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社会人大学院のススメその2~学位ってなに?どこの大学の学位が偉いの?~

 前回書いた通り、日本の学歴の主流は、コスパ重視の大学の学校名による「学校名学歴」から、実務実績や積み重ね重視の大学院学位による「学位学歴」に急速に変化しつつある。しかし、多くの人がまだ「大学院はおカネにならない」「いい大学の学部卒の方が地方私大の学位取得者より上なのでは?」等と誤解をしている。今回はそうした誤解を解いていきたい。

そもそも学位ってなに?

 「学位」とはシンプルに言えば「その学問分野においてどの程度の学習・研究実績を成したか」という証明資格で、大学などの各授与機関から与えられるものだ。国際連合教育科学文化機関 (UNESCO) が策定した国際標準教育分類(ISCED 2011)のレベル6,7,8それぞれを達成したことを証明するものだ。
 大学の学部卒だとISCED 2011レベル6の「学士」であり、これは大学学部を4年程度修了し、その分野の基礎に一通り触れたことを指す。英名は「Bachelor」であり米スラングで独身男性という意味を持つ単語であることでもわかるとおり、一人前に社会に出る事のできる程度の初学者である事を示す資格だ。この資格は各大学が独自に授与することができるため、その難易も内容も様々で、学士資格があるからと一概に能力を判定することは困難だ。
 今、学歴競争の新たな中心地でありホットな話題となっている「修士」はISCED 2011レベル7であり、これは大学学部卒業後修士課程を2年間程度修了し、その分野の応用範囲まで一通り触れたことを指す。修士は英名を「Master」と呼ぶが、米英や新興国では、この修士資格をもってしてはじめてその道を最低限マスターしたプロフェッショナルであると見なすことが多い。修士では最終局面において学外の人を招いて簡易的な査読(学問的審査)を行うか、あるいは査読付き論文誌への投稿を義務づけるコースがほとんどであり、修士を所持していることはその分野における一定の実力を証明する。
 筆者が持つ「博士」はISCED 2011レベル8であり、その分野における一通りを修了し、かつ、専門性のある小分野においては世界トップの1人である事を(少なくとも建前上は)指し示す資格だ。博士の英名は「Doctor」であり、米英や新興国などではこのDoctorを持っていないと専門家として見なされない事が多い。博士取得には通常3つ以上の査読付き論文誌掲載に加え、各分野ごとの基準突破が求められることが多く、例えば筆者の持つ博士(芸術)では、3つの査読付き論文誌掲載に加えて審査付き作品展への出展、最終的な審査会での口頭審査と作品審査の突破が必要とされる。後述するが、日本においては該当大学が出す資格と言うよりも所属学会が推薦して各大学がそれを承認する形式で出される資格であり、博士を所持していることは細分化されたその小分野における第一人者である事を指し示す。
 いずれにしても、学位とは、その被授与者の該当分野における専門性と、理解の深さ、修了した範囲を示す資格であると言える。世界的に「学歴」即ち英語で「educational background(もしくはシンプルにbackground)」といえば、この学位の状況を聞かれていると思っていい。
 これに対して日本の従来の「学歴」は学校名を指すことが多い。これは世界的には「学閥」であり、英語だと「school clique」なのだが、生まれ育ちに左右される学校名(school clique)を掲げる行為は強烈に下品な行為であるとされる地域が多く、例えばジョージ・ブッシュJr 元米大統領がその政権初期にイエール大のschool cliqueを頻繁に掲げて問題視されたことなどは年長読者の記憶にあるだろう。つまり、日本で言う「学歴」は世界的には「学閥」にあたる生まれ育ち自慢であり、あまり好ましいものではないのだ。この差異が、日本人がなんとなく学歴を語るのを避ける(あるいは学歴を語る人が変な人とみなされる)根本的な理由だと私は考えている。
 これに対して「学位(educational background )」を語るのは(その事実はどうであれ)米英や新興諸国では本人の努力の結果と見なされて好ましいとされることが多い。

博士授与直前の筆者。緊張感がある。

で、結局どの大学のどんな学位が偉いの?

 学位の概要はわかったところで、実際に読者が気になるのは「結局どの大学のどんな学位が偉いの?」「学位を持っていてどんな役に立つの?」という部分だろう。
 これはシンプルに「博士の場合には大学名を無視してその分野で一番の専門家の資格」であり「修士の場合には査読付き論文誌掲載があれば博士に次ぐ該当分野での地位。査読付き論文誌掲載が無い場合には大学名を参照」とすべきだろう。また、学位はお金になるかならないかと言うよりも、自分の能力を客観的に示す道具として学位こそがもっとも適しているのが、学位の持つ一番の経済的便利さだと言える。
 日本の博士課程では、文科省の指導の下、博士の審査は各専門分野の学術会議所属学会の専門性に依存していて、査読も、作品などのその他審査も、最終的な博士審査の副查メンバーも学会に頼っている。そのため大学ごとの差は僅かなものとなり、専門分野が同じであれば日本中どこの大学であったとしても同じレベルの審査が行われている(ごくごく稀に、文科省のルールをガン無視して未だに独自審査をやらかしている大学もあるが、それらは文科省からの補助金減が怖くない超有名大数校に限られる上、そうした大学でもほとんどの出自の学生には通常のレベルの審査を課しているのでこの項を読んでいるような我々一般人やせいぜい少々血統がいい程度の者にはまったく関係がないと言っていいだろう。なお、専門分野による博士の取りやすさ取りにくさはどこの大学でも明確にある)。
 つまり実は「基本的にどこの大学の博士でも、同じ分野の博士なら同レベル」なのである。
 では博士課程において大学ごとの差がないのかと言うとそんなことは無い。博士個々人個別のレベルは同じでも、大学機関の優劣はその人数に出る。例えば日本最高峰の大学のひとつである東京大学は毎年1500人の博士を出している。それに対して筆者の出たような地方私立大学の博士は4~5人だ。つまり東京大学の博士課程は地方私立大学の博士課程の300倍以上優秀だと言える。
 ただそれはあくまでもそれだけ大勢の博士を育てあげる力があるということであって、博士一人一人の能力には大学による差がないことには留意したい。(なお、博士の後に専門内容が記されていない場合には昭和二十八年文部省令第九号の学位規則における博士学位の表記方式違反なので疑ってかかった方がいい。同学位規則第十一条によって学位には大学名などの学位授与機関も併記することが規定されているが、こちらは近年では前述の学閥主義的であると判断されることが多いため、大学における教員紹介書面など、公式の文章掲示の場に限られて表記される慣習となっている)。
 さらに言うと該当の博士学位が「Ph.D」学問かそうでないか、という点には注意が必要だろう。最近では博士=Ph.Dという雰囲気があるが、これは実は正しくない。「Ph.D」とはあくまでも「Doctor of PHilosophy」つまり「哲学博士」の英略称であって、これは「論文の査読」「審査会の議論」を経た学者同士の「相互承認」という哲学的手法を経て出した学位であることを意味する。例えば筆者は「博士(芸術)」の資格を有するが、これは査読論文と審査会の議論という哲学的手法に加え、作品展示と作品審査を行ってはじめて授与されるもので、英略称もPh.Dではなく「D.F.A.(Doctor of Fine Arts)」となる。日本の場合前述の学位規則によって全ての博士には必ず論文審査が求められる法規になっているため、必然的にPh.D以外の博士授与にあたっては、論文に加えて各専門分野の実技や展示、実務などを審査されることになるため、Ph.D学問分野に比べ授与難度が高くなる。
 従って敢えて「難しい博士はどれか?」と聞かれると、博士(芸術)や博士(体育)などの実技博士ということになるだろうが、これは恐らく読者諸賢の聞きたかった「どの博士が頭がいいの?」という本音部分への回答としては適切ではないだろう。とりあえず、シンプルに「博士はどの大学のものでも同レベル」と思っておくといい。

「難しい博士」のひとつが論文査読や審査に加えて作品の展示や審査を必要とする筆者の持つ博士(芸術)だが、読者の聞きたい「どの博士が頭がいいの?」という本音部分とは少々乖離してるのではないか?

修士の場合は大学次第。ただし学部定番の学校名偏差値ランキングと修士の大学院評価はだいぶ異なる

 博士と異なり、修士の場合には国による決まった審査ルールがある訳では無い。また、レベル的にも一部の特別に優秀な人を除いて、修士研究で学術会議所属学会の専門誌に掲載されるのはなかなかに難しいだろう。さらに言えば、最近では学術に依らない専門職大学院も設置されるようになってきたために査読論文という基準だけではなかなかに難しい。
 そのため、修士の審査は各大学の裁量が大きいのが日本の修士の特徴と言える。もちろん論文の提出など一定の一般的基準はあるので、そうした審査基準を明らかにしてそのクリアを義務付けている大学院であれば、その大学の発行した修士号は信用ができると言えるだろう。
 ただ、修士の難しいところは、よく知られている学部のレベルと修士のレベルが必ずしも一致してはいないところだ。学部偏差値の高い有名大の中にも明らかに修士のレベルが低い所がある。というか明らかに大学学部の偏差値ランキングや国立優位の感覚とは乖離していて、むしろ地方の無名私大ほど大学の命運をかけて修士教育を真面目にやっていて、都市部の有名大学ほど修士には問題があるケースが目立つ。例えば論文に依らない修士の定番であるMBAひとつとっても、学部では全く無名な名古屋商科大学がここ10年ほどの間、全国一位の評価を取り続けている。反面、学生を大量に取ることで知られる都心の超有名大MBAは、何年もかけてMBAの国際基準から落選し続けている有様だ。
 筆者のおすすめは、実は通信制修士である。これは、通信制の場合には文科省側の大学への審査が極めて厳しく、ハズレが極めて少ないためだ。実際、筆者も旧京都造形芸術大学の通信制の修士を出ているが、これにはスクーリングによるゼミが毎月あり、さらにはなんだかんだと月に2回は対面で教員の指導も受けていて、月1~2回程度の指導が多い通学の一般的な修士などよりも通信制の修士の方がはるかに頻繁な指導回数であった。コロナ禍の影響の強い今現在だと対面という訳にも行かないだろうが、オンライン面談指導などの回数はむしろ増えていると聞いている。学費も対面の2/3程度と安く、就業支援制度の類も使えるため、特に社会人には本当におすすめだ。

ざっくりと

・最近は学校名よりも修士や博士などの学位が重視されて来ている。
・博士は所属学会が掲載誌の査読審査や学位審査への副查派遣を行うため、どこの大学でもレベルは同じ。というかむしろ有名大の方が設備や教員の準備が良くて取りやすい。
・博士は論文だけの審査の「Ph.D」と、それに加えて実技や作品などの審査のあるそれ以外の博士がある。
・修士は大学ごとにレベルが異なる上、学部が有名大かどうかとはだいぶ乖離が見られるので要注意。むしろ有名大に問題があることがある。
・社会人の修士は通信がオススメ。
・余談だが秘密結社は各ロッジや結社参加者個人による相互承認によって成立する。これはつまり実は学問学会と秘密結社は同根から発達した歴史を持つからなのだが、今回は省略する。

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