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感情のワンメーター


「割増」の灯るタクシーを停める。

タクシーに乗り込み、ふと考える。
運転手の隣に表示される料金メーターが、感情の解像度だとしたら。
メーターが上がるごとに、解像度が上がる。
解像度の数字が上がるというのは、ぼんやりとしていたものがはっきり見えるようになる、といったところだろうか。
粗かった画質が、どんどんと鮮明になるように。
抽象的だったものが、だんだんと具体的になるように。
詳しくはわからないが、そう定義する。

初乗りの420円から、感情は始まる。


腕時計を見る。
深夜2時過ぎの明治通りは車の数もまばらで、昼頃の交通状況とは全く別物になる。
すいすいと走るタクシーは赤信号に一個も引っかかることなく、スムーズに速度を速める。
その運転のせいか、僕も背もたれにしっかりと背をつけ、遠くの信号を見つめる。
目的地まではまだ道のりはあるが、既に近くの道まで来ているのでは、と錯覚する。
走り始めてから初めての赤信号で止まる。
減速する。その瞬間、前を見ることをやめ、スマホで時間を確認する。
青信号に変わるまでの時間が長く感じる。
ゆっくりアクセルを踏む運転手の気遣いですら、必要以上に感じ取ってしまう。
急ぐこともできず、焦ることもできず。

メーターが、820円に上がる。


車窓を見るとポツポツと雨が降り出し、滴が車に付着する。
その滴を振り払うかのように、車は加速する。
さっきまで降ってなかったのに…と嘆くも、天気の移ろいやすい季節にあきらめもつく。
昼間は真夏のように晴れていても、夜は土砂降り、そんな日もある。
降りしきる雨は、強くなったかと思えば弱まり、また強まり、の繰り返し。
止まない雨はないという言葉があるが、この夜が明けるまでは止みそうにない。
フロントガラスについた雨粒がワイパーによって弾かれる。ひとつひとつの雨粒が消え、視界が開け、テールランプの明かりが見える。
一瞬の灯火も、すぐに雨粒が覆い、何も見えなくなる。

メーターが、1,220円に上がる。


さっきまでのお酒が、シートの振動に合わせて脳を刺激する。アルコールがズキズキと脳神経を麻痺させ、理性が弱くなっているのがわかる。
正常な判断はできていないだろう。
瞼が閉じそうになっているのは、お酒のせいだけだろうか。
一次会で帰っていれば、こんなことにはならなかっただろう。今頃熱いシャワーを浴びて、酔いを醒ましているに違いない。頭と体を冷やして、ぐっすりと寝付いているかもしれない。
そんなはずが、なぜだか体が火照って、心臓の動きに落ち着きがなくなっている。
胸に手を当ててみても、高鳴りが伝わってくる。
これは、いい予兆か、わるい予感か。
いずれにせよ、普通の心境にない。


メーターが、1,780円に上がる。


冷却された感情をバーナーで溶かすように、高温の熱を与える。
冷え切った態度をあたため直すように、やさしい熱を与える。
摩擦をためらうのでなく、積極的に擦ることで熱を生み出す。その熱が情熱となる。
そして、情熱は自分の中のなにかを動かす原動力になる。熱がなければ燃えないし、動かないし、始まらない。
ためらう僕のライターはなかなか着火しなかった。わざと点けないのか、手が震えているからか。それでも、僕の心火は小さく灯った。
少しずつ温度が上昇し、沸き立つ。
沸騰した後に鳴るタイマーウォッチは意味がない。気付いたらもう、走り出していたから。
少しだけ焦げた胸が熱い。


メーターが、2,420円に上がる。


元カノからLINEがくる。
「まだ?」という短い二文字。
僕は焦る。怒っているのか待ち焦がれてるのか。
でも、この想いを誰にぶつければいいかわからない。LINEを遡って上にスクロールする。
「久しぶりに会いたいな」の文字。
どうしてこんな夜に、と思いつつも、過去を思い出す。付き合ってるときもよくあった。
彼女の急な呼び出し、走り出す僕。
あの頃の懐かしい感覚が、今になって少しずつ呼び戻される。僕の頭の中でなにかが溶けていく。
あのときに戻っていいのか、行き着いた先に後悔の二文字が照らされていないか。
正直、不安でしかない。未練があるのかもしれないが、そう思いたくない自分もいる。
会ってしまったところで、何を伝えればいいのかわからない。でも…


メーターが、2,980円に上がる。


やっぱり会いたい。
どうしても、感情は抑えられない。
どれだけ親に怒られようが、友達に笑われようが、この気持ちに嘘はつけない。
距離はあった。果てしなく思えた。ひとつひとつスピードを上げて、ゆっくりと近づいた。
雨が降った。雨粒が前を遮った。見えなくなる視界の先の、微かな明かりだけを頼りに目指した。
頭は正常じゃない。心臓も早くなる。胸の高鳴りを正当化しつつも、自分の本当の気持ちに気付き始めた。
熱で溶かした。摩擦で擦った。ライターで灯した。全ての感情は、だんだんと熱くなり、溢れ出し、自分という器に収まることができなくなる。
会いたい。たったこれだけのシンプルなことなのに、溢れ出す感情は、もうどうにもできない。


もう少しでメーターが上がるところで、目的地に到着する。
僕は精算をして、全てを0にする。
落ち着いた表情、ゆっくりとした動作で、タクシーのドアを開く。


深呼吸をして見上げた夜空は、僕の感情の解像度のように黒くつぶれて、星一つ見えない。

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