欠片の華-⌘1

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 駅から大学に向かうまでの間、いくつかの信号を通ることになるのだが、洸はそれが嫌いだった。ただ黙って目的地に向かって歩いていれば何かを感じることは少ない。ただ進むだけという、集中すべき行動目的が明確で、それによって集中力は乱れることがないからだ。けれど、不意に襲ってくる信号待ちの瞬間は、その集中力を半ば強制的に休ませてくる。別に意識しなければいいだけなのだろうけれども、いつの日からか、彼女はそれを積極的に無視することができなくなってしまっていて、こと高校に入学してからはその集中力の途切れ方はまるで彼女がそう仕向けているように極端に顕著なものになっていった。大学に入学した今でも、それは変わらず、拍車のかかり方こそ落ち着いてきたものの、それでもその、症状とでも呼びたくなるような迷惑な状態は一向に解消に向かう気配がない。それまでは軽やかに他人からは女性にしては足が速いと言われる歩行速度で順調に帆を進めていても、信号で足を止められるたびに頭の中で雑音が極端に膨らむ。うるさい。黙ってくれ、と思う。大学で講義を受けていたり、資料室での学習中、電車の中などはどれだけ不特定多数の人間が集まっていようともそんなことはないのに、信号待ちだけはダメだった。日常生活の中で苦手な時間帯のトップ3に入る。なぜそんなに苦手になってしまったのか、彼女のいうところの症状は坂道をゆっくり下るようにヒビ悪化していったため、明確なきっかけが思い出せないせいで、根本的な解決策もわからない。なるべく考えないように、感じないように。ノイズを遮断するヘッドフォンを標準装備して音楽を流していても、そいつはしたり顔して赤信号と共にやってくる。これはバスに乗っていても、両親の車に乗っていても一緒だった。いろいろ試した結果が、都会の雑踏でも安全性を欠かない程度のノイズキャンセリングヘッドフォンと音楽、もしくは通話だった。誰かと話していれば、まだ症状は軽くて済んだけれど、それでも解決には至らない。しかも電話でなければダメで、行動を共にしている人間との会話はあまり効果がなかった。これだけ条件が揃っていれば何かしら解決方法が見出せそうなものだったが、一向に解答とのかくれんぼは向こうが勝利したままだった。
 そんな信号待ちを今日も苦々しい思いで三箇所突破して大学の構内に入る。こうなればもう信号待ちに関しては大丈夫。今日は全体で6箇所ある交差点のうち半分にも引っかかってしまった。ついていない。大学の講義がある日、ひかるのなかでこの信号待ち遭遇確率は願掛けめいた運試しのようなものになっていた。もうゲーム化してやり過ごすしかない、と開き直るしかなかったからそう思ってはいるが、消してそれで”症状”が楽になるわけではない。交差点全部に引っかかった日など、大学にたどり着くだけでぐったりしてしまい、もう帰りたくなってしまう。厄介な体質、厄介な脳味噌、厄介な自分。
 この日は、まず朝一1本講義に出席し、それから空いている2限分を資料室に籠るつもりだった。そのあと1限をこなし昼を挟んでもう1限と続く。信号待ち苦手なくせに、学食はそうでもないのもまた不思議だった。自分自身のことでここまで不思議が行列をなしているということが昔は嫌で嫌で仕方なかったが、考え方をなんとか切り替えることで下手に戦わないことに今のところは成功している。しかしあくまで対処方法で亜り対処療法にもなっていない。あくまでストレスも嫌悪も溜まっていくし、解決なんてできないのだけれど。
 洸の所属する文学部の講義中は、そんな彼女の中も非常に静かで、冷静に講義を受けることができる。理系に代表される工学部や医学部だったらこうはいかないかもしれない。実験や実習なんかで騒がしいのは想像に難くない。
 そんなことをどっかでぼんやりと考えつつ、その日最初の講義を終えて、資料室へ向かう。別に図書館もあるのだが、資料室は図書館よりも文学部、とりわけ日本文学科に特化した資料が集められている。洸の所属するその学科の必須科目の中には毎月の最終講義で期ごとの成績考査に大きく関わる小試験を実施する講師がおり、ここである程度の点数を稼いでおかないと単位取得に暗雲が立ち込めると言われている。まだ1年の夏休前、入学から3ヶ月も経っていない洸達にとってはどの程度かはそうぞうもつかないが、毎月点数を稼いでおくに越したことはない、と腹を括ってとりあえずしばらくは真面目にやることにしていた。難しい方程式が出るわけでも、計算式があるわけでも、理論があるわけでもない。基本は知識を溜め込んで、自分なりに考察していくような形式が続いているので、そう難しいことはないのだが、いかんせんその量が多かった。
 日本文学科に特化している資料室だが、その特化具合と学生の数にしては広く、資料点数も多い。学習スペースもまあ潤沢に確保されていた。少しお洒落な図書館のような内装で、資料云々よりも落ち着いた雰囲気を好んで図書館よりもこちらを使う学生も多い。月末は居眠り族も多くなる。今はそろそろ梅雨に入ろうかという6月も中旬、そろそろそんな学生も増えてくるだろうと思っていたら、案の定ちらほら見受けられた。よく話に聞く遊んでいるイメージの強い大学生にしては真面目な人間が多く感じられるのは、洸にとって少し意外だった。
 今日もその必須科目対策を講じているであろう学生たちの中でも数人居眠りをしているものもいた。学習スペースもまずらしく埋まり気味だったが、好んで使っている長机の角の席が幸運なことに空いていた。男子学生との間を一つあけて、その右側に陣取った。選択科目も似通っている印象のある、一見真面目そうな学生だった。いろいろな講義でもよく見かけているのだろう、洸もなんとなく顔を覚えていた。友人でもないのに、自分にしては珍しいと、洸は思った。
 まずは講義録のノートを確認して、必要な資料の大項目にあたりをつけ、探しにいく。流石に皆目星は被るのだろう、目的の3分の1も見つからなかったが、致し方ない。返却待ちしながら、獲得した資料で進めるしかないだろう。机に戻って、いよいよ資料と睨めっこを始める。
 そうなったらもう洸得意の集中力が発揮され、一通り試験は院と思しきノートの範囲について資料で補い終えると、コマ数にして2限分、時間にして3時間以上はあったはずの自主学習時間はあっという間に半分を回ろうかというところに差し掛かっていた。一旦一息入れようか、と思って軽く背伸びをすると、不意に洸に、小さく声がかかった。
「…あの」
 それは席を一つあけて隣に座っていた男子学生だった。
「はい?」
 図書館ではないので静粛にしなければいけないルールが資料室にあるわけではない。日によっては話しながらグループで学習している学生もいるのだが、今日は特段静かだったせいか、図書館基準の声量だった。それでも分かる、優しそうな、聞きやすい声だった。
「…あ、すみません。よく同じ講義で見る方だなと思って、声かけちゃいました。もしよかったら資料交換しませんか?手持ち大体範囲終わっちゃって、さっき探しに行ったんですけど、出払っちゃってるみたいなんですよ。僕の持ってきたの、役に立つようであればと思って、すみません、様子伺ってました」
 と、差し出された数冊の資料は、確かに先ほどリストに挙げていたものだった。
「あ、いいですよ。ちょうど私もこの資料の範囲部分は終えたので。しかもそれ、私も見たかった資料です」
「あ、ならよかった。なら、交換ってことで」
「はい。あ、見直したくなったらまた借りてもいいですか?」
「もちろんです。あ、すみません。僕、同じ一年の茅野っていいます。よろしくです」
「あ、こちらこそ。月萌って言います。結構、講義被ってますよね。確かによく見るなぁって」
 洸はこの時、少し疑問に思ったことがあった。
 彼女は決して友人の多いタイプではない。義務教育課程、高校時代などの友人はそれなりだが、大学に入ってからは本当に一握り、2、3人の友人しかいない。洸が抱いていた大人数で連んで遊ぶような大学生のモラトリアム生活とは程遠いと言っていいくらいの交友関係しか作れず、というか、作らずにきた。ましてや異性など尚更のことだった。それに、信号待ちほどではなかったが、大人数と群れているとノイズも多いため、積極的に避けてきたと言っていい。それなのに、この茅野という人間に対しては、あまりそう言った抵抗感を感じさせない印象をすぐに覚えたからだ。そして洸は、そのことに対して反射的に自覚的だった。他人との関わりに希薄とまではいかないまでも、消極的な立場を自覚している洸は、自らのその反応と応対に、違和感を禁じ得なかったが、不快感もまた希薄だったため、自らの行動に対する否定を避けることにした。
「こちらこそです。じゃあ、これどうぞ」
 そう言いながら茅野が資料を差し出してくると、応えるように洸も手元の資料を差し出した。どうも、と茅野はそれを受け取り、洸もまた、ありがとうございます、と受け取る。
 せっかくの厚意で譲ってもらった資料を受け取ってすぐに休憩もなんだな、と思った洸は、とりあえず目ぼしいページにあたりをつけてから休憩することにした。ものの15分ほどで終わる作業だろうし、施設のすぐ外の自販機で何か買って来ようかと思っていた程度だ。タイミングは適当でよかった。
 それから作業に取り掛かる。譲り受けた資料の参考箇所に目星をつけ、温かい緑茶を購入して席に戻り、作業を再び本格化させようと席に戻ると、洸の席に個包装にされたタブレットのチョコレートが3個置かれていた。数ある嗜好品の中でもチョコレートは上位に君臨している。どうやら、茅野がくれたようだった。
「これ、茅野くん?」
「あ、はい。もしチョコ嫌いでなければ」
「ありがとう。実はチョコかなり好きで」
「よかった。集中すると疲れますからねぇ。僕いつも持ち歩いているので、どうぞどうぞ」
「いただきます」
 貰った3つのうち1つの包装を剥いで一口に頬張ると、ほんのり紅茶のふうみがした。あ、これすきなやつだ、と思う。
「美味しい。ありがとう」
「ならよかった」
 茅野も一口頬張ると、会話はそこで止まり、お互いに作業を再開させた。
 不思議なこともあるものだと思う。もう資料室をよく利用するようになって2ヶ月以上は経つというのに、今までこんなことはなかった。今日がなんでもない、特別な日でありはしないのに、そんな時こそこういうことが起こるのかもしれない。普通の中の、日常の中の、ほんのちょっぴりの特別。平凡な日々の中の、一滴だけの隠し味。洸がどれだけ朝から始まり夜に向かう日常を呪って嫌っていても、それは洸に対して作用する外部からの事象には、まるで関係のないことだった。



 それからは途切れることなく学習を続け、講義ギリギリにになって講堂へ移動する。陣取るのは代替どの講義でも、教壇に向かっての前後左右関係は真ん中ほどの位置だ。近すぎてスクリーンや黒板の全体を見渡せないのも不便だったし、後ろすぎても見えづらい。角度がついても一緒だった。友人とそんな話をしたらクソ真面目だな、と言われたけど、サボったツケが後で回ってくるよりはいい、と思っていた。あとであたふた焦るよりはいいだろうというのが洸の思考だった。
 なんなく講義を終えて、学食で簡単に昼食を済ませ、早めに次の講義が行われる講堂に陣取った。見回すが、ほとんど人はいない。適当に予習でもと思ってテキストをペラペラと捲ってみる。文学部の講義など、今を生きる18歳の若者の大半にとって退屈以外の何者でもないだろう。ただそれでも就職するためだけにでも、それらの単位は必要だ。何を学ぼうと、その先に生かされなくてもだ。けれど、だから、今だけだと割り切ることもできる。責任猶予という檻の中でどう生きれるかは洸にとってはどうでもいいことだが、せめて守りたいもののためにやり過ごすように生きている。
 講義開始10分ほど前になっても、まだあまり席は埋まっていなかったが、不意に後ろから声がかかった。
「お疲れ様です。さっきはどうもでした」
 資料室で隣り合わせた茅野という男子学生だった。
「あ、やっぱり茅野くんもこの講義取ってたんですね」
「はい。やっぱり被りますね。昼前も実は同じ講義でした。あの講義は人が多すぎるからたまたま見かけただけで絵したけど」
「この時間は3分の1もいませんもんね」
「そうですね。あ、横いいです?」
「もちろん」
 特段馴れ馴れしいとも思わないのは、その物腰の柔らかさと丁寧さ、人当たりの良さだろうか、と思う。資料室での並びと同じ様に、1人分のスペースをあけて茅野が左隣に座った。
 それから他愛のない話を少し交わしていると、すぐに講義が始まり、お開きになる。途中一瞬、横目で茅野の表情を覗いてみると、いたって真面目に講義を受けている様子が見て取れた。ふうん、と思う。何に感心したのかはわからないけれど。
 粛々と何事もなく講義は進み、時刻は3時前を示している。今日の講義はそれが最後だったので、洸は再度資料室でもう少し学習を進めるつもりだった。
「お疲れ様でした。月萌さんはもしかしてまた資料室です?」
「お疲れ様です。そうしようかなと思ってました」
「そうですか。僕はちょっと約束があるので、今日はこれで失礼です。もしかしたら、またあした、ですかね?」
「多分。歴史考察、取ってます?」
「取ってます」
「ならまた明日かもですね」
「そうですね。それじゃあ、また」
「はい。また」
 話しながら身支度を終えた茅野が先に席を立って、講堂を後にした。なんとなく目で追ってしまう。洸は、さて、と思いたち、一路資料室へと再び足を向けた。

基本的に物語を作ることしか考えていないしがないアマチュアの文章書きです。(自分で小説書きとか作家とか言えません怖くて)どう届けたいという気持ちはもちろんありますけど、皆さんの受け取りたい形にフィットしてればいいなと。yogiboみたいにw