僕だけおいしいところを持っていっている。
本当に頑張って産んだのは妻であって、僕ではない。
僕はただ待合室で待っていただけだ。
妻に早く見てもらいたい。
そう思った。
結局、この後、僕は妻と会うことができず病院を後にした。
妻の実家に着くと、夜23時にもかかわらず、晩御飯(しゃぶしゃぶ)を用意してくれており、僕が父親になったことを祝ってくれた。
良かった、無事に産まれて良かったと家族で喜びを分かち合った。
そして翌朝、妻からLINEで写真が送られてきた。
その写真は妻と赤ちゃんのツーショットだった。
術後の痛みで動けなかったが、助産師さんが抱っこさせてくれて、
写真を撮ってくれたそうだ。
すっぴんの写真であったが、とても幸せそうな笑顔だった。
母になった妻の顔だった。
つづく
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