爪先の真実と、踵のついた嘘。(完結)
[ 爪先の真実と、踵のついた嘘。]
お風呂上がり頭の中に、ピアノの旋律が流れてくる。
ショパンっぽいけど、曲名がうまく思い出せない。
なんでだろう。
こんなこと今までなかったなぁ。大体移動中によく聞いているお気に入りの曲が流れてくることはあった。ショパンはよく聞くけど、大体自宅で本読んでる時とかだ。
でも、明らかにショパンだ、と断言できる気もしない。
ドライヤーの前に、髪を拭く時の癖で目を瞑ると、浮かび上がるその日の風景。今日も悪い日じゃなかったなぁ。と、不意に心が緩むと、ふっとその顔だけがものすごくリアルに再生される。
焼き付いてるとかじゃないはずだ。
けど、あたしはそのイメージから逃れられない。逃げたいとも思わないけれど、なんでかすごく鮮明に見えてくる。
…今日、落としたパス拾ってもらったっけ。そういえば。
と思った瞬間、彼が差し出してくれたパスを受け取った右手の指先が、かあぁっ、と熱くなる。
意味がわからない。
それにしたって。
確かにいい人だよ。気遣いもしてくれるし、仕事のあまりできないあたしにも気を配ってさりげなくフォローしてくれるし。でも、職場の人間関係を円滑に保ちたかったら誰だってするじゃんそんなこと。
…でも、なんか、あたしの中では彼を捉える視界がなんか違う。
入れたくて入れたわけじゃない、特殊なフィルムをかけた視界に通している気がする。
これ、なんなんだろうなぁ。
なんか、鳩尾の上のあたりがムズムズするんだよなぁ。
なんだろうこれ?
いいや、ドライヤーかけよう。
と、ドライヤーをかけ終えた後でもムズムズは治らない。
もうアイス食べて眠るだけ。明日もお仕事。
うーん。
いいや、テレビでも見ながらアイスゆっくり食べて眠ろう、と思って切り替えた。
結果、ニュースとバラエティを見ながらアイスを食べ終えて、すっかりその前のことは忘れた。のに。
電気を消してベッドに入った途端に思い出す。
普段なら仰向け。起立みたいにぴん、として寝付くのに、左を向いてしまった。
それすら違和感。
宙に浮くようになってしまった右手が、常夜灯には照らされているけども暗い空間をふわりと彷徨った。
そうして少し。
布団の中に戻った右手は左手と繋がって膝を抱えた。
…寂しいの?
それとも何か願うの?
自問自答が少し続いて、ゆっくり、ゆっくりと、眠りに落ちていく。
数日後。
その日もなんなく仕事はこなした。
ただ、異変があった。
終業して、帰ろうとすると、天気予報にはなかった雨が降っていた。駅までは5分くらいあるから
傘無しだと電車に乗る頃にはビショ濡れだ。
諦めて併設のコンビ二で傘を買おうと戻ると、彼がエスカレーターで降りてきた。
「あれ、傘持ってないの?」
と声をかけられる。ちくり。
「あ、うん。今日予報じゃ降らないって言ってたから」
「ラッキー。俺置き傘してたんだ。駅まで入ってかない?」
「え、いいよ。悪い」
どういうラッキーなのかと思う。
「いいよ。ここから駅のために買う必要ないって」
「……まあ、それはそうだけど」
「ほら、行こ」
強引に、そして物理的に優しく背中を押される。そうしてあたしは彼の差してくれる傘の中に収まった。ち、近い。ちくり。
「……今日買い物するの、なんか萎えない?」
「……え、え?」
「あれ、基本自炊って言ってなかった?」
「そうだけど、そっちも一緒じゃん…まぁ…確かに冷蔵庫の中空っぽに近いなぁ」
「買い物うざくなってるでしょ?傘もないし?」
「う、うん」
「ね、良かったら食べて行かない?駅から近くならいいじゃん」
「え……」
正直突然の雨の中傘も持たずに買い物めんどくさい問題はあたしも自覚していた。ちくり。
「いいじゃん。そんな長居しないからさ」
「ま、まあ、いっか。済ませちゃおうか」
「よっし!おれおひとり様苦手タイプだから助かるー」
「そうなんだ。意外」
「バー以外は苦手。あ、牛丼屋さんとかは別ね。そっちのが自然ってのもあるし。オフィス街なら」
「あたしはおひとり様平気だけどなぁ。誰かと2人でご飯なんて、どれくらいぶりだろ」
「飲み会よくやってるじゃん、うちの部の女子は」
「大人数じゃん。最低でも6人はいるイメージ」
「……確かに。みんな仲良いもんなぁ」
「なら仲良い人誘ったら?あたしじゃなくてもいいじゃん」
「なんでそうなるよ。別にそんなつもりじゃなかったし、ロビーで上月に偶然会って、その偶然の続きだろ?たまにはいいじゃんこういうのも。みんなで行くと、仲良いから賑やかなメンツ多くて、あまりちゃんと話した記憶ないしさ」
「杉崎くんだってそうじゃん。巻き込まれちゃってさ」
「あれはしょうがない。あれはあれで楽しいから」
「だよね。わかる」
「でも話してみたかったんだ、こういうふうに。あ、どこ行く?」
ちくり。
「え、ああ。あたしはなんでもいいよ。オールラウンダー、好き嫌い無しだし」
「今日はなんの口?」
「それも今ないんだよねー。杉崎くんの候補あげてみて。ピンときたので反応する」
「ふむ。じゃあ……イタリアン?」
「……むう」
「外したか……中華?」
「なくはない」
「クッソ……定食屋さん?」
「あーなんか近づいてきた気がする」
「えーちょっと待ってドンピシャ行きたいからちょっと待ってえっとそうだなあー…」
ちくり。
「焼き鳥屋!」
「あ、正解かも」
「高架下のいいところ知ってるー!行こうぜ、すぐだ。あ、服に匂いつくかもだけど平気?」
「大丈夫!リカバリーできるから」
「よし。じゃ、こっち」
不意に掴まれた手首。
降り頻る雨の中。
傘の下、2人。
ご飯を食べながら、これでも話が尽きないかってくらい話した。
楽しい。向こうもそうだったみたいで、何かがほっこりと温まる気がする。
上手いこと意気投合できたのかなと思う。
けどそれ以上に、ちくり、が多かった。
たったこれくらい。たった一回の食事。もちろんそれまでの関係性の蓄積はある。
今日の今日知り合ったわけじゃない。
けど、その視界に入ってきて、このロケットスタートはずるい。
優柔不断な、へっぴり越しなあたしに、それに気づかさせるなんて。しかも焼き鳥屋さんで。
裏技もいい加減にしてよ。
「じゃ、そろそろ出ますか。思ったより長居しちゃったな」
「えー、でも全然良かった。いろいろ話せたし」
「そう?なら良かった。同じ感想」
会計を済ませたあたしたちは店を出た。雨は止んでいた。
「あー止んだ。良かったね」
「だな。上月は上り方面だったっけ」
「うん。下り?」
「そう、じゃ、改札まで行きましょうか」
「うん」
そうして並んで、ほんの1,2分の改札までを並んで歩く。背、高いなぁ。15センチぐらい違うかも。なんて思う。届いてみたいなぁ。
ちくり。
改札に着くと時間的にも周辺には人も少なくなってきている様子が伺えた。
「んじゃあ、ここで?」
「……うん」
と、返事をしつつも改札に背を向けて彼の方に向き直る。つま先がこんにちわ。距離も近い。あと、一歩くらい。
でもその一歩が重たい。
どうする?あたし。
もう、決めた。
「どした、上月?」
「あの、杉崎くん」
「なんだよ、改まって」
「彼女いたらごめん」
彼の返事は待たず、ジャケットの襟を掴んで、思いっきり。
最初で最後ならそれでも構わないと思いながら、そうでないことを願いつつ、受け入れてくれないかなって、祈りつつ。
一歩彼の方に踏み寄って、今までにしたとのない背伸びをして、キスをした。
ギリギリ届いた。そう長くはないけど、履いているヒールの踵だって浮いてるのに。
「……ごめん。今日はありがと。じゃね。また」
そう言って振り返り改札を通ろうとするあたしは手首を掴まれる。
ちくり。
「ちょっ…」
と言いかけて次の瞬間に反転したあたしの体は彼に抱きとめられていた。
受け止めるようなハグはすぐに解かれて、肩を掴まれる。
「それはずるい。俺から言おうと思ってたのに」
「え……」
「……多分同じだよ。俺も、上月の事」
「……好き?」
「…恥ずかしいこと聞くなよ。そうだよ。だから、今日ラッキーだなって」
ああ、そういうことか。
ちくり。
「上月も……その」
「うん。今、わかった。好き」
ああ、これが、恋か。って、その場で気づいた。いや、気づくの遅すぎあたし。
「……嬉しい。なあ、まだ終電まであるじゃん。もう一軒行かない?俺ちょくちょく言ってるバーなんだけど」
「おひとり様平気なところ?」
「そう、そして、個人的に3人以上がNGなところ」
2人、ならいいんだ。
「2人の枠は空けといてくれたんだ?」
「だいぶ前からいつかもし、上月と行けたらとは思ってたよ」
「本当?」
「おう」
「カッコつけ」
「うっせ」
改札前まではならんで歩いてきた。
改札前を離れる時は手を繋いでいた。
パスを受け取ったとの指先よりも熱い手のひら、それよりも熱い唇。
なんて堂々としてしまったんだと急に恥ずかしくなってきた。
でも。
数日前の夜を思い出した。
何かよくわからないものに悩んでいた自分に教えてあげたい。
それ、恋、だよって。
……ちくちくちくり。
BGM:一歩 / 緑黄色社会
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基本的に物語を作ることしか考えていないしがないアマチュアの文章書きです。(自分で小説書きとか作家とか言えません怖くて)どう届けたいという気持ちはもちろんありますけど、皆さんの受け取りたい形にフィットしてればいいなと。yogiboみたいにw