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1.生まれと子供時代

南の地方、某かの県で生まれた人間が僕である。 とにかく体が弱く、薄着をすればすぐ風邪をひく子供だった。 僕の幼い頃の記憶は、夜間救急からの帰り、ぐったりした僕をおぶった父の背中から見た、田舎の集営住宅の階段、その天井片隅に居た小さな蜘蛛がせっせと巣を作っている姿だった。
たんたん、と、コンクリートの階段を両親が登る音を聴きながら、眠りについた。 照明がちかちかと点滅を繰り返し、その光に虫が寄ってきていた。 踊り場から時折見える外は真っ暗で、ただただ闇が深く感じたのを覚えている。
昔は虫が平気だった。 大きな蝶やバッタ、セミやトンボ、色んな虫を追い回し、捕まえては虫かごに入れていた。 小さな虫かごに押し込められた虫からすると悪魔の所業である。それほど虫は得意だった。
保育園に上がる頃に母の実家で暮らすことになった。 父の車は、当時きっといい車であったのだろうセダン車で、やわらかい起毛の布のシートだった。 喫煙者である父は、車の中でも煙草を吸うので、シートはすっかり父の煙草の匂いになっていた。 移動は夜だった。 田舎から、田舎へ。
幼かった僕はただただ眠たくて、後ろのシートで、父の煙草の匂いを嗅ぎながら眠っていた。 倒れた樹木やゴミの飛来を避けるネットで出来たトンネルを走行していた記憶はある。 そのトンネルは、母の家と父の家との地区分けを認識する、自分の中での目印だった。 色々あった、と後に母は語っていた。
ただ、遠い目だった。 幼い頃、同じ質問をしたことがあったが、母は困ったように笑って、 まだ知らなくていい、と遠回しに僕に言うのだった。 ふうん、とだけ思っていた。
父の家には住んでいた、と言うより、お泊まり程度に週末行くくらいで、何も無い田舎でひとり遊びも出来ず、子供ながらに窮屈な家だった。 母も父も仕事や家事で不在で、父方の祖父が常に家にいたくらいだった。 未だに僕は、父方の祖父は少し苦手である。 あまりいい記憶が無いからというのもある。
オレンジジュースが飲みたかった。 実家で出るのは大概お茶か水で、嫌ではなかったが、ジュースは特別なものである思いがあった。 父方の実家にいた晩御飯、飲み物はオレンジジュースだった。 晩御飯のメニューよりも、そのジュースが特別に思えた。 注がれる1杯1杯を大切に飲んだ。
その日の夜、喉が渇いて目が覚めた。 トイレにも行きたかった。 父方の実家は、トイレはひとつしか無かった。 2階の父の部屋にいた僕は、隣で寝ていた両親を起こさぬように、そっと部屋を出た。 暑苦しい夏の日だった。
田舎ならではの独特の匂いのする階段を踏みしめながら、静かに静かにトイレを済ませた。 帰る途中、ふと目に冷蔵庫が入った。 僕は知っている、残りのジュースが中にあることを。 ただ一つ問題なのは、1番上の冷蔵庫内に仕舞われているということだった。
当時の僕は成長期が遅く、背も小さかった。 背の順で並べば前から数えた方が早かった。 1番前で手を腰に当てる度に思い知らされる、自分の背の低さ。身長。成長の差。 代われるものなら、代わって欲しかった。 そんな僕は、勿論1番上の冷蔵庫の扉など届きもしなかった。
ただ、あの時のオレンジジュースの味が忘れられなかった。 どうか、このまま寝る前にもう一度、あの一杯を。 背伸びをして何とか扉を開けた。 深夜だった。 しんとした室内に、無機質な機械音の中、庫内の光だけが僕を照らしていた。
オレンジジュースが飲みたかった。 ただ、それだけ。 手を伸ばすも届かず、積み上げられた缶詰がひとつ、床に落ちて転がった。
夜中のしんとした空間に固く響く金属音。 やってしまった、と子供心にはわかったが、缶詰を元に戻そうと椅子からそっと降りたところを、 大声で祖父から怒鳴られたのだった。 1階には祖父の部屋もある。 寝起きを起こされて不機嫌なのか、感情と田舎混じりの方言丸出しで私を大声で詰った。
なんでそこまで怒るの、なんて言葉は出なかった。 夕餉の際に飲んだ酒が抜けていないのか、感情剥き出しで叱り飛ばす祖父は、下手をすれば手も飛んできそうな勢いで。 僕は、へたりこんで静かに涙を流すことしか出来なかった。 それほどに子供相手に本気で怒る大人が恐ろしかった。
下の騒ぎに起きてきた母が、僕の顔を見るなりぎゅっと抱き締めてくれたことまでで僕の記憶は途切れている。 ジュースが飲みたかったんよね、としゃくり上げる僕の背中をさする母の手はとても優しくて。 子供ながらに、親の手を借りないと何も出来ないことや、ここでの僕の扱いを何となく察知したのだ。
大人になった僕に、母は独り言る時がある。 父方の生まれの場所は、閉鎖的で、長男主義が強く、母への当たりもかなりきつかったらしい。 母が親族から嫌味を言われようが、家事をしようが、父は助けてくれることは無かった、と。 間に入ってやめろと、母を庇うことはしてくれなかったと、零す。
「こんな夜中にガタガタうるせえと思ったらお前か!ここで何しちょる!!!はよ寝らんか!!!!これ以上喧しくしたらーーーーーーー」 祖父が何を言おうとしたのかはわかっていた。ここで母に抱きしめられたけれど、しゃくり上げる僕を抱えてごめんなさいすいませんと繰り返す母に申し訳なかった。
幼いながらも、祖父に頭を下げる母に対して、自分のせいで謝っていることは理解出来た。その時、祖父の大声に対する恐怖心よりも、母を巻き込んでしまった悔しさと、情けない気持ちも綯い交ぜになってきて、しゃくりあげながら僕はなんで泣いているのか分からなくなってきていた。
その後の記憶は朧気だ。 母に抱かれて階段を登り、涙が止まってもしゃくり上げる僕の背中を暖かく撫でては、とん、とん、と一定のリズムで叩いてくれた温もりはうっすらと覚えている。 父の部屋の煙草の匂いと、田舎の匂いと、布団の匂いと。
そのまま横になっても背中を擦ってくれた感触は、目を閉じても思い出すものだ。 ただ、事の一連を考えればいい記憶とはいえなかったが。 その後は何度か、父方の祖父が開く会食に招かれたが、僕はほとんど覚えてはいない。ただ、外者の視線が僕と母に集中し、居心地は悪かった。
嫌な視線だった。 僕への、大人の視線は。 幼い僕にもわかるほど顕著だったのだと、今では思う。 僕が通る度に聞こえるひそひそ声や、笑い声。何を話していたのかは分からない。もしかしたら、違う話題なのかもしれない。でもただ、その時に出席していた大人達は、祖父と同じように見えて怖かった。
ただ、祖母は好きだった。 母屋ではなく、敷地内に立てられた別棟の家に1人で住んでいて、唯一僕を可愛がってくれた。 鍵はなく、自由に出入りできた。顔を見せる度に、おいでとお菓子をくれ、たくさん褒めて貰っていた。 粗相をしても、大丈夫だよ、と笑いながら片付けてくれるような人だった。
いつかの日、祖母が居る別棟に鍵がかけられていた。何故だろう、と不思議に感じていた。祖母のいる別棟はトタン屋根が継ぎ接ぎされており、ドアの金属も錆きっていた。所々木も腐り、補修したであろう跡が幾つも残る古い家だった。
古くなって使わなくなったのか、と思っていた。当時の僕は、保育園に入るか入らないか、位の年齢だったと思う。ただ、もうあのおばあちゃんには会えないんだな、とは薄ら感じていた。 後々、成長してから母から聞いた。祖母は、急性くも膜下出血で逝去したのだと。
部屋は悲惨だったと言う。 激しい痛みの中で抗うようにのたうち回った跡。爪を立てたであろう畳の傷。吐瀉物の跡。 母はそれ以上は語らなかった。ただ、そういうことがあったから、別棟を閉じたのだと、そう言った。 母も言っていた。凛として優しい人だった、と。














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