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誰しも人間が本職 『岡本太郎展』

愛知県美術館で開催されている岡本太郎展に行ってきた。東京でも開かれていたのだけれど、タイミングが悪く行けなかったので。愛知も行ったことなかったのでちょうどよかった。

星・花・人
午後の日
空間
痛ましき腕
露店
こどもの樹
にらめっこ
明日の神話

引力があって血走っているような絵たち。作品からは苦しくもあり、楽しくもある人間的な流れを感じた。

岡本太郎は社会に対して問題提起する絵が多い。もちろん素晴らしいのだけど、「露店」や「痛ましき腕」や「夜」などの、本人自身の苦悩、葛藤、不安、悲しみ、それらに立ち向かっていく、一見、情緒不安定そうな絵に、わたしは引き込まれた。ピカソの青の時代の作品も似たような理由で好きだった。

展示会には岡本太郎が撮った写真がスライドで流れている。岡本太郎がその場に受け入れらていて、そのときの空気感が写真から感じられて、とてもよかった。被写体が岡本太郎を見ているのか、遠くを見ているのか、撮られて嫌な顔をしていない。

展示会の前に『自分の中に毒を持て』を再読。本の中で岡本太郎は「こうすればうまくいく!!」と言わない。「失敗するかもしれないけど、そっちの方が楽しいだろ」と背中を押してくれるのだ。読んでいて勇気もらえる。

ちなみに本では、ゴッホについて以下のように書かれている。

ピストルを撃ち込んでから生きていた二十四時間、ゴッホはやっとつかんだ新しい芸術の世界を見ていた。つまり、彼が画家として、芸術の力だとかその役割だとかにのめり込み、その枠の中でジタバタしていた間は見えなかった、次の時代の芸術、つまり芸術を否定した枠の中であるアヴァンギャルドのあり方が、自らゴッホという肉体を殺し、もう絵描きとしてやれなくなった。絵描きを否定したときにはじめて見えてきたということだ。
自分の中に毒を持て

そして、岡本太郎自身のことは以下のように書いている。

十八歳でパリに来て、画家としての夢を描いた。そして芸術運動のグループに飛び込んだ。そこに情熱も張りもあった。闘った。しかし、やがて一方、人間のほんとうの生き方はタブローという枠の中で美を追求することだけではないのではないか。もっとひろく、そしてもっとぎりぎりの、人間という存在、生命それ自体が完全燃焼するような生にいけるべきではなのではないか。絵描きは絵の技術だけ、腕を磨けばいいという一般的な考え方には、ぼくはどうしても納得できなかった。
自分の中に毒を持て

自分の中だけで絵を追求していったゴッホと、絵以外にも外側に自分を開いていった岡本太郎。2人の生き方が対照的。(個人的な解釈です)

岡本太郎は絵以外にも、好奇心のままに大学で文化人類学、社会学、民族学を学び、幅広く読書していた。それが全て絵に活かされているので、何がどこに繋がるかわからない。ひろくひろく、好奇心持って学んで表現していったものが、自ずとその人の色になることを体現している人だ。

おもしろいな〜。

展示内の太陽の塔構想スケッチには、「ひろがることによって逆に根にかえって行く」とメモが書かれていた。

壁には下の言葉が書かれていた。

人間は精神が拡がるときと、とじこもるときが必ずある。強烈にとじこもりがちな人ほど逆にひろがるときがくる。
岡本太郎展

わたしは内向的で「探さないでください」と、定期的に閉じこもりたくなるたちなので、閉じてもいいんだと思った。

閉じて、ひろがって、根にかえって行く。

岡本太郎が人気を博しているのは、誰しもが持っている根源的な人間の欲求に訴えかけているからなのではないだろうか。職業に自分を当てはめたものではなく、わたしたちの本職は人間なのもしれない。

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