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猫又の薬師 壱

古びた薬箱が並び、薬草独特の匂いが漂う東屋。今は朽ちたかけた家ばかりが並ぶ廃村。
そこに妖怪猫又が営む薬屋があると言う。


─────────
嘗て薬師であった心優しい人。風土病、流行り病、子供の病。声がかかる度毎日奔走し、薬を煎じていた。

ーーさんの薬はよく効くよ、そうして元気に、笑顔になる姿を見るのがたまらなく好きな瞬間だと、飼い主は笑っていた。

猫はその姿をじっと見ていた。
忙しい毎日だったが充実していたのだと思う。きっと。
度重なる依頼と無理が祟り、過労で倒れた飼い主の優しい腕の中。気づいた時には既に遅かった、病とはそんなもので、人間である飼い主も例外ではなく。
少しずつ衰弱していく姿と、たまに香る甘い匂いが記憶にある。
その息がか細く、そして最期の一呼吸まで看取った猫。
喪主も居ない中、この人に助けてもらった恩だと、人脈と人柄だけで、遠い地から坊様を呼び、経を上げ、火葬し、墓まで立ててもらった、飼い主。
そして残ったのは、薬屋と、飼い主を失った猫。
猫は咽び泣くように、にゃあと鳴き続けた。泣き続けた。
主人の墓からしばらく動こうとはせず、丸くなって、骨となった主人を思い空を仰ぐ。
人々は寂しそうにそんな自分を見つめるだけで。
猫は悟ったのだ。
誰もがぎりぎりの生活の中、猫を養う財力も余裕もない人々であることを。
猫は知っていた。
ごめんな、すまんね、そんな言葉をかけながらも自分を撫でる手は暖かく優しいことを。

とある満月の日。猫は東屋に戻ることにした。
戻らなければならないと……そう思ったのだ。
主人が守ってきた薬屋を、守りたいと。

今後は野良として生きるしか術がないということも、自覚し、飲み込みながら、猫は東屋に戻った。

雨打たれることも無くなった猫を、近所の人は良かったと、自分の事のように喜んでくれた。泥と蚤にまみれた自分にも、長いこと手入れされていなかった自分でも、前の様に、桜と名を呼び、撫でる手があった。蚤取りをし、水浴びをさせてくれることがあった。そればかりか、心ばかりのおまんまをくれることも。ただ、時が経ち、冬になるにつれその頻度も減り。
時が経つにつれ見知った顔に皺が一本ずつ増え。そして、1人ずつ消えていく。
猫は、それでも生きていた。
人が居なくなっていく、それが疫病のためだと知ったのは、後のことである。

部屋の隅を、ちょろちょろと動く影。
鼠だった。
以前の飼い主なら、薬を荒らされると言って追い払っていた存在。猫には、久方ぶりの飯にしか見えなかった。

やっとの事で捕まえた鼠。ひと口ひと口、ゆっくりと食べた。小さな体に噛みつく、ぶちりと牙が通る、その時に感じる新鮮な肉という感触は恍惚だった。久々の“おまんま”である久々の食事を味わっていた。

「そこのお前さん」

びくりと毛を逆立て、少々の威嚇を込めながら後ろを振り返る。

そこに居たのは雪のように白い毛を持つ猫又、そして、それが率いる猫たちの群れだった。

「…何用ですか。私は…食事をしていただけですが」
振り返ると、雪のような真っ白な毛並みの猫がお座りをしてこちらを見ていた。その後ろには何匹、いや何十匹いるのか、連れであろう猫が控えている。
ただ一様に……皆、尾が二つ、分かれていた。
猫又。妖怪。
その二文字が猫の頭に浮かんだ。
「かかかかか。それは知ってるさ。わっちはお前さんの狩りをずっと見ていたんだ。まあまあ…あんな動きでよくぞ仕留められなんし」
くすくすと可笑しそうに笑い、廓(くるわ)言葉を使う白き猫又を鋭く猫は睨みつける。
「…嫌味なら大きなお世話です」
「まあそう言いなさんな。お前さん、独り身なんだろう。……どれ、わっちの仲間に入らんか。お前さんには素質がある。猫又になれる、な。狩り、学び、化け方。わっちらがなんでも教えてやろう。」

なんでも。
その言葉と声と意味……とても甘美で。
猫は俯き、考えた。

猫は忘れたくなかった。
人の優しさを。
もっともっと人と関わりたかった。

……ただ今の自分にはその力がない。


「さあ、どうだい。」

足元にある喰いかけの鼠を咥え、一思いに骨ごと噛み砕き、ゴクリと喉へ通した。

「私が猫又にまでなれるかは分かりませぬ。…ただ、今は生きるが全て。貴女の知識を、私めに教えて頂けますか。」

前足を揃え、猫は向かい合うように座り、相手を正面から見つめる。灰桜色の瞳が、猫又を臆することなく見つめていた。そしてまた、白き猫又の金色の瞳も猫を見つめていた。
猫又は目を細め喉を震わすようにカラカラと笑った。二本の尾がゆらりと揺らぎ、影を落とす。
「かかか。なるほど、いい目だ。…いいだろう。わっちはお雪と。お前さん、名は。」
「私の名は…桜と」
「では桜。わっちと共に来るが良い。悪いようにはせん。」
「…承知。」
くるりと猫又が背を向け、着いてこいと言わんばかりに、にゃおと鳴いた。
群れの最後に駆け足で着いていく。時折、東屋を名残惜しげに見つめながらも。


─────────
それからは化け猫の群れで猫は過ごした。下手くそな狩りで野鼠や栗鼠を喰らい、時に雨に打たれ。
仲間に下手くそだと笑われながらも懸命に生きた。
いつしか狩りも上達し、足音なく歩けるようにもなった。
食べ物に困らなくなった猫は、知識を求めた。
人間が山中に捨てて行った本を読み漁り、時には頭領であるお雪に訪ねながら文字を学び、学をつけた。お雪は猫又の集の中では、郭の花魁が飼っていた猫と言うだけあって学は泊付きであったのだ。文字なんて覚えてどうする、そんなことを零す仲間も居たが、猫はおくびにも出さなかった。ただ学びたいからだと、素っ気なく言うのだった。

そうして飼い主が亡くなってから百年余り生きた猫は、いつしか尾が分かれ、妖怪である猫又となった。
人にも化けられる妖力も身につけた。
化け猫達の中でも妖力、変化、そして学と鍛練を積んだ猫。
当初ぼろぼろな姿で仲間になった猫は、今では群の中でも頭角を示し、頭領であるお雪の次に頭が切れる猫だとも言われていた。
ただ猫は、ただの妖怪にはなりたくなかった。
人を化かして馬鹿みたいに笑い転げる仲間を、猫は分からぬ様に冷ややかに見ていた。

馬鹿馬鹿しい。
人間を化かして楽しむだけが道楽など。

……もっと、もっと。化け猫ならば、妖怪ならば、それとなるには経験と年数が要るというのに、それを活かさない馬鹿猫共。

猫は藪の中から満月を見つめていた。
主人を看取り、主人の墓でしばらく眠り過ごした数日、東屋に戻ろうと決めた日も、満月だった。

夢があった。
やりたいことがあった。
ようやく、ようやく手にかかりそうな、指に引っかかりそうな、そんな……そんな感情。

時は来た、藪の中から満月を見つめ、猫は闇夜へと消え、走り出した。

─────────

猫は、お雪の元を尋ねた。


「お雪様」

「おやおや。誰かと思えば…桜か。お前さんからわっちの元に来るのは久しい事じゃの」

ふー、という息と共に燻る煙管。
燈籠のちらつく灯りから見える御簾越しの影。
人に化けているのか、影はそれなりの大きさをしている。
御簾の横には、お雪のお付である猫又が静かに香箱座りをして控えていた。

お雪が煙管を吹かす音、時折灰をこんと壺へと落とし、また煙草の葉をかさりと煙管に詰め、火をつける音だけが木霊する屋敷の中。
猫は銀灰の尾を二本、ゆらりと揺らしながら、ゴクリと生唾を飲んだ。
震える口を何とか開く。

「お雪様。…私は、」
「よいよい。それ以上は言いなんすな。このお雪…お前さんが言いなんす言葉なぞとうに分かっておる」

これ、御簾を上げよ。
ぴしりと扇子の音がしたと思えば、傍に控える猫が後ろ足で立ち上がり、御簾の紐をからりと引っ張りあげた。

人に変化したお雪の姿は、妖艶な美を誇る花魁そのものだった。少しつり目であるが、金色の縦筋の瞳孔がお雪の猫姿を思わせる。粉をはたき、化粧を施し、肩まで下げられた白無垢を思わせる煌びやかな刺繍の着物、そこから覗く雪のように白い肌。艶めいた黒髪を結い上げ、しゃらしゃらと鳴る簪。そして、ゆらりと揺らぐ、二股の白い尾。

煙管を片手に紫煙をくゆらせるお雪に、猫はずっと頭を下げていた。

「のう、桜。……人里に降りたいんだろう。違うかえ?」

蜜のような甘い声で、ただぴしりと確信を突くその言葉に、猫は少しばかり毛を逆立て、喉をくるりと鳴らした。そして、ゆっくりと…口を開いた。


「…その通りでございます。…私は、元は薬師の元で育った猫。私の主様のようになりたく…薬草の知恵をつけ、捨て置かれた本で病を、薬草を学びました。お雪様にも…お訪ねした回数は数え切れません。……ここの衆は人間を忌み嫌う者が多い。ただ私は、その空気が、雰囲気が、少し息苦しいのです。……主様から、人間から与えられる温かさを、優しさを、今でも忘れずにいるのです。……願わくば、この力、人間のために、奮いたいと」

柔らかな笑みで自分を見つめるお雪は、灯篭に照らされより妖艶に…かつ、母親のような、母性を孕むそんな視線で猫を見つめていた。

「…そうかそうか。して、桜よ。人里に下りるならば人の姿を保たねばならぬ。お前さんの人の姿、わっちに見せておくんなんし」

「承知致しました。…猫又、桜が変化。姿は半妖、薬師。刻は半刻。いざ。」

お雪の言葉に、猫はそっと目を閉じ、ぽつりと変化の印を呟き、妖力を集中させる。
ぶわりと身を包む妖気の気流。
四足から背筋が伸び二つ足へ。
前足はするりと伸びた白い腕へ。
さらりと纏う髪は、肩よりも少し短く、耳にかかる程に。桜に銀灰をまぶしたようにちらつく艶を纏っていた。
そして、黒の訪問着を着崩した独特の着物。
頭から生える、灰桜の猫耳。腰から生える、銀灰色に分かれた尾。
猫は、妖怪猫又となったのだ。

「かかか。わっちの見立て通りじゃないか。のう、桜。…立派な猫又じゃ。」
「恐れ入ります。」
快活に笑うお雪は、優しい目で半妖となった猫を見つめた。

「桜よ。お前さんの主は薬師と言ったか。」
「その通りでございます」
「薬師……な。わっちが廓で猫として飼われていた時にはよく世話になったものよ。おゆかりさんでもあったが、お抱えの薬売りでなあ。何せ廓だ、客にうつされたと病に倒れる者、望まぬ子を宿す者もおった世界じゃ。その度に薬箱を背負って来んしゃった。わっちにも優しゅうて、高価であった木天蓼(またたび)をおまけしてくれてなあ……」

煙を吐き出し、思いを馳せるようにお雪はそっと目を閉じた。

──────

『皆、薬売り様が来んしゃったぞ!』
番頭の呼び掛けに遊女たちは我先にと部屋へ列をなす。
雪、と名付けられた猫は、郭の看板である花魁の猫であった。ぱたぱたと足音をする方向を、腕の中でじっと見つめていると、花魁はぽつりと零した。

『あれは薬売りという職柄の人でありんすよ、雪。わっち達は体が商品……体が、心が、弱っていく、そんな世界でもあること…客に夢を見せる裏側は、色んなものを包み隠しているものさね。』

猫は鼻が利く。それこそ色々な匂いを嗅いできた。
雪、と優しく抱き上げ己を撫でる花魁の花のような馨しい匂い。
禿が水揚げとなった時、涙を浮かべ破瓜の痛みを訴える血の匂い。
客から移されたと病に寝込む遊女の、微かな死の匂い。
望まぬ母となった遊女から漂う、微かな赤子の匂い。

そんな傍に、薬売りはずっと居た。

助からない。
生きたい。
一人にしておくんなんし。
産みたい。
堕ろしたい。

……死にたい。

涙ながらに、感情任せに。色んな言葉をぶつけられながらも、その人は薬箱から薬草を取りだし、彼女達に合わせて薬草を刻み、挽き、粉にして飲ませていた。

死んじゃあいけねえよ。女が笑顔じゃねえと俺の楽しみがなくなっちまわあ。

そう言っては彼女達に声をかけ快活に笑うのだった。

『にゃお』

雪がそろりと顔を出すと、振り返りにっこりと笑うその人。

『おや、誰かと思えばお雪さんかい。……そら、今回は上等な木天蓼が手に入ったんだ』

咥え安いようにと手頃な短さに切ってくれた木天蓼。
すん、と匂いを嗅ぎ、ぱくりと咥えてはゴロゴロと喉を鳴らしじゃれついた。

『これ、お雪。そんなはしたない姿見せなんし』

『いいさいいさ。あれがお雪の女郎としての愛嬌さね。愛いもんじゃないか』

困ったように笑う花魁と、からからと笑う薬売り。
二人の笑い声の中、幸せな心地で木天蓼を齧っていたのだった。


─────────


懐かしそうに虚空を見つめるお雪は、一体誰を思い浮かべているのか。猫は、煙管をふかすお雪をじっと見つめていた。
こん、と灰壺に煙管の灰を傾けると、お雪は猫に目を向け儚く笑った。

「桜。わっちら猫又の衆から抜けること、今この時、わっちの言葉をもって許可しなんす。」
「……はっ。」
「これはわっちからの餞(はなむけ)じゃ。今後、薬師として名乗る名をやろう。……そうじゃの。桜。飼い主の名は、覚えておるか?」

猫はそっと目を閉じた。ゆらりと揺らぐ尾。
目の裏に映る、猫の名を優しく呼ぶ、懐かしき主の姿。
桜、桜と頭を撫で、時には胸に抱かれ。
満開の桜の木の下に、親猫に捨て置かれた自分を保護し、看病し、牙を向けても朗らかに笑っていた、主様。桜の木の下で、桜の花びらにまみれてうずくまっていたと…主様は言っていた。
その姿は、銀塊に桜を散らせたが如く、それはそれは螺鈿細工のように繊細で愛おしく見えたと……そんな言葉が、頭から離れずにいる。
桜という意味は知らなかった。ただ自分の名前で…文字を知って、主の言葉の意味を知ってからは、とても愛おしく、大事な言葉となった、桜。
そして、人間の優しさと幸せな温もりを教えてくれた、主様。
数日まで血の気が失せていた患者が、血色を取り戻し、ふくよかな顔つきで嬉しそうに伝えていた、言葉。

『───さんの薬は、よく効くよ───』


一寸の間をおき。

「私の主様、飼い主様は。
……苗字を、楠木(くすのき)、名を、朴吉(ほおきち)と」

「楠木朴吉、か。楠も朴木(ほおぼく)も薬になるものじゃ。薬になるが吉……薬師になるべく生まれた、そのような者でありんすなあ。はあ……よござんす。うむ、うむ……良き名じゃのう。……ではこうしよう。桜よ。わっちが今からお前さんに名を付け直しんす。
…これからは、苗字を天薬、名を朴桜と名乗りなんし。そして、己が課した業というもの、確りと、存分に果たすこと。これらが、衆を抜ける条件としなんす」
ぴしりと閉じた扇子で自分を指すお雪に、猫は…朴桜は深々と頭を下げた。
「この天薬、必ずこの業を務め果てましょう。…お雪様。お世話になりました」
「よいよい。仲間内は口喧しく言うだろうが、このお雪が許しんしたと言えば黙ろうて。何時でも帰ってきなんし。わしも歳をとった。…いずれはわっちの治療もしてもらいたいもんだの」
「そんな、恐れ多い…有難い言葉にございます。お雪様が有事の際には、この天薬、いつでも駆けつけましょう」
「かかかかか。ほんに賢き猫又になった。桜…いや、朴桜の努力の賜物よ。そうじゃな。もうひとつ、餞を渡そう。朴桜。後ろを向きなんし。……これ、そち。あれを持って参らんせ」
お雪の言葉に、失礼して…と、朴桜はくるりと背を向けた。
控えの猫に何かを持って来させようと命令するお雪に、しばしお待ちを、の言葉と共にたたっと畳を走る音が聞こえた。
数刻の後、とことことまた畳を戻る音がする。
「……お雪様、こちらでございます」
「うむ、これじゃ。よろしい。…そち、下がりなんし」
「はっ」

足袋と着物が畳を擦る音と共に、畳に膝をつける音としゃらりと簪の飾りの音が自らの後ろで響いた。
そして、ふわりと尾に触るなにかの感触。なにか紐のようなものを括られているような感覚と、チリンと響く鈴の音。

「……これで良いじゃろう。朴桜、どうじゃ?」

自分の尾を見ると、綺麗に合わせられた桜色の組紐、そして鈴が結ばれていた。

「組紐じゃ。お前さんの門出を祝うには良かろうて」

「お雪様……。名も、この組紐も。後生……大事に致します」

胸から熱く込み上げるものを、朴桜は止められなかった。結えられた組紐、その尾を抱き締め、ぐす、と鼻をすする姿に、お雪はからからと笑い声を立てるのだった。


そうして人の温もりを求めた猫又…天薬朴桜は、長い年月を経て薬師となった。
妖怪の癖に人間の味方をするなど言語道断だと、一部の仲間から陰口を叩かれようと気にも止めなかった。
お雪様が何とかすると言ってくださった、それを信じようと思ったのだ。

薬草が頃合になるのは夜、昼と摘み時がある。
籠を片手に薬草を摘んでは乾燥させ、下処理し、薬箱へ保管する。


そんな猫又朴桜が営む薬屋がひっそりと存在する。
年月何ぞとうの昔に忘れたが、自分を可愛がってくれた手と薬草と、村の暖かさの匂いは覚えている。
そんな猫又の薬屋に、誰か訪問に来たようで。



──猫又の営む薬屋。

そんな話を男……井村忠右衛門(ちゅうえもん)が耳にしたのは、名医という名医でさえも匙を投げてから、数日が経った時だった。
その昔疫病が流行り、廃村となった村の一軒にあるという、万病難病を忽ちに治す薬屋。
行きは良い良い、帰りは怖い、そんな童歌が罷り通るそんな場所にあると言う。

迷信だと鼻で笑ってはいたが、男はもう来るところまで来ていたのだ。
精神的に。そして、肉体的にも。
日に日に弱っていく我が娘、幸(さち)の姿に。
恐ろしい病だと尾鰭の着く噂を聞く度に。
一日中障子を締め切る大屋敷、その異様さは更に噂に尾鰭を付けるのを加速させた。

何もしてやれない親としての悔しさ、情けなさ。
弱っていく我が娘。
妻は自ら腹を痛めた子を、忌み物と侮蔑し屋敷を出ていった。

藁にもすがる思いだった。

魑魅魍魎が跋扈する丑三つ時。
男は生唾を飲み込みながら、暗闇が広がる恐ろしき廃村に足を踏み入れたのだ。

「…こんな所に、本当に薬屋が……?」

動揺を隠せない、そんな有り体で、恐る恐るすり足でとある東屋へと入って行った。

「いらっしゃいませ。何か御用でしょうか」
「な、」

か細い声にびくりと肩を踊らせた男は、そのままぎょっとした顔で声のする方向を見つめる。その先には、とろりとした朝焼けを融かした紫と桃色を混ぜたような、そんな瞳の女が立っていた。猫特有の縦筋の瞳孔は細く開き男の顔を見つめている。

ざり、と後退る草履が砂を擦る音が響いた。

肩を出した独特の黒の訪問着のような着物。見た目は人だが、薄桜の髪とその頭から生えた猫耳、二つに分かれた尾に結えられた組紐と鈴。
明らかに人では無い容姿。

慄く男、井村の前で、朴桜は深くお辞儀をする。
かつての飼い主がしていたように。

「ようこそお出で下さいました。猫又の薬屋へ」

「猫又の薬屋……まさか、本当にあるとは……あれぁ……ただの御伽噺だとばかり、」
「御伽噺。はて。ならあなたは、何故此方にいらっしゃるのでしょう?」
ふふ、と朴桜が首を傾げると、体の動きに合わせて結わえた鈴がチリンと音をたてる。
動揺に目を泳がせていた井村は、ごくりと唾を飲み、ゆっくりと周りを見渡した。
幾重に連なった薬箱。漂う薬草の匂い。
摘まれたばかりの薬草はざるに置かれ、吊るされ乾燥されたものもあり。
台に置かれた擂鉢。刻まれた薬。そこかしこに置かれた薬包紙。計り。
竈には沸いた湯が湯気を成す大きな鍋。
間違いなく薬屋であると認識せざるを得ないその光景。
ぼろを成す表の姿とは似つかぬ建物。
男は未だ目を白黒させるしかなかった。
その、あまりの現実味の無さに。

「御客様……井村様。いつまでもそこにお立ちなさらず、どうぞこちらへ」
「あ。、なぜ名前を…いや、しかし、」
御前は妖怪だろう、そんな動揺した視線と、何か言いたげな思い、訝しげに見つめる表情。此奴は誰だ、何者だ、男からはそんな空気を醸し出している。そして何か、何かを思い出させる匂いも。

「私は猫又ですが、薬師です。この店は、行き詰まった人しか来られない、そんな呪い(まじない)をかけています。」
「…呪いを、」
「貴方様。何か、見知らぬ病に迷われているのでは無いですか。」
す、と朴桜が目を細めると、男は1度目を閉じ、ゆっくり息を吸い。
そして、吐き出した。
その目には、まだ動揺があるものの、何か覚悟を決めたような、そんな意志が見て取れた。
「…みっともない姿を見せてしまった。済まなんだ。」
「構いません。誰しも、初めは驚きます。……腐っても妖怪、ですからね」
一瞬だけ自嘲気味な笑みを浮かべると、にこやかに井村の方へと顔を向けた。
どうぞ、お掛け下さいまし。
年季の入った椅子に座布団を乗せただけの質素な腰掛け。朴桜が手で示す。
そこに井村が座った。
重みがかかり、きしり、と木の板が音を立てた。
向かいになるように、古びた作業机の前に立つ。

「猫又薬師の、天薬朴桜と申します。
さあ、伺いましょう。病、症状、なんでもお話くださいませ。」

「…貴女がかの猫又の薬屋と言うならば、聞いてもらいたい。」

井村は、ぽつりぽつりと話し始めた。
男には娘、幸がおり、歳は数えで十六。そろそろ縁談も、そんな話が出ていた矢先だと言う。
「急に咳き込み、倒れ、魘される程の高熱を出し…。寝込んで四、五日は経っただろうか、」

井村は深く息を吐いた。

「信じて貰えないかもしれん。だが本当のことだ。娘から、このような……花が。花が、生えて」
「花、ですか。」
「嘘じゃあねえ!嘘、じゃねえんだ…本当だ。見てくれ、これが、娘から生えた花だ。」
井村は着物の合わせに手を伸ばし、懐紙に包まれたそれを差し出した。
「…少々確かめさせていただきます。」
小さく震える手から懐紙を受け取り、そっと紙を開く。

くすぐる鼻腔に、懐かしい匂いと、同時に走る少しのむず痒さ。

ばっ、と避けるように顔を背けた。

無意識に漏れる妖気。
トラウマに爪を立て引っかかれる寸前の、そんな冷たい感覚。

毛が逆立つのが自分でも分かる。

あの香りは、花は。
ご主人も蝕まれた、あの、
弱々しく笑うご主人、その体から咲く、白く、甘い…………

動悸と共に思い出す遠い遠い忘れたと思っていた記憶。
感情渦巻くそれを篩い落すようにふるふると頭を振り、視線を戻すと、ひい、と己の姿に慄く男の姿があった。
たらいにはった水に映るは、今にも噛み付く寸前の猫又の…いや、完全に変化を解いた妖怪の顔だった。
いけない、と妖気を抑え、開いた瞳孔を元に戻そうとぱちぱちと瞬きを繰り返す。同時にぱんぱんと頬を手で叩き、ゆっくりと深呼吸をする。
私は薬師だ。ただの妖怪じゃない。
心の中で言い聞かせるように何度も何度も、息を整える。
たらいの水を覗き込むと、元の垂れ目の顔が映っていた。

「……失礼しました、驚かせてしまいましたね。」
「い、いや。なんだ、その。俺こそちっと…怖くなっちまって、」
井村は慌てた様に袖で額の汗を拭う仕草を見せた。
無理もない、この夜更けに妖怪の姿を諸に見たのだから恐れ戦くのも無理はないだろう。
申し訳ございません、とまた朴桜は頭を下げると、井村は怖がりながらもいやいや、と首と手を慌てて否定するように振った。

「いいんです。何か薬師さんにも事情がおありなんでしょう。……して、何か分かることはありましたか。あの花は何ですか?いや、それよりも、娘は、!娘は、っ助かるんですか!?」

強い男だ、朴桜はそう思った。気をつけていたとはいえ、不意を突かれ妖怪の姿を見て妖気に当てられたというのに、冷や汗をかきながらも、娘の身を案じている。前のめりに朴桜に詰め寄る井村をじっと見つめていた。
どうかお願いだと訴えるような男の真剣な目。
そして、台に置かれた、懐紙の白い花。
束のように広がり、小さな花が集まり乱れ咲く、その花。
朴桜は静かに、井村を見つめ、そして花を見つめた。

「…説明致しましょう。」

朴桜は台に置かれた懐紙の花を手に取り、井村に広げて見せながら口を開いた。

「この花は、ガマズミと言います。」
「ガマズミ、」
「ガマズミに属する木に咲く花です。束ねた花の様に…このように、小さな花が集まりひとつの花を作るのが特徴です。そしてこの、甘い香り、恐らくは間違いないと思います。」
「…はあ、ガマズミ……ガマズミか、そんなものは植えてはいないはずなんだが、どうして…」
「ガマズミは、莢蒾子(きょうめいし)とも呼ばれ、薬にもなります」
「これが、薬に…」

何が何だか、と目を白黒させる男を他所に、女は尾を揺らしながら後ろに並んだ薬棚を見つめる。

「まず娘様の処置から参ります。時間がありません。手早く質問を致します。
…突然の高熱、咳。体力的にも恐らく衰弱なさっているでしょう。ならば、桂皮と麦門冬がいいかもしれませんね。娘様は、胃腸は丈夫ですか?」
「い、いや。元々食は細い方で、」
「麻黄は不要、と。人参は要りますね。体力も回復するでしょう。それと…棗は、ここに。娘様の体重の貫は分かりますか」
「ええと、確か……そうだ、大体だが13貫だ。この前町医者に診てもらったばかりだ、間違いない」
「承知致しました。娘様、色白でしょうか?体躯は?」
「色白だ。元々病弱でな、外には滅多に出なかったが、縁側で日に当たり庭を見つめるのが日課だった。体躯は……大凡だが、四尺一寸ほどかと」
「色白。体力は低、虚証気味、体躯は平均、体重はやや低……それならば、甘草も少し足しましょう。…適は、麦門冬湯加桂皮、ですね。」

後ろに並んだ引き出しを次々開けては薬草を取り出す姿を男は目を丸くして見ていた。
体躯、体重、骨格。
証に合わせた薬草の量はほぼ頭に入っている。
擂鉢の中に入れた薬草をすり潰すと、独特の芳香が漂っていく。
時折叩き、潰し、粉になるまで擦りながら、ガマズミを見つめ、頭を巡らせる。

「娘様は、確か、縁談が入っていらしたんですよね?」
「ああ……。最初に見合いをした男が娘に一目惚れしたってんだが…な。武家の生まれで見目も良かったもので大層娘も喜んでなあ…。よくある話だ。ただ問題が……相手方に隠し事が見つかったんだ。俺も噂で知ったんだが……。とてもじゃねえが娘に宛てがうにはちと器量が小さいと思ったんだ。慕っていたんで言い辛い事だったが、娘にも伝えた。娘もそれを知ってからは男に会うのを拒むようになったんだ。相手は最後まで渋ったんだが、どうしようも出来ねえってんで破談になってなあ、」

男は苦虫を噛み潰したような表情で、当時のすったもんだを思い出したのか、重いため息をついた。

「失礼なことを伺いますが…問題とは、」

「ああ。そいつが、賭博と酒で金貸しから借金をしてることが後にわかったのさ。その額といったらもう……とてもじゃねえが口に出せたもんじゃない。それくらい裏の界隈ではとんだ遊び人だってんで有名な奴だったんだ。親父殿は厳格で血筋を大事に尊く考え為さる方だが……大事な息子だ、何とか事を揉み消したかったんだろうよ。息子にもきつく灸を据えたと頭を下げられたが……問題はその息子よ。
娘に一目惚れした心だけは本当だ、後生だ、会わせてくれと執拗くてなあ」
記憶を思い出したのか、困ったように頭を掻く男を見て、ふと閃いた。

ガマズミには花言葉があった。それならば納得がいく。

からん、と擂鉢に擂棒を置き、男を見つめる。

「井村様。ガマズミには、花言葉がございます。」
「花言葉…?」
「ええ。花言葉とは、花それぞれに込められた意味合いのことです。それこそ、全ての花にそれは存在します」
「ならその、娘に咲いた、ガマズミって花にも意味があるって言うのかい?」
「勿論で御座います。それに、意味から考えても…娘様がご体調を崩されたのは、元々の体質故もありますがそれだけではございません。寧ろそこを狙った…」
「どういうことなんだい、薬師さん…娘に、娘に何が起こったんていうんだい!?」
作業台越しにがっと井村は朴桜の細い肩を掴んだ。
縋るような、恐れるような、何かわからないもの、そんなものがごちゃ混ぜになった心情を、目に映しながら。そしてその思いは肩を掴むその力からも取って感じられた。夢であってくれ、そんな表情の井村を目の当たりにし、朴桜は少し目を伏せ気味にする。
人間にも、こんな酷なことをする人がいるものだと、伝えねばならなかった。いや、人間だからこその手段なのかもしれないが。

「ガマズミの花言葉は、
私を無視しないで。私を愛して。
このような意味を持っています。」
「無視しないで…って、な…なら、娘は、」
「娘様は病気でもありますが、恐らくは呪(のろ)われたのだと思います。御相手は…言わなくとも分かりますよね。家に駆け込めば門前払い、見えることすら叶わない。そんな扱いを受けた者が考えることくらいは…。」
「なんと、そんな、あやつ……そんな馬鹿なことを……!!己の過ちを反省するでもなく、私の……大事な娘を呪うなど……」

手で頭を抱えるように机に伏した男は、信じられないとでも言わんばかりに震え、顔色も真っ青になっていた。怒りと戸惑いと噛み締めた唇は固く筋張っていた。
かける言葉さえ躊躇うその姿。
大事な一人娘が呪われている、それこそ周りの噂の通りに。違うと否定してきたことを受け止めなければならない、その心情は……いや、そこまで心を覗くのは無粋だ。自分が出来ることをするのみ。
朴桜は井村の様子を静かに見つめながら、すっかり粉になった薬草を一匙ずつ小袋に詰め、とんとんと均し、封をしていった。

────────────
「畜生!やってられるか!!!」

酒に酔った男が一人、夜の花街を大股で歩いていた。
女郎も大棚の男もこそこそと白い目を向けながらこそこそと囁く、異様な空気。
夜の街、夜の明るさと反し、男に向けられる視線は少しばかりの好奇心と冷たさだった。
武家、伊佐山半兵衛(はんべえ)。それが男の名前だった。

袖を隠しながらこそこそと交わされる夜の界隈の会話。

「武家伊佐山の嫡男というに、ほんにみっともないのう…」
「聞けば酒と賭博で有り金すって、大旦那がカンカンだって話だ。金はあるだけ使う、それがあいつなんだ」
「ほんに品のない…。して、噂は真(まこと)なのか?…真の想い人が彼奴に出来たというのは」
「ああ、本当だ。乾物問屋の井村の娘らしいが…念のいった箱入り娘らしいぜ?」
「噂の奇病の…あの男が真に惚れたと言うからどんなものかと思えば……物好きが居たものよのう」
「いやいや、それがよォ、奇病だという噂もあるが、元々肥えが悪くて体が弱いんだそうだ。どっちが本当か分からねえがな。買い付けついでにちらと見たことがあるんだが、ありゃあ夢みてえに儚い女だったよ。さて、あいつも酔ってそれを見て、心を奪われて幻想でも見ちまったんじゃねえかと思うんだがな」
「ほほほっ……ほんに面白き話しをしなんすなあ」

くすくす、という嘲笑に、ちっと盛大に舌打ちをした。
畜生!ちくしょう!どいつもこいつも俺を馬鹿にしやがって!
親父も親父だ、大事な嫡男様だってのに金もよこさねえし、身を慎めと叱り殴り飛ばしやがって。そればかりか、あの儚い娘にも会うことは叶わねえ。
大事にしてやりてえと思ったんだ、そうしたら、俺だってきっと…

ぐい、と手にした瓶の酒を煽り、口元を袖で拭ったその時だった。

「もし、そこの方」
「あ?俺は今虫の居所が悪いんだ。あちこちで噂をされるわ酒は足りねえわ女には会えねえわで腹が立ってしょうがねえ。手前…下手な事言うもんなら女でも承知しねえぞ?」
「ふふ。貴方にとってもいい話だと思いなんすこと…いかがかえ……?」

金・銀、そして朱で彩られた扇子で口元を隠しながら現れたのは、どこかの郭の女郎らしき女だった。
少しつり目の下にはほんのりと朱が施され、朱をあしらった着物を着崩し、しゃなりと歩く姿は花魁も顔負けするほどの色気と艶美を醸していた。

じろりと睨みつけながら女を振り返った伊佐山は、その何も言えぬ佇まいに険しい顔を解き、ゴクリと生唾を飲み込んだ。そしてへらりと笑いながら女に近づいていく。顔には「下心」という文字が浮いて見えるような笑みを浮かべて。

「へへ…いい女じゃねえか…。で、いい話ってのはなんだ、俺に教えてくれるってのかい?この……ざまあねえ俺でもよ…」
「ふふ…はしたないことは店外では折檻の元でありんすよ。わっちがお伝えしたいんしことはもっと…いいこと、でありんす」

着物の下の腿に手を伸ばす手を扇子でびしりと叩いた女は、妖艶に男を見つめた。男はへらへらと叩かれた手の甲を逆の手でさすっていた。

「へへ…女郎なのに身が堅い女ってのも悪かぁねえ…どこの郭だ?ただ、本気で愛しちまった人がいるんだ……っつってもまあ、酔っぱらいのお笑い話だよ」

「ならば。もし……手篭めに出来る……と申したら。あなたはどうなさいます?」

へらへらと笑っていた男がぴたりと顔を強ばらせ、真顔で女を見つめた。

「そんな…ことがあるもんか。こちとら門前払い何回食らってると思ってんだ」
ふん、と鼻で笑い、苦い記憶を思い出したのか、ちっと大きく舌打ちをした。
「ですから…それを、叶えられると申しているのですよ。旦那様……伊佐山半兵衛様」

ふふ、という微笑みを浮かべる女を、男は動揺しながらも見つめ続けずにはいられなかった。
なぜ俺の名前を知っている?
いや、焦がれた女(ひと)を、自分の手を取ってくれるそんな好機が……出来る?あの儚い笑みを、自分に向けられる。障子に隠れてしまったあの女(ひと)に、今一度相見えることが出来たなら。

「それは…どうやってなんだ。女…どの店か知らねえが、それを教えてくれるって言うのか?」
「ふふ。今、この時でも良き報せでありんすよ。さ、…こちらへ」

誘われるはただの裏道。
傍から見えるは遊女が男を引くそんな場面。
誰も気にしはしなかった。ここは花街。
そんな情景は……日常茶飯事なのだ。
艷めく声が、店からか、薄暗い道で聞こえるか…そんな場所なのだから。

女は手を引いた男をくるりと見やり…胸元から何かを取りだした。

「これは…」

びくりと身体を震わせる男。
女の手にあったのは藁人形、そして、ガマズミの花。

「さて、旦那様。この人形には…米が詰まっています。そして…彼の方を想いながら、胸元にこの花を思い切り刺し通すのでありんすよ。そして…数日、誰にも見られぬように、この花を育てなんし。やがて思いは根を張り、貴方の心が彼の方に届くことでしょう」

「でもこれは…呪い(のろい)じゃないのかい」

恐れ戦く男をケラケラと声を上げて女が笑った。

「単なる呪い(まじない)でありんすよ。おまじない、それが少し強く効果のあるもの…旦那様の思いを無下にする…悔しきことではありませんか」

ただし…、という言葉と共に、女は男の顎をくいと持ち上げ、色めいた視線でぽつりと零した。

「あなたの思いが強くなるほど…彼の方に効果がございます。ただ…もし、育てているものを誰かに見られたり…効果を破られてしまったその時は……貴方様に、その分の思いが、跳ね返ってきます。その事は…ゆめゆめお忘れないようになさいませ」

とろりと男を見つめる視線と、紅を指した唇を見つめ、男はこくこくと無言で首を縦に振る。

さあ…あなたの思いを込めて、この人形に愛を囁きなさいませ。

その言葉に、半兵衛は人形に念を込め、ガマズミの花を力いっぱい刺したのだった。
はたと気づくと女はおらず、ガマズミが人形に根を張り、綺麗な白い花を咲かせていた。半兵衛はそれを袖口から仕舞うと、酒瓶を持ってふらふらとまた夜の街へと出ていったのだった。
男の口角はにんまりと上がり、鼻唄まで囀る(さえずる)ほどにご機嫌だった。

「なんだってんだ…でもまあ……いいものを手に入れた。これで、俺の思いも分かることだろう」

それから数日後……とある商家の娘が、病に倒れたと噂が広まったのだった。


──────────

「井村様。薬が出来ましたよ。」
「あ…ああ、その、なんだ……。もう、何が何やら」

井村はくたりと力の抜けた姿勢で背中を丸め、意思の籠らない空っぽの声で苦笑いを浮かべていた。
目だけが何とか状況を整理しようとあちこちを見渡しくるくると動く。動揺している、そのことは手に取るように分かった。

「井村様。動揺するのもとても心痛み分かるのですが。時間がございません。よくお聞きになって下さい。一度しかお伝えしません。どうか、お忘れなきよう……」
「す、少し待ってくれ。…筆を貸してくれないか。書き留めたい。それくらいの時間はくれないか」
「……仰る通りに」
筆を渡し、墨を男の傍に置く。
震えながらも筆先に墨を染み込ませ、懐紙を数枚机に広げた。大きく息をし、深呼吸する。

「……よし。説明しておくれ。書き漏らさないようにする。」

男の真剣な目に、女はこくりと頷いた。

「まずこちらの小袋に、娘様の症状を治す薬を調合したものがございます。これを一日三度、白湯に溶いて飲ませるようにしてください。」
「……一日三度、白湯に……」
「七日も続ければ、体力も戻り、食欲も出てくることでしょう。咳も無理をしなければ出ることもないかと」
「だが……花は、花は、呪いなのだろう?それは、」
「良いですか、そこからが重要なのでございます。…娘様の体力が良くなるにつれ、呪いの力は薄まります。それと共に、花はいつしか枯れ、実をつけるでしょう。その実を娘様の歳の数、違えずにもぎり、種を酒漬けになさること。そして娘様の歳の数の日にち寝かせた酒を飲ませるのです」
「なっ、その、は!?呪いの花から生まれたものを、娘に食わせろと、!?薬師様…っそんなもの浄めも祓いもせずにまた体内に戻せと!?」
激昂した男は筆で女を指差しながら、唾を飛ばし怒鳴りつけた。信じられない、そんな感情を顔で声で表す井村を、朴桜は目を閉じ静かに受け止めていた。
「そんなことをすれば更に呪いを受けるようなものではないか!?呪いが込められたものを浄めもせず身の内に取り込むなどっ、」
「…そう思われるのもごもっともです。抵抗はあるでしょう。ですが、私はこうも申し上げました。

ガマズミは、薬にもなる、と。」

怒鳴り声を遮るように、朴桜は凛と言葉を発する。
「申し上げましたよね、時間がございませんと。」
静かに井村をじっと見つめ、ゆらりと尾を揺らした。

罰の悪そうに筆を握り締め、椅子に座り直した。きしりという音がしんとした東屋に響く。

「然し、薬だと言っても…呪いがかかったものを体内にまた入れるなど、」
「ガマズミ…莢蒾子は、疲労倦怠感を改善する効果がございます。
良いですか。これは娘様の虚弱体質を利用した呪いなのです。花は娘様の体力を吸って咲きます。このまま咲き続ければ娘様の体力が持ちませぬ。私の言うとおり、信じていただければ、娘様の呪いは解け、虚弱体質も治りましょう。」
「……信じて良い、のだな?本当、なの、だな?」
「勿論で御座います。」

朴桜は井村に深く頭を垂れた。
その姿に、井村はごくりと生唾を飲みこみ。解った、とぽつりと呟いた。
時折深く息を吐きながらも、静かにさらさらと紙に筆を走らせ、ことりと筆を置いた。

「井村様。決して、呪いを呪いで返そうなどとは、思わぬようになさいませ。」
「……ああ」
「人を呪わば穴二つ。貴方も、相手と同じ所へ堕ちる必要は無いのです。……娘様の唯一の御家族なのですから。1番大切なものは何か、よく考えて行動なさいませ。」
黙って懐紙を着物の裾に仕舞う男へ薬袋を差し出す。
「…ありがとう。恩に着る」
「滅相も御座いません。今は娘様を大事になさいませ。さ、お帰りはこちらへ」
井村を東屋の入口へと誘導し、暖簾を潜った後深くまた頭を垂れる。
チリン、と言う鈴の音に男が振り返ると、薬屋だったはずの家は無く、男が彷徨い歩いていた街中の裏道に佇んでいた。

暫く呆然と立ち尽くしていた男だったが、薬袋を強く抱きしめ、夜の闇へと走って行った。
その姿を、屋根の上に組紐を結わえた猫又が一匹、じっと、男の影が見えなくなるまで見つめていた。


──────


その後、体から花が咲く奇病に侵されたと噂されていた井村の娘は、嘘のようにたちまちに元気になったとの事だ。奇怪な娘が住まうという忌まわしい話もたち消えた。娘の美しさに見とれた男が嘯いたのだろうと、奇病の話は綺麗に収まったのだ。
儚げな娘、幸の美しさに、縁談の話もまた上がるようになったと言う。それは瓦版に載るほどの大層な話になったそうだ。

その裏では、とある男……伊佐山半兵衛の変死体が見つかった。
襦袢と褌というあられも無い姿の男には身体中から莇(あざみ)の花が咲き、美しい紫の花の群集の中で息絶えた男は、苦悶にもがき苦しんだのか、喉を引っ掻いた痕が残り、手は反吐と土に塗れていたという。
見つかったのはここ二、三日ほどなのに、骨が見えるほどに肉が腐り落ち、腐臭を放っていたというなんとも気味の悪い屍だったと。
そして傍には、枯れたガマズミが刺さった、糸や藁が朽ち綻び、腐った米が散らばった藁人形が転がっていた。

……莇の花言葉は、報復。
人を呪わば穴二つ。

「まるで冬虫夏草ね」

痴れ者だ奇病だと家から追い出され、打ち捨てられ。
金貸しから取り立てられ身ぐるみを剥がされ。
届かぬ恋に焦がれ、歪んだ愛に苦しんだ男が一人、体に可憐な花を咲かせながら朽ちていく。
花は、人の養分を吸って恐ろしい程に美しく咲き乱れていた。
そこに跪き、手を合わせる女。
男の喉から伸び咲いた莇の花をぽきりと折った。

「喉仏から咲いた花なら、御骨の代わりになるかもね」

さすがに薬には使わないけど、と呟き。
男の傍に小さな石を立て、土を盛り。
摘み取った莇をそっと手向けるように置いた。
綻びた藁人形を手に取りあげると、ぽろぽろと米を零していく。これが……呪いの根源、か。

「……ナマクサマンダ バザラダン カン」

ふ、と息を人形にかけると青白い猫火が人形を包みボロボロと炭へと変化し、風に乗って消えていった。


女から伸びた二又の猫の尾。
組紐に付けられた鈴がチリンと風に凪ぎ、音を夜に響かせた。

かつての飼い主も、最後は綺麗な綺麗な花を咲かせていた。
甘い甘い匂いのする、白く綺麗な、ガマズミの花を。
最期まで笑っていた。
これも、一つの人の愛なんだと。
猫の時には分からなかった、その意味。

私を無視しないで。
それは、無視をしたら、私は命を絶ちますと同義で。
飼い主はかけられた呪いを解こうとはしなかった。
それほどに愛してくれるなんて素敵じゃないか、と少し困ったように笑っていた。
あの匂いをかいだ時に思い出したのだ。
私は、あの人に生きていて欲しかったと。
薬師ならば、病を治して欲しかったと。

「人間って、やっぱり変なの」

でも、愛を誰より知っている。
だから、色んな形で示せるのだと。
執着でも、恋慕でも、呪いという歪んだ形だとしても。
色んな思い方があるからと。



白く淡い花の中で微笑みながら、最後を迎えた飼い主。
お雪様がおゆかりさんと申していた薬売りも、そのような方だったのだろうか。
郭という籠の中でも必要とされ、優しく声をかけ、……時には客として。

私の主は、生涯独り身だった。
幸せそうに、ガマズミの甘い匂いの中、愛された事実だけを天へ持って行った。

朴桜は目を閉じ願う。


天にいる飼い主がしていた、薬師を目指そうと。
優しく頭を撫でてくれた手から香る薬草。
煎じた薬液の匂い。
全部、覚えている。
まだ覚えて、いた。
朴桜は思う。天にいる主と、自分を送り出してくれた化け猫の頭領を。

今日もどこかで、お目にかかるかもしれない。
そんな猫又、天薬朴桜が作り売り、切り盛りする薬屋。
必要とする時、必要とする人の傍に現れる。
今日もどうぞ、ご贔屓に。

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