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猫又の薬師 弐

時は江戸中期。朴桜が生まれた頃から時は経ち、時代は享保へと移り変わる頃。
まことしやかに囁かれる、廃村となった一角の東屋にあるという、猫又が切り盛りする薬屋。
万病、難病を立ちどころに治すという薬屋。
今日もどこかで、暖簾を掲げてお目にかかることでしょう。

「ようこそおいで下さいました。……猫又の薬屋へ」


─────────
猫又である朴桜は、柔らかな銀灰色の尾を揺らしながら店の中の薬棚の整理をしていた。
引き出しを開けては紙に筆を走らせ、数を記録していく。

薬屋を訪れる人はそう多くはない。
朴桜が呪い(まじない)という名の結界を張っているからだ。
手の施しようがない。藁にもすがりたい。猫の手も借りたい。そんな追い詰められた急患、重患だけが見える、道無き道。
人の居なくなった廃村を通り抜けた先にある東屋。
かつては、朴桜を名乗る前に、猫として過ごした村。
静かに廃村となって地図から消え去った村。
ただどんなに朽ち果てようとも、人が時と共に忘れようとも、朴桜にとってはそこが故郷であり、無くしたくない場所であった。
だからこそ猫又の薬屋は、かつての村、つまりは廃村にある。

「…ふう。」

記録した紙を捲り、薬草の備蓄をもう一度たどっていく。

「甘草がちょっと少ないな…あと人参、桂皮も必要ね。上薬で使う頻度が多いから仕方ないか…。中薬、下薬はまだあるから……。あと、十薬とゲンノショウコ…大丈夫そうね。センブリもまだあるし……そうね、まだ山で生えているのは見たし、採取はできるからこれはまだいいかな。」

漢方薬には上薬、中薬、下薬という分類がある。
大雑把に言えば、体への効力と毒性で決まる。
毒性が強いが、治療の肝となる効果を持つ下薬。
毒性はほどほどだが、長期使いは向かない、滋養回復の効果を持つ中薬。
毒性はほとんどなく、活力を補う上薬。
漢方薬は薬だけではなく患者自身の情報も調合の元となる。
主訴を聞き、実際に見て、触って、色々な箇所を確かめる。これを証という。
患者の証に合わせて効果のある生薬を選択する。こうした過程を経て初めて薬とするのだ。

漢方薬が清から日本に伝来したのは朴桜が生まれる何百年も前の話だ。日本にも民間薬としての療法はあって、薬草を煎じて飲む習慣がないわけでなかったが、しっかりと治療法として活かされ始めたのは日本での研究や実践が盛んとなり、人々に合わせた治療として認識されてからだろう。
薬師になるまでは山中に捨てられた書物を読み漁っていたが、薬屋を開いてからは、人に変化し街で専門の書物を買うこともあった。女1人で薬屋を営むというと珍しがられたが、先代が託してくれた店だからと、そう説明すれば人間の情なのか、目尻を下げて微笑んでくれるのだった。

朴桜はふ、と口角を弛めた。

人里に降りることは滅多には無いが、薬の中では高価なものもあり、時期もある。山中で調達が難しい場合は街中の薬問屋へ買い付けに出ることもある。

「仕方ない…今日は街で買い物かな。」

買い付けるものを記した紙を懐へ仕舞うと、目を閉じ、口の前で片手で指をふたつ立てる。

「猫又天薬朴桜が変化。…加破見鬼、町娘、刻一刻。いざ。」

ぶわりと妖気の気流が身体を包み、着物の袖や髪の毛を揺らす。と同時に、頭の猫耳と二股の尾がするりと立ち消え、代わりに人間の耳が顔の横から姿を現した。灰桜色の髪は艶のある黒髪へと色が変わり、島田髷に整えられた頭には質素な桜色の組紐の簪が揺れる。朝焼けを溶かした猫目は黒と茶の混じった、くるりと大きな瞳へ。黒の訪問着にはふわりと淡い桜色の羽織が掛けられた姿へとなった。
東屋の奥にある姿見で自身の格好を覗き込み、にこりと笑う。紅を薄く塗った唇が柔らかな弧を描いた。

「よし。これでいいかな。あとは…行先か。」

村から城下町までは歩いて四半刻はかかる。

東屋からそろりと外に出ると、指を口に咥え、空に向かって息を吹いた。
ピィーーーーーーーーと高い澄んだ指笛が木霊する。

「…来たね。」

日差しを手で避けるように目の上で手を被せると、木を軋ませ、カラカラという車輪の音と共に火車が空から姿を現した。

---火車。葬式や墓場から死体を奪い喰らう猫の妖怪とされていたが、実際は悪行を重ねた者の魂をあの世、つまりは地獄へと送る役割を持つ。
要は運び屋と、そういうわけだ。

キイ、と言う音ともに朴桜のそばに飛来した火車は、大きな赤毛の猫で、後ろ足に牛車の車輪が浮いており、時折紅い猫火を上げた。
火車は朴桜を見やるとニヤリと口角を上げた。

「桜の姐さん。お久しぶりですなあ」
「姐さんじゃないよ、火車の旦那。ただの薬師さね」
その回答にふん、と鼻で笑う火車。
「なーに言ってんでさ。化け猫衆ではとんだ騒ぎだったんですぜ?時期猫又の頭領になるかもしれねえって桜の姐さんは言われてたんですからねえ。なのに人里に降りるってんで……お雪の姐さんが一声上げたとはいえ、まァ色んな話が飛び交ってましたわ」
「そりゃあ妖怪の中で人間に手を貸すなんて異端だからでしょう。分かってたことを何を今更…。人を化かして笑い転げるより、周りをみて学をつけて目を肥やした方がいいと思って行動してるだけよ」
はあ、と呆れた顔でため息をつく朴桜にケラケラと火車は笑った。
「ははァ姐さんはやっぱり切れ者でさ。学付きの妖怪ってなりゃ普通は上を目指すもんだと思ってましたがねぇ。ま、てんで俺ァ学はさっぱりですがね、へへへ。……して、今日はどちらへ?」
「薬の材料が少し足りないのよ。そうね、城下町のいつもの問屋の近くで下ろしてくれるかしら」
「あいあい、合点承知之助ってね」

ひらりと火車に跨ると、そのまま空へと舞い上がって行った。
下には人里がちらほらと見え、人が動く姿が点のように見える。山の中でも細々と、でも田畑を耕し、作物を育て、生活している姿が目に映る。
人間は逞しい、朴桜はそう思う。
住むことが酷であろう山奥でも、開拓し、開墾し、生活できる術を持っているのだから。
だからこそ、人間という生き物は面白い。

火車や猫又の姿は常人には見えぬ。
ただ時折見える者……いわゆる見鬼の目を持つ者からは変化しても妖怪として見えてしまう。
そのため朴桜は変化の際には術をかける。
街中で妖怪だと騒がれては面倒だからだ。

「猫又天薬朴桜が火車へ加術。破見鬼、常の世。刻半刻。いざ。」

ほわりと絹布を被るように暖かい気が二匹を包む。

「姐さん、術ですかい?」
「人間に騒がれちゃたまんないでしょ。見鬼封じをしておいたから、誰にも見えないはずだよ。街中に降りるからね」
「俺ァ腐っても化け猫ですからねえ。人間を化かすのが面白いんですが…まァお日さんが出てる昼間っから妖怪が出ちゃあ流石に雰囲気も出ませんわな」
カラカラと笑う火車に朴桜もふふ、と笑うのだった。

問屋近くの路地裏で下ろしてもらい、空へと舞い上がる火車を見送った朴桜は、何事も無かったかのように路地裏から街中へと出ていった。

城下町だ。色々な店が並び、色々な人が行き交う活気溢れた街。この賑わいは嫌いではない。
朴桜は大通りを小走りで渡ると、行きつけの薬問屋の暖簾を潜った。

「こんにちは」
「やァ誰かと思えば、薬屋の桜華(おうか)さんじゃないか」
「ふふ、ご無沙汰してます。おなつさん」

恰幅の良いカラッとした女性が、この問屋の女将さん、井上屋のおなつだ。
朴桜が薬屋を開いてからずっと通っている、もう顔馴染みとなった人だ。
ちなみに、桜華という名は朴桜が人間に変化した際の偽名である。薬屋の桜華と、人間の姿では名乗っていた。

「今日はいい人参が入ったよ。この処置は紅参だけどね。体力を補うのにいいんじゃないかね」
「なら、その人参を。それと……甘草と桂皮も貰えますか?それぞれ10両で。あと……そうですね、附子もあれば、5両ほど」
「あいよ。ああそうだ、新しい医学書も入ったよ。今は蘭学が盛んみたいだねえ」
「蘭学ですか……。今貿易ではそんなのも扱うんですねえ…」

日本の政府は今海外との貿易を制限する動きがあると聞くが……勉学や研究に関してはまた別なのか。
その辺は流石の朴桜もあまり情報は強くはなかった。
だがそこは城下町だけあって話の回りや流行は早い。
たまに街に降りると、たくさんの情報が人に聞かずとも入ってくるのだから、藩主の近い街というのは本当に話の回転が早いと朴桜は思うのだ。


「そうさね。聞けば日本の医者も蘭学に興味をお持ちみたいだねえ。人を解剖して構造を見て治療を考えるってやり方が蘭学の基礎らしいけれどねえ。……まあ、人の内蔵を直接見るって調べ方は、相当肝が据わってないと無理だろうねえ」
ああ、恐ろしい、と女将さんは体を震わせてみせる。
妖怪から見れば人間の中身など臓物が詰まっている肉の塊にしか見えないのだが、朴桜は野暮なことは言うまいと口にはせずにいた。

「女将さん、その蘭学書も下さいませんか」
「あいよ。勉強熱心だねえ、本当に偉い子だ」
「そんな、恐れ多い……」
です、と紡ごうとした時。
女将さんの子供であろう、高い声を上げながら奥の座敷を駆け回る姿を見た。

……これは……。呪い?いや……違う、そんな禍々しいものでは無いが、この気配は、

「これ!!!あんたたち、お客さんの前だよ!静かにしないかい!」

女将さんの叱責ではっと朴桜は我に返った。

「まあまあ、騒がしくてごめんねえ」
「いえいえ。元気なお子さん達ですね」
「いやいや…元気ばっかりが取り柄なんだけどねえ。下の子が肌が弱くて度々蕁麻疹みたいなのが出てねえ…痒がるんだ。町医者に診てもらってさ…薬を塗ってはいるんだがねえ…しぶといみたいで」
「そうですか……今は乾燥しますからね」
「そうだね。季節柄しょうがないかもしれないんだけどねえ……まったく。我慢強くないみたいですぐ血が出るまで掻き破っちまう。だから目が離せないんだよねえ。桜華さん、良ければ聞いちゃくれないかい…」

「はい、私でよければ……」

──────────

子供に異変が現れたのは、ほんの数日前の事だ。
問屋の店仕舞いをし、明日の買い付けに必要なものをなつが確かめていた時だった。

店は、夫婦で切り盛りしている大棚である老舗だった。薬問屋井上屋。遠方や市場であちこち競りや買い付けに出ていくため、日中は旦那はほとんど家におらず、帰宅は夜遅くだった。そのため、昼間の店の切り盛りや薬の選別、売り子は女将であるなつがしていたのだ。

「おっかあ、痒いよ」
不安気にぽりぽりと腕を掻く子供。皮膚は赤くなっており、掻き破る寸前であることが分かる。
「これ、掻いたらもっと痒くなるんだよ。ほら、おっかあに見せてみな。」

子供と目線を合わせるように屈み、袖をまくった瞬間だった。
掻き毟った爪痕なのか、傷なのか…湿疹か。
赤い皮膚にぽつぽつと見える蕁麻疹のような膨らみの中に現れるは……何かの、顔だった。
顔を歪めた赤ん坊のように見えなくもないその異様な出来物に、母は悲鳴を抑えるのに必死だった。
子供が怯えているというのに、母まで怖がってどうするのか。
ぐ、と腕に力を込め、子供ににっこりと笑って見せた。

「おっかあ……怖いよ、こんな顔が……」
「なーに言ってんだい、掻き毟った傷がそう見えちまってるのさ。これ以上掻いたら、怒るぞーって、あんたの身体が言ってんだよ。」
それでも不安そうに腕に爪を立てる子供…弥太助(やたすけ)。
「でも…顔、おっかあ、」
「大丈夫。ほら、おっかあ特性の軟膏を塗ったげるから、おいで」

子供の手を引き、座敷に座らせると、着物を捲り腕を出させた。
箪笥の引き出しから小さな薬壺を取りだし、中の軟膏を指で掬う。中身は紫雲膏だ。炎症を鎮め、皮膚の再生を促す薬である。
家では常備薬として置いてある薬。
それを弥太助の腕に塗り広げていく。
顔に見える部分には、それとなく見えなくなるよう、蓋をするように、厚く塗り、くるくると清潔な端切れ布を巻き付けていく。

「これで良し。おっかあ特性の薬だよ。これで弥太助の腕も大丈夫だ!」

ぽん、と弥太助の肩を笑顔で叩くと、弥太助はようやく笑顔で頷いたのだった。
兄様〜と廊下を走っていく子の背を見つめながら、なつは、ふうと息をついた。

─────────
「───というわけなんだよ。本当に何してもダメでねえ…」
「なるほど……でも、出来物が顔に見えるとは…」
「いやいや……あれは掻き方のせいだよ。爪で上手いこと切っちまったんだろうねえ。一度痒がると血が出るまで掻き毟るもんだから…全く、乾燥しやすい体質ってのは目が離せないよ」

やれやれ、と肩をすくめるおなつを見つめ、懐から財布を取り出しながら朴桜は考える。

乾燥。それもあるだろう。……ただ、それだけではない気がするが。

「定期的に掻きむしってしまうのなら、“何か”が障っているような気がしますが、」
「薬問屋だからね、衛生面はとっても気をつけてるはずなんだ。それこそ埃一筋もないほどにお手伝いさんが磨き上げてくれているよ。それなのに何が障っているんだか……皆目検討もつかなくてねえ…」
「左様ですか…虫や蚤、犬猫の毛なども反応することがありますから、掃除はこまめの方が良いでしょうけれど……体質なんでしょうかね……」

うーん、と顎に手を当て考え込む朴桜―今は変化しているので桜華だが―を見つめ、おなつはぼんやりとことを思い出していた。


井上の子供は三人いる。
弥太郎(やたろう)、弥太丸(やたまる)、そして弥太助。
弥太郎、弥太丸は年子で数えで十三、十二となる。弥太助は遅くに生まれた子で今年で五になる。
なつが弥太助を産んだのが遅産だったせいかは分からないが、皮膚が弱く、乾燥すると直ぐに赤く湿疹ができるので、塗り薬が欠かせない子だった。
ただ、兄たちが歳離れた可愛い末子の世話や薬を塗るのを率先して手伝ってくれるのが、なつにとっても微笑ましく有難い思いだったのだ。

ただ、あの腕は……弥太助の掻き毟った傷痕は、間違いなく、顔だった。桜華さんには心配かけまいと笑って誤魔化したが……

きゃっきゃと声を上げて奥の屋敷で兄たちと戯れる末子。今朝方も軟膏を塗り、布を取り換えたのだが、その時に見た傷は膿を持ち始めたのか赤く腫れてきており…生々しく浮き出た顔としか見えなくなっているのが些か不安であり…気味も悪い。なつは一抹の不安を覚えたのだった。

(猫又の薬屋……か、)

噂には聞いたことはあるが、入口は丑三つ時にしか開かれず、聞けば疫病で廃れた廃村の一角にあるという、謎の薬屋。どこぞの名家の娘が病に倒れ、その父親が手探りで探し当てたらしいと聞くが、その後何度同じ道を通っても廃村などはなく……二度と同じ道には現れないという。

(まったく……馬鹿馬鹿しい)

ただの乾燥肌なだけだ。今まで通り、薬を塗り、しっかり身体を見ていれば大丈夫だ。
薬屋の女将がこんなじゃいけない──────

「───さん、おなつさん」
「あっ!あ、ああ……すまんね、ついつい考えちまって。ぼうっとしてたよ」

子どもへの如何に耽っていたのであろうおなつは、はっとした表情を浮かべ、照れたようにへらりと笑った。

「いえいえ…大事なお子さんがそんな状態なら心配して当たり前ですよ。ええと、お勘定は」
「あいよ。えーっと……勘定は750文ね。」

財布を開き、料金を女将さんに手渡しながら、奥の屋敷を朴桜はちらりと横目で見やる。心内に走るむず痒さを覚えていた。知っているが知らない感覚が何となく気持ち悪い。すぐに調べたい気持ちが先走るが、何とか表情に出ないように振る舞う。

その間になつはせっせと薬と本を袋へ詰め、綴じると、朴桜ににこやかに差し出した。

「はい、商品ね。出来たよ。悪いね、長話を聞かせちまって」
「そんなこと。少しでもお役に立てることを伝えられればよかったんですが……ありがとうございます」
「お礼なんかいいんだよ、いい薬師さんだからね。私が倒れた時には手当してもらわないと」
「そんな、縁起の悪いこと駄目ですよ女将さん」
腰に手を当てカラカラと笑うなつに、ふふふと笑みを返すのだった。

ただ、一抹の不安と警戒を、心に残して。薬と本が入った袋を抱え、路地裏へと戻ってきた朴桜は、くるりと振り返り、あくせくと働く女将さんを遠目で見ていた。

地面に風呂敷を広げ、袋を真ん中へ置くと、くるくると包み、首にかけるように巻き付けた。

そして、地面に印を刻む。

願うは、人のため。
主と同じように、人を助けたいという、その思い。

「猫又天薬朴桜が掛術。結界、猫又の薬屋。始めは丑の刻となり卯の刻まで閉じるべからず。いざ」

キン、という一瞬の光とともに刻まれた印は溶けるように地面へと消えた。
朴桜が薬屋を開けるときは、怪異か病か、あるいは両方か。その予見を知覚した時だけだ。

「さて……帰ろうか。少し、忙しくなりそうね、調べ物もある事だし、」

口元に指を持っていき、「解術」と呟くと、たちまちに灰桜色の毛並みの一匹の猫へと変化した。
風呂敷を背中にかけるように組み、一気に屋根をかけ登る。そして、山の方へととんとんと跳ねるように走って朴桜は帰路を進んで行ったのだった。


──────────
朴桜が薬を買い付けに行った次の日。
朴桜の予見通り、ことが起こった。

「おっかあ、っ……痛い、痛いよぉお……っ」

腕を抑え、泣きじゃくりながら なつの部屋に弥太助が入ってきたのだった。
刻は丑の刻前、真夜中にぐすぐすと涙を流す我が子になつは襦袢のまま慌てて起き上がる。

「どうしたんだい、こんな夜中に……」

目を擦るなつに、弥太助はぐずぐずと布の巻かれた腕を差し出した。昼間に見た時は綺麗に巻いていた布、その上からじわりと液が染み出していた。
膿んでいる……?
震える手でそろりそろりと布を取ると、赤く腫れた湿疹の中に、それはいた。

「っひ、……!!!」

流石に声を上げずにはいられなかった。
数日前はただ歪めていた顔に見えていた出来物、それから膿が出ていたのだ。しかも何日も放置された傷のようにぐずぐずになってしまったそれは、悪化した皮膚病としか表現ができないほど酷いものであった。顔に見える傷……いや、もう顔だ。ぼこりと浮くように腫れ上がり目の形に見える皺から膿を染み出す様は号泣する赤子そのものの顔にしか見えなかった。

その腕を見て、弥太助も鼻をすする音が大きくなっていく。おっかあ、おっかあと怯え泣く我が子を抱き締めることしか、なつにはできなかった。

ああ、堪忍だ。我が子が何をしたというのか。どうしたら、どうすれば……。

───ちりん。

夜のしんとした空気の中に響く鈴の音に、なつはふと外を見ると、金色の目をした黒猫がこちらを見据えていた。

「みゃあお」

それはまるで……こちらへ来いと、言っているようで。
今宵は新月。星明かりだけが照らす微細な光を、猫の金の目が反射していた。

なつは子を抱き締め、上掛けを羽織ると、着の身着のまま、草履をつっかけ走り出した。
猫はちりんと首の鈴を鳴らし、時折後ろを振り返りながらもひらりひらりと音もなく向かいの家の間をくぐり、裏道へと抜けていく。
見失ってはいけない、着いていかなければならないと、何故か本能でそう思ったのだ。
愚図る子をだき抱え、髪も襦袢も乱れながら黒猫を急いで追いかける。

「まっとくれ……!ああ、待っておくれな……!!!」

猫を追いかけ、追いかけ。

ぴたりと足を止めた先に広がるは、廃村だった。

「この裏は……確か、着物問屋のおやっさんの屋敷のはずじゃ……」
「おっかあ……怖いよ…」

しんと静まり返った廃村は、伸びた草が風邪でそよぐ音がサラサラと響き、時折きしりと家鳴りがする。
それが一層に不気味さを掻き立てる。
刻はもう丑の刻を過ぎている。
魑魅魍魎が跋扈する……そんな時間帯に、女と子供が二人だけ。

「おっかあ……」
ぎゅ、としがみつく弥太助に、大丈夫というように強く抱きしめ返し、そろりそろりと廃村を歩いていく。
誰もいないと分かっているのについ見てしまう、朽ちかけた家屋たち。
一歩ずつ、一歩ずつ。
足を止めないように、奥へと進んでいく。

「……いらっしゃいましたね。」
「っひ!」

いきなりかけられた声に、なつはびくりと肩を震わせ、子を抱きしめる。恐怖に怯える母を見た弥太助は、ついに自分の置かれている状況への恐怖が勝ったのか、鼻をすすりながら涙を流している。

「な、なんだいあんた……!!こんな、こんな所に…1人で……っ、!!!?」

上擦った声で目を白黒させながら、なつは警戒するように女を睨みつける。

「私の店ですから。お待ちしておりました。……井上屋の女将、なつ様。そして……弥太助様」
「な……んで、私の名を、いや……私の店って……まさか……」
「ええ。……聞いたことはあるでしょう」

───猫又の、薬屋を。

東屋からぼろになった暖簾を潜り現れたのは、白い肌の華奢な女。とろりと朝焼けを溶かした縦筋に開いた瞳孔。その姿は人にはない毛色である灰桜色の髪の毛。そして頭には猫耳。
肩を出した独特の黒の訪問着からは銀灰色の二又の猫の尾、括られた一房の桜色の組紐。そこに付けられた鈴がちりんと音を立てた。

妖怪猫又。猫又の薬屋。

その言葉がなつの頭を掠めていく。

「……あんたが……、あんたが、あの、噂の猫又の薬屋ってこと…かい…?」
「左様でございます。遣いを出しておりましたので、お二人様をお待ちしておりました。」
「遣い……って、」
「猫ですよ。金目の黒猫を、追いかけてきませんでしたか?」

おいで、という女の呼び掛けに肩に飛び乗る黒猫。
金色の瞳がなつと子供を見つめ、みゃお、と鳴き声を上げる。と同時に、するりと煙に巻いて宙に消えてしまった。

「ねこ、が」
「ああ……私の式神です。簡単な術ではあるのですが」

ひらりと肩から舞い落ちる猫型の紙を拾い上げると懐に仕舞った。

「さて……。貴女方、何か病に悩まれておりますよね?店で話は聞きましょう。」


とろりとした垂れ目の瞳からは感情は読み取りにくい。どうぞ、と東屋の中に手を向ける相手をじっと見つめ、大きく息を吸い込んで。
大きく、吐き出した。

「あんたが噂の薬師なら……この子…弥太助の腕を治せる、そう思っていいんだね」
「勿論でございます」

深くお辞儀をする猫又を横目に、恐る恐る東屋へ入っていく。
見た目の朽ちる寸前の外見とは裏腹に、中はしっかりとした薬屋であった。
薬箱が並び、あちこちに干された薬草がぶら下がり、器具が所狭しと並んでいた。
目を白黒させる親子二人に、朴桜は腰掛けをそっと二脚揃え、お掛けください、と静かに囁く。
おっかなびっくり、そして恐怖と驚きの綯い交ぜな表情で腰掛けに座るのを見届けると、薬台の中へと朴桜は入り、二人の正面に立った。


「猫又薬師、天薬朴桜と申します。さあ、病、症状。何でもお聞かせくださいませ。」


「あの、お前さんが噂に聞く猫又の薬師というのなら。……どうか見ておくれ。」

べそをかきながら隣に座る弥太助を膝に乗せ、腕を捲り……体液が染み切った布を取り去った。

湿疹はさらに赤く膨らみ、ぽつぽつと中には腫れ上がり熱を持つものもあった。癖になっているのか、掻き破った箇所があちらこちらに見える。例の傷はさらに酷く、膿が腕を伝い滴り落ちるほどにまでじゅくじゅくと膿んでいた。
それは……まるで、声を張り上げ泣き叫ぶ赤子の涙のように。
「……最初は湿疹だと思ったんだ。この子は生まれつき肌が弱いから……紫雲膏や蜜蝋で何とかしてたんだけれど…こんなものができるなんて、」

「……これは、人面瘡、ですね。ここまで膿んでいるのは……初めて見ますが、…近くでよく見せて頂いてもよろしいですか。」
「……子供に何かしたら、承知しないよ」
「害のあることはしません。ただ少々触診をさせていただきます。それだけはご了承を」

腕をしげしげと眺めていた朴桜は、作業台をまわり、弥太助の近くへと静かに近づいた。

「腕を見せて貰えますか」

朴桜の言葉に恐る恐る腕を伸ばす弥太助。
その手を優しく取り、人面瘡をじっと見つめ、手を翳した。目を閉じ、感覚を集中させる。

「……少しですが、霊気を感じます。恐らくは……水子、」
「水子……?水子って、流れた赤子の霊魂を言うんだろう…?あたしゃ……流産なんかしちゃいないよ、」
「いえ、…流産では無いようです。人面瘡が持つ気の流れが弥太助様と波長が似ています。いえ、ほとんど同じと言っても過言でもありません。……きっと、弥太助様は…双子、だったのでは無いでしょうか?」
「双子……!?弥太助を宿していた時に忌み子を孕んでたってのかい!!?」

双子。
江戸の今の時代では夜叉と菩薩の生まれ変わりとされ、凶の印とされてきた。母親も畜生腹と罵られ、目下に見られる。大棚とされる商家なら尚のこと酷い扱いを受けていたであろう。

だが、あくまで人間の世界の話だ。
元は猫である朴桜にとっては……考えは違うのだ。
猫は一度に四、五匹は赤子を出産する。一度にたくさんの兄弟が生まれるという環境は珍しいものでは無いのだ。
己の腹を震える手で押さえるなつを見つめ、朴桜はぽつりと零した。


「…人間の世界では、双子という存在は凶の兆しなのでしょう。ただ、生まれた命は全て尊きものです。自然に授かった命を間引いて殺す、虐げる。そんな虫や雑草のような扱いをする方が、余程私から見れば畜生です」

ふわりと尾を揺らすと、ハッとした顔でなつは朴桜を見つめ返した。

「……妖怪に命を諭される日が来るなんてね、」
「私は妖怪ですが、薬師ですから。…そして、この瘡の元となっている霊魂も…何か、仰りたいことがあるようです。」
「伝えたいこと……だって、?」
「はい。しばしの時間ですが……それでも良ければ」

懐から懐紙を取り出し、近くにあった鋏で人形に切り取っていく。そして、弥太助の人面瘡に指を添えぽつりと呟く。

「オンコロコロ センダリ マトウギ ソワカ……急急如律令」

瘡がほわりと淡く光り、朴桜の指先の動きに沿って人形へと光が移る。蛍のような儚げな光が徐々に大きくなり、それは弥太助と同じ背格好の男子へと姿を変えた。

ぽかりと口を開けたままその姿を見ていたなつは、何がなにやら分からない、そんな顔を朴桜へ向けていた。

「妖怪なのに、陰陽術が使えるのかい……?」
「陰陽については漢方薬と通ずるところがありますから。薬の勉強のついでで覚えました。……術も簡単なものならば使えます。」
「それで……この子は、」

儚い光で形作られた少年はにこりと微笑んだまま、親子を見つめていた。

「その少年は……人面瘡の元となっていた霊魂…つまりは、弥太助様の、双子のお兄様でございます」
「弥太助の、兄……」
「はい。……なつ様の母体にいる頃、何らかの過程で弥太助様の中にお兄様の体が吸収され、おひとつとなられたのだと思います。双子を身篭られたときに稀にあるそうです。…お互いの体の一部……または全部を、吸収してしまう、そのような現象が。」
「なんと……」  
「弥太助様がお生まれになった時、既にお兄様の体は弥太助様とひとつになりましたが……魂だけが分離してしまった。そして、兄達と元気よく遊ぶ弥太助様を羨ましく思ったのでしょう……自分もあの中に……家族に入りたいと、人面瘡という形で出てきてしまったのでしょうね」

あの傷は…人の顔をした出来物は、泣いていた。
涙のように膿を流して。
それは、自分をどうか忘れないで欲しいという……生まれることを許されなかった、名も無き兄の思い。

なつは、頬に熱い涙が伝うのを止められなかった。
上掛けの袖口で目頭を押さえるなつの膝の上から、とこりと弥太助は足を下ろし、儚く光る少年……兄へと近づいて行った。

「僕の……兄様、なの?」
『うん。…ずっと、弥太助と一緒に同じものを見て、感じてたんだ。綺麗なものも、兄様達と遊んで楽しかったことも。おっかあに拳骨で怒られて痛かったこともね』
「うん、兄様、おっかあの拳骨はとっても痛いんだよ!」

ふふふ。あはは。

笑い合う、双子の男子たち。
なつは愛おしい目で2人を見ていた。

「なつ様。…よろしければ、お兄様にも名付けをされてはいかがでしょうか」
「私が…名を?」
「はい。……悪さをしたくて人面瘡になった訳では無いようです。ただ……母に会いたかったんだと。私にはそう思えます。」
「そう……ですね、」

懐紙を台に広げ、硯と墨、筆をなつの傍に置く。
弥太助と生まれるはずだった、双子の兄。
弥太助と一緒に産まれることが出来たならば、一緒に騒がしく賑やかになったことだろう。


なつは筆に墨をつけ、懐紙にさらさらと字を書き付け……最後の払いを丁寧に描くと、ことりと筆を置いた。

「弥太助。そして……おまえさんも一緒にこちらへ来なさい。」
「はい、おっかあ。…兄様、行こう」
『うん、弥太助』

とことこと手を繋ぎ歩いてきた子は、見れば見るほどに弥太助と瓜二つであった。きらきらと輝く瞳、少し高い子供らしい声。
なつは、儚く光を放つ少年へ懐紙を見せた。

「これが、あんたの名だよ。……弥太彦(やたひこ)」
『僕に……僕に、名をくださるんですか』
紙となつを交互に見ながら、朗らかに少年……弥太彦は、ぱあ、と笑顔をうかべた。それを微笑み見ながら、涙声でなつは口を開く。
「当たり前だよ。……大事な私の息子なんだからね。弥太助と産んであげられなくて…ごめんなあ…」
母の涙を拭うようにそっと手を伸ばし、弥太彦はふわりと微笑んだ。
『……いいんだ、おっかあは悪くないよ。ただ……気づいて欲しい気持ちが強くなってしまったから…。弥太助も…怖がらせて、ごめんなさい。』

弥太彦を包む光がどんどん淡く透き通るように消えていく。

『僕、そろそろ行かなきゃ。ありがとう……おっかあ。ありがとう、弥太助。……ありがとう、』
その一言と共に、蛍が光を散らすように弥太彦の姿は消え、からりと何かが落ちる音ともに元の東屋の暗闇へと戻った。役目を終えた人形がひらりと床へ舞い落ちる。

朴桜は静かに、床に転がる小さな塊を手にとり、親子へと見せる。

「なつ様、弥太助様。……こちらが、弥太彦様でございます。もともとお二人は二人でひとつであった存在。きっと……弥太助様と共にあるのがよろしいかと」

からりと落ちたそれは、小さな小さな喉仏の骨だった。弥太助の手を取り、そっと骨を置いてやる。兄様、と骨を両手で包む弥太助を、朴桜となつは穏やかに見つめていた。
腕にあった泣き顔の人面瘡は消え、瘡蓋のように乾いた皮疹となっていた。

「さて、本題はここからですね。弥太助様のお体ですが……肌が弱いご体質と見受けられます。なつ様、今の弥太助様のご体重、ご身長はお分かりですか」
「あ、ああ……。ええと、身長は三尺二寸、体重は四貫だね。紫雲膏で今までは凌いでたんだけれど……」
「そうですね…紫雲膏は続けられた方が良いでしょう。……埃か、塵か、虫かは分かりませんが、何かに障っている故出る症状ではあるでしょう。掃除はこまめに行い、なるべくなら布団などは虫干しを習慣にするとよいでしょう。内服とともに塗り薬をお使いください」

朴桜はぱたぱたと作業台に戻り、薬箱を開けては薬草を掴んですり鉢に入れていく。

「湿疹自体は浸出液は無いですし、乾燥肌ではあると思いますが、特に酷いようには見えません。ただ、一度掻くと熱を持ちやすい湿疹になりやすいようですね。そして掻き破りを繰り返して腕や首が黒ずんでいらっしゃる。証は恐らく太陽、となると、肌の熱を冷ます必要がありますから……適は黄連解毒湯かと」
「黄連解毒湯……って、苦味が強い薬じゃないか!とてもじゃないけれど、子供には飲めたもんじゃないよ」

黄連解毒湯。
それは三黄と呼ばれる黄金、黄連、黄柏の3種の生薬を示し、いずれも苦味を呈する薬だ。それら全てを含む黄連解毒湯は大人でも顔を顰めるほどに苦い味。ましてや飲むのは子供。

「仰る通り苦い薬でございます。服用するのは弥太助様ですから、飲みやすくするために膠飴(こうい)……水飴を加えます。少し甘みが出ますので飲みやすくなるかと思います。飲みにくいようであれば都度足してください」
「成程……膠飴を使えば確かに甘くはなる…うちの子でも飲めるかもしれないね」

生薬をすり潰し、粉々にすると、一匙ずつ小袋へ詰めていく。鮮やかな黄色が袋へと収まっていくのを、親子は静かに…神妙な顔で見つめていた。

「……お待たせ致しました。ひと月、およそ三十日分をご用意しました。一日二回、冷水に溶いて飲ませてください。冷たい水で溶かすことで苦味が和らぎます。紫雲膏はそのまま様子を見てお続けに。今回ご用意した薬は勿論弥太助様のお体に合わせて調整しております。膠飴は別に、こちらの小瓶に詰めましたので、弥太助様のお飲み加減を見ながら続けると良いでしょう」
「……本当に、薬師、なんだね。」

薬袋を受け取り、ぽつりと呟いたなつの言葉に、妖怪ですけれどね、と朴桜はふふ、と笑って見せた。ふわりと微笑む猫又に、なつはとある娘の顔がちらついて見えた。

「あの、……あんた、」

「……そろそろお時間でございます。弥太助様も、なつ様もお大事になさいませ」

なつの言葉を遮るように声を発すると、そっと東屋の外まで連れ歩き、朴桜はぼろの暖簾の下で深くお辞儀をする。それに習い、なつと弥太助も頭を下げた。

ちりん、という鈴の音と共に頭を上げると、なつと弥太助は自身の家の前に立っていた。

「……おっかあ、夢、じゃないんだよね」
「ああ…そうだね。夢じゃない。夢じゃ、なかったよ」


夜道で笑い合う母子を、屋根の上で猫又が一匹、静かに見つめていた。
その目は、優しく、愛しく、慈しみに溢れていた。


その後の井上屋の庭には、小さな小さな墓が立てられたそうだ。
墓標には井上 弥太彦の名が刻まれていた。
弥太彦の骨は、兄との約束だと弥太助の望みで小さな守り袋に入れられ、兄弟共にあった。

猫又は晴れた青空の下、屋根の上で前足で顔を洗いながらくわりと欠伸をした。

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