親の立場から「親ガチャ」について考える
結論としては「親としてやってやれないこともあるけれど、出来る範囲でがんばるわ」。
最終的にはここに至ると思う。
「親ガチャ」とは「子どもは親を選べない」ことの言い換えと認識している。
「親ガチャ」は、ネグレクトや教育にかける費用の格差など子の立場で使われやすい言葉になっている。
いま自分が小学校1年生の親になってみると、できないこと、してやれていないことに目が行ってしまう。
たとえば、両親のできることしか子には伝えられない。たとえば、両親の性格を少なからず継がせてしまう。
キャンプや登山などアウトドアに触れさせたいと思うが、テントで寝泊まりすることを妻は嫌がるし、登山も妻が乗り気にならない。
そもそも、テント泊の物品はテントしかなくて、個人的にはガスバーナーで湯を沸かすこともしたことがない。
登山も、ここ10年では妻と1回、家族3人で1回の計2回しか記憶にない。
子は、初対面の場では固まってしまい、子ども会のラジオ体操後にアメと飲み物を配る列に並んでも自分の番が来ると手を出せずに固まってしまう。
ここまでではなかったと私も妻も思うが、どちらにも人見知りの心当たりはあって。
学資保険が毎月引かれているから教育のことは望むなら何とかなる気はするけれど、ある程度は仕向けていかなければ行かないのかと思う。
とはいえ、どこへ「仕向けて」いけるのか。
「親ガチャ」では親の資力にのみ注目して、アタリとハズレを決めてしまうけれど、アタリとハズレの間のどの辺に自分たちはいるのかを考えてしまう。
将来的にどうなってほしいとかはないんだけれど、同じ保育園出身の子や席が近い数人としか話していないと聞けば、もっと活発に過ごしてほしいと期待してしまう。
自分でもここまでにはなれたのだから、子だって少なくともこのくらいにはなれるだろうからいいか、と日々の生活を見て思う。
結局、他人と比べてしまう自分を捨てないと。話はそこから。
「親ガチャ」だって、被害に遭った子の立場をみた他人からの目線で、当事者の子がどう感じているかはわからない。
いや、この考え方は危険だな。最低限の線はあるし、洗脳とまではいかないまでも、親の考えや目線は子の人格形成に影響する。
最低限の線を守りましょう、というのが憲法25条に書かれてあること。
日本国憲法第二十五条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
結論としては、「親としてやってやれないこともあるけれど、出来る範囲でがんばるわ」。
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