毛布にくるまれた僕は、「ゆたかさ」の四文字を通過する。
「ゆたかさ」について、あたたかい毛布にくるまれながら考えてみた。
年をとるにつれて、自分の中の「ゆたかさ」の定義も変化しているに違いない。
ちっちゃなスマホの画面が灯る部屋の隅で、長かったような短かったような、28年間のタイムトンネルを、ゆっくりと歩く。
小学生の頃ーー。
毎日、必ずご飯が用意されていた。
トーストの匂いがすれば、トーストが出てきた。
スイートポテトの匂いがすれば、スイートポテトが出てきた。
カレーの匂いがすれば、カレーが出てきた。
当たり前のことだが、当たり前に感じたことは一度もなかった。
目覚ましのベルが鳴ったら、三時のおやつになったら、夕陽が顔を覗いたら。
お腹が空くと、フルコースのように食事が出てきた。
そして、それを匂いが教えてくれる。
その匂いが、「ゆたかさ」の象徴だった。
中学生の頃ーー。
毎日、人知れず緊張していた。
バスケットボール部での練習の日々は、心の底から楽しめた。
仲間と汗を流し、切磋琢磨して、高みを目指す。ありきたりなスポ根漫画のあらすじみたいだが、弾むボールを無我夢中に追いかけた。
その分、試合前の時間や空気が、僕の緊張の糸をきつく締め付けた。
靴紐を結ぶ、バスパンの腰の位置を直す、靴底の滑りを確認する。
ひとつひとつの動作が緊張としてあらわれ、チームメイトのさりげない一言が、それを少しだけ和らげてくれた。
その緊張が、「ゆたかさ」の象徴だった。
高校生の頃ーー。
毎日、持久走を駆け抜けているようだった。
受験勉強は我慢の連続で、握ったシャーペンは手汗で濡れていた。
もちろん目的はあるものの、ゴールへの距離は果てしなく思えた。
一体、いつになったら終わるのだろう。
それでも、応援してくれる人がいると、自然と熱が入った。
学校の友達、塾の先生、駅の係員さん、隣の家のおばさん、家族。
人生で、「がんばれ」と素直に声を掛けてくれる機会は、あのときが一番多かったかもしれない。
揺るぎない声が、僕に力を注入してくれる熱源となった。
その熱が、「ゆたかさ」の象徴だった。
大学生の頃ーー。
毎日、朝を二日酔いで迎えた。
バイト終わりはいつも、騒がしいチェーン店の居酒屋で飲み明かしていた。
必ず飲み放題にして、枝豆とフライドポテトをつまみながら、何杯もハイボールを飲んだ。
ありふれた恋愛話、くだらない下ネタ、少しだけ真面目な将来の話。
アルコールが入らないと喋れない話は、呂律が回っておらず、聞き取りづらかった。
それでも楽しかった。酔っ払うことでしか出せない自分を、ありのままに出した。昨日の失敗を、明日の予定を、過ぎていく時間を、全て忘れて。
そして、夜が明けて外に出たときの朝の光の眩しさが気持ち良かった。
その光が、「ゆたかさ」の象徴だった。
社会人になった頃ーー。
毎日、メールがくる、電話が鳴る、「申し訳ございませんでした」と口にする。
何もかも初めての経験で、文面でも電話越しでも、何万回も謝った。
謝った回数だけ成長すると信じていた。
壁にぶつかった経験を訊かれた入社試験の面接のことを思い出し、社会は壁だらけなんだなあ、と他人事のように呟いた。
謝ることで溜まった捌け口はSNSに集中した。
Twitterで、名前も知らない誰かが、同じ気持ちで人生をもがいているという事実が、明日を生きる糧になった。
Instagramで、見たこともない世界をスクロールするだけで、どこか遠いところへ旅をしたいという気持ちにさせてくれた。
恋人からくるLINE通知の振動が、待ち遠しくなった。
その振動が、ゆたかさの象徴だった。
そして、外出が強く禁じられた今ーー。
僕は、あたたかい毛布の中で、スマホを握りながらこの文章を書いている。
四月から自粛期間が始まり、自宅で何ができるかを考えた。
心のどこかで、自分がぼんやりと思っていることをひとつの形にしたかった。
本当は恥ずかしいけれど、誰かにこの想いを共有したいという気持ちが強くなった。
世界は急変し、僕は決心した。
秘めていた想いを、noteに投稿することを。
そして今、僕は「ゆたかさ」を感じながら、この文章を書いている。
「文章を書くこと=ゆたかさ」ということでない。これまでのシーンを冴えない映画のように振り返ることも含めて、僕はゆたかに感じられた。
ただ、あの頃の、匂いも、緊張も、熱も、光も、振動も、思い出そうとはするが、実際には思い出すことはできない。
あの頃のシチュエーションは、自分一人で成立するものではなく、また、本当の「ゆたさか」とは、言葉で簡単にあらわせるようなものではないからである。
一人一人が持っている価値観や思考、感情や経験など、色々なものが結び付いて、一つ一つの細胞や神経を刺激する。
それが何なのかは極めて抽象的で、表現し難い。昔よく聴いた音楽かもしれないし、実家のカレーの味かもしれない。好きだったあの子の香水の匂いかもしれないし、懐かしい一枚の写真かもしれない。
そして、「ゆたかさ」とはそれらの実体そのものを指す言葉でもない。耳に伝わる一音一音の音の振動や、味覚に至るまでの風味や熱量、そのシチュエーションの一瞬は誰にも説明することができない、かけがえのない一瞬だ。
僕は今まで生きてきた中で、様々な経験をしてきた。楽しかったことも、嬉しかったことも、悲しかったことも、後悔したこともあるだろう。
そのとき、そばにいた人は誰だろう。
いつも、そばに誰かがいること。
それは何てことのない、当たり前のこと。
いつものように起きて、ご飯を食べて、出掛ける支度をして、電車に乗って、買い物をして、家に帰って、ベッドに就いて。
全部、一人でできる。
でも…
本当の「ゆたかさ」は、僕一人では生み出せない。
誰かとわかり合えて、育てて、つくった時間。
「ゆたかさ」なんて四文字はとっくに通過した、それ以上の何か。
会話じゃない。行為じゃない。
ただ、今を生きていると実感させてくれる、それだけの何か。
ずっと変わらないことは、そばに誰かがいたということ。
たくさんの「ゆたかさ」を、誰かが与えてくれたということ。
それが、僕にとって、ゆたかに生きるということなのだ。
全てを打ち終え、スマホを置くと、部屋が真っ暗になる。
保安灯の灯りを、ほんのりと照らす。
何てことのない明かりも、全身を包んだ毛布も、誰かがそばにいるような気がして、今日もぐっすりと眠れそうだ。
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