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硯考 書と禅
今回は大森曹玄 著「書と禅」を参考に気韻生動について考えてみます。
竹刀、木剣を持って行う禅が剣道である。同様に、筆をもって行う禅が書道である。それらはみな ”他の手段をもってする” 禅だ、・・・
大道は元来、無門である。問うべきものは人である。
大道無門 大道は無門。
千差有路 千差路有り。
透得此関 此の関を透得せば、
乾坤独歩 乾坤に独歩せん。
大道に入る門はなく、多くの道があるだけだ。
無門の関を透過して、天下に一人歩くだけ。
気は生命そのものであり、筆者の人格そもものである。論者のいう高潔や不潔は、最も如実にこの墨気に現れる。墨気の気は気韻生動の気であり、これなくしては書は死物となる。
気韻生動とは、その書なり画なりの作者それ自身のもつ気が、一種の韻律を帯びて生けるものの如くに躍動することだとおもう。いくら技法が巧みであっても、作者自身に躍動する生気が漲っていなければ、それが筆端を通じて紙面に現われようがない。
気韻生動とは気品、風格が生き生きと感じられることです。何かの道に徹するということは厳しい修練が必要です。それに耐えて高い境地に達し、無意識に書に取り組んだとき、その人の内に積み重ねられたものが純化し表出されることがあります。気韻の備わった作品はその鑑賞者に深い感銘を与えます。
ではその「気」とは何なのでしょうか。
気というのは、現実の世界から離れた高度に抽象化された形而上学的な概念です。気の捉え方は様々ですが、ある種の生命的エネルギーと考えれば理解しやすいと思われます。気はエネルギーですからいろいろなものに集散します。
「人品すでに高ければ、気韻高からざるを得ず。気韻すでに高ければ、生動至らざるを得ず」 郭若虚
ようするに、気韻生動を技法よりも重要なものとみなし、人間形成に努めることが不可欠であることを説いています。
つまり、問うべきものは人なのです。
人間の原点、それ以外に私たちが問うものはないということです。
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