甲斐性なし。noteに画像つけるのめんどくさい問題。AIイラストの価値。ただ生きるだけでいい。

タイトルの通り。よくみんな毎回画像を用意するものだなと思う。昔は丁寧に自分の写真を引っ張り出してきて加工までしてアップロードしていたが、いまは面倒で面倒でしかたない。

まあ、手を抜けば良いだけの話だ。このところ目立つのはAIが描いたであろうイラスト。とはいえ、AIイラストにも上手いものと下手なものがあり、やはりnoteの記事に添えるようなものは、短時間でやっているのが丸わかりのものが少なくない。

AIの登場でイラストはおびただしく量産されるようになるだろうが、わたしは危惧していない。ものの価値が変わっていくだけのこと。
AI程度で絵画の価値が落ちるというのなら写真が出た時点で死んでいるだろう。実際にはそうではない。説明は面倒だから省く。わかる人だけわかってくれれば良い。

家の壁が寂しいので、なにか掛けたいと思っていて、悩んでいる。実はわたしがいちばん好きな絵は、TF295内でテスト的に作ったAIのイラストだ。これが、じつにきれいな人物が描けてしまった。人に依頼しても、これ以上ができるかどうか。

最初の本はたまたま知り合ったイラストレータさんに依頼をした。それなりにちゃんとお金を出したと思う(出した…よね?)。これは本当にものすごく気に入っている。感謝したい。

次の本はどうしようか悩む。

何が価値なんだろう。アナログで人が描くことだろうか。コピーじゃないことだろうか。ぬくもりだろうか。NFTのように世界にひとつしかないことだろうか。どうも、そうとは思えない。価値は予め決まってはいないように思う。

世界はランダムなのだとわたしは思っている。わたしたちが生きているのは、無限の可能性のうちのひとつで、それは合理的でもないし、筋が通ってもいない。それがいちばんわかりやすく現れるのが、価値なんじゃないだろうか。

たとえばわたしたちは、自分が思っていたような顔の人に恋をしない。なんでこんな顔が好きなんだろうと思う。後になって振り返ってもそうだ。こんな人にどうして人生を狂わされるのだろう、と思ってしまう。

AIイラストの登場をわたしは歓迎も忌避もしない。ただ、わたしはもう価値のあるAIイラストを見てしまった。それで人生が変わり、元に戻ることはない。価値はまったく預かり知らぬ場所に現れて、わたしたちを惹きつけ、軌道を狂わせていく。

AIがいいだの人の手がいいだの、そんな人為的なプロセスや理屈の話と、人がそれに見出す価値の間には関係はない。もちろん、経済には関係があるだろう。ただ、人はその人にもよくわからない理由で、何かを好きになったり嫌いになったりする。その不可思議さの中に、わたしたちが感じる途方も無い退屈、なんでもかんでも科学だのエビデンスだので照らしてしまった先にある虚無感を晴らしてくれる、反啓蒙的な、ほんのすこし後ろ暗い、人生の楽しさが眠っているように感じる。

だから、なにか特定の手法をもって、「こっちのほうが人を感動させられるだろう」なんて、むずかしいし、おこがましいんじゃないか、と思う。結局、作り手には、自分が自分の作ったものに価値を見出すのか、そうでないかの違いしか見えない。

わたしにとっては、作る過程も、作ったものも、途方も無い価値があった。もうそれしか考えてない。
ただ、贅沢をいえば、あなたにとってもそうであってほしいと願う。


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