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映画「LAMB」感想

わたし映画見てこんな気持ちになったの初めてよ

映画館を出て、「俺は何を見させられたんだ…?」と頭を抱えてしまいました。割と映画見ても一言感想をTwitterに書いて終わらせることが多いし、人の考察読んで「ほえ~頭のいいひとはすごいなぁ」なんて思うぐらいしかなかったんですが、この映画に関しては自分の言葉で感じたこと、思ったことを書き残しておきたいと思ったので書きます。
したがって、考察と呼べるものではなく、とっ散らかったものになることが予想されます。何か学びや新たな知見が得られる可能性も低いです。また、当然ながらネタバレがありますので、これから観に行く人はご注意ください。

▼簡単なあらすじ

感想を述べるにあたり、簡単なあらすじをまとめておきます。
アイスランドの山間部で暮らす羊飼いの夫婦(妻のマリア、夫のイングヴァル)が主要人物です。この二人は娘を亡くした過去を持ち、二人で羊の世話や家事をしながら暮らしています。わが子の喪失からは徐々に立ち直りつつあるものの、特にマリアの哀しみは深く、それを理解し支えるイングヴァルの様子が描写されます。
ある日、いつものように羊の出産に立ち会った二人の前に現れたのは、首から上が羊で身体が人間の生き物でした。二人は亡くした娘の名前「アダ」をこの生き物に名づけ、我が子として育てていく決意をします。

▼全体的な雰囲気

アイスランドの大自然がこれでもかと映し出され、映像的な美しさがあります。広大な平野や激しくも美しい川の流れ、壮大な山脈。でも美しさだけではなく自然の厳しさ、そしてどこか不穏さも感じられますね。
カメラワークも、しばしば登場人物を物陰から覗き見しているような感じなので、なんか良くないものをこっそり見ている気持ちになりました。
登場人物が少なく(ほぼ3人しか出てこない、アダも入れたら4人?数える単位は人でいいのかどうか…)台詞も最低限なので、その表情や間から解釈する余地が大いにあります。ラストもだいぶこちらに委ねてきますよねぇ。…ねぇ。

▼喪失への対峙と逃避

異形の「アダ」を我が子として育てる決意をしたマリアとイングヴァルですが、「我が子のように」という比喩ではなく、哺乳瓶でミルクを与え人間用のベッドに寝かせ、大きくなれば人間の服を着せて同じテーブルで食事をとります。ペットを猫かわいがりするのとは訳が違うのです。
肉親の死によってもたらされた寂しさや悲しみをペットが癒してくれるという話はよく聞きますが、それとは一線を画します。アダは「二人の子供」です。
アダの誕生は、静かに日々の暮らしの中で喪の作業を行っていた夫婦を無理やり失くしたものを追い求める方向に引き戻し、先のない逃避行動に向かわせた「悲劇」だと思うのですが、マリアは「神様の贈り物」と言い張り、イングヴァルはアダとマリアとの暮らしを「幸せ」と表現します。実の子を失った彼らのその気持ち自体を否定することは難しいですが、やはり救いのないラストを思うと、アダへの執着とそれによって行われた行為(後述します)は誤りでしかなかった、そう思います。
大切な人を失うことはとてもつらく、乗り越えることなんてそう簡単にはできないことを分かっているからこそ、この作品を観たあとは整理のできない感情がずっと付きまといました。

▼幸せの正体

映画の中で、アダが生まれたのを目にした二人は一切言葉を交わしません。(正確に言うと交わしたシーンは描写されません。無言で凝視する二人の顔→アダを大切そうに抱きかかえて去るマリアの後ろ姿、という流れ。)彼らの間に何か話し合いがもたれたのかそうでないのかは分かりませんが、アダが生まれた後イングヴァルがトラクターの中、ひとり号泣するシーンがあります。
個人的には、マリアに比べイングヴァルはまだ幾分か正気であり、自分たちのしていることが如何に虚しいことか理解しているけど、娘を失い憔悴していた妻がアダの寝顔を見て幸せそうな微笑みを浮かべているのを見ると、何も言えなくなってしまったのだと思いました。自分の娘は二度と戻らないこと、半獣の化け物を慰めとして生きていくしかない妻と、それを見守るしかできない自分を哀れに思ったのでしょう。彼の弟であるペートゥルが訪ねてきた際、アダとアダへの扱いを見て何か言いたげな彼に対して「口出しするな」と牽制したことも納得がいきます。

彼らはアダを子供として迎え入れたことで、かつて手にしていた子供との暮らしという「形式」に似たものを手に入れ、幸せと充足を得ることができたのでしょうが、それは傍から見れば異常そのもの。だからといって彼らが感じている幸せに偽りはない。幸せには正常も異常もないし、客観性も存在しないのだと思い知らされた気分です。

▼奪われた理不尽と奪う正当性

子供を亡くした夫婦のところに半分羊の子が産まれてきて我が子のように育てて幸せでよかったね~♪と、そうはならないわけです。当然ながらアダを産んだ母羊からすると、産んだそばから子供を連れ去られまったく世話もできず会わせてもらえない状態なわけなので、母羊は何度も小屋を抜け出してはアダのいる部屋の前まできて外から鳴き続けます。何度追い払われても、無視されても、何度でも抗議のために。
そんな母羊を疎ましく思ったマリアは夫の寝ている間に部屋を抜け出し、母羊を銃殺して埋めてしまいます。自らのエゴで無理やり母子を引き離し、挙句の果てに母親を殺すという行為なわけですからかなり酷いです。夫に気づかれないように証拠隠滅しているので彼女も後ろめたい気持ちはあるのでしょうが、その冷酷な表情からはどこか自らの行為に正当性も感じているように感じました。彼女も過去に実の娘を理不尽に奪われて(亡くして)いるから、奪い返しただけのこと。娘との幸せな生活を邪魔するものは容赦なく排除する、この幸せは誰にも壊させないという狂気じみた思いがそうさせたのかと思うと、彼女の行動の奥底にあるものは「亡き娘への愛」というよりも、「娘のいる幸せな生活という、かつて手にしていたものへの執着」ではないのかと…。
そう考えていくと、彼女がアダを可愛がるのは母親としての愛情というよりは、母という立場を成立させるための役割をただ演じているだけなのでは?とも思えるのですが、他者の立場からそれを切り分けるのは非常に困難ですね。
ただ、子供を奪って自らが母親に成り代わるために本当の母親を殺して埋める女のそれは「母性」なんだろうか?ということはずっと考えています。

この夫婦が仮に娘を亡くしていなかったとしたら、「アダ」が産まれたときにどのように対処するだろうかという怖いことも考えます。こわ~

▼アダちゃんの気持ちと幸せ

このように羊からも人間からも引っ張りだこで大人気のアダちゃんですが、当人(人?)はどのような気持ちで暮らしていたんでしょうね。アダちゃんはおしゃべりできないので、気持ちを台詞で伝えることはありません。
ただ、夫婦と弟の3人がスポーツ観戦やダンスではしゃいでいる中、疎外感を感じたのかひとり退室してしまうシーンがあります。また、物置の鏡に写った自分の姿をじっと見つめていることもあり、ラストに実の父親に手を取られてはっきりした抵抗を見せずに去っていったことからも、やはり内心では違和感というか、自分の居場所はここではないということは分かっていたのではないかなぁと思うんですよね。もちろんマリアとイングヴァルに対して、保護者としての信頼や情があるのは間違いないですけど。
実の母親を殺した人間のことを何も知らずに慕ってるの、嫌すぎますね…。願わくばアダちゃんは一生そのことを知らないままでいてほしい。
「この暮らしがアダにとっての幸せかどうか」ということを、二人は考えたことがあるんでしょうかね。人間の子供に対しては十分な環境を与えてそうですが…その辺のことを考えるとやっぱり幸せの形式にだけ囚われていて、内実は二の次なのかな…と感じます。

▼まとめ(まとまらないが)

この映画を見て後頭部をでかめのフライパンでたたかれたような衝撃を受けたのは、そしてこんな冗長な文章を書き散らかすに至ったのは、生きていれば誰にでも訪れる事柄と、それに対峙する人間の強さと弱さ、儚さについて描かれているからだと思います。そして、人間の気持ちを正しいか否かではかることがいかに無意味であるかも思い知らされた気がします。面白い、面白くないみたいな尺度ではないけど、「観てよかった」という感想に尽きますね。(ホラー映画的な要素を期待していくと肩透かし食らうかもしれませんが…)
あんまり書くとアレなんですけど、人間って罪深いなぁっていうのもありますよね。原罪というか、生まれてスミマセン!という気持ちにもなりました。監督さんへのインタビューで、LAMB見たあと肉食ができなくなったという感想がちらほらあったとか。わたしは直後にもりもりジンギスカンを食べてしまいましたが…

自らの執着と行いですべて失ったマリアが最後に見せた表情、どう解釈すればいいのか、わたしはまだ分からないですが、いつか分かるでしょうか。
一度観ただけでは分からなかった(見逃した?)疑問点もいくつかあるので、また観直したい作品でした。




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