見出し画像

子どもの邪魔をしない教示とフィードバックについての一考察

運動学習、という学問のテーマがある。英語だとmotor learning(そのままだ)と呼ぶ。最近はスキャモンの成長曲線とゴールデンエイジという言葉への誤解もそこかしこで生まれているが、運動にしろ勉強にしろ、とにかく詰め込めばいいというのは大きく間違っていて、「効果的に、あとできちんと応用できるように」運動を教えるというのはひとつの大きな課題であるという認識のもと、運動学習の様々な視点について昔から(50年くらい前から)議論されている。

解剖学的に言えば、小脳や運動前野と呼ばれる運動の記憶を司る部分が運動学習のメインテーマだ。生理学的に言えば、脳のニューラルネットワークの話になるだろう。これらは、ヒトが生き物としてどう運動をおぼえるのか、という「仕組み」について考える視点だ。

子どもを育てていると、本当にまっさらな状態で生まれてきた子どもが、まるで一筋の光に導かれるように運動発達し歩くようになることに衝撃をおぼえるが、この、歩行に至るまでの運動発達というものもまた、反射や反応とその統合といった身体に仕込まれた時限装置の発動によってプラスマイナス数ヶ月の誤差で皆が歩き出すという、どちらかというとこれも運動学習の「仕組み」の話になる。(もちろんそうでない側面もあるが。)

運動学習が仕組みだけの話なのだとしたら、答はより単純なのかもしれない。仕組み=システムというのは、Aという入力をしたらBという出力がでる、というようなイメージで語ることと親和性が高いからだ。AからBまでのブラックボックスを理解すれば、自在にAとBをコントロールすることができるようになる。

けれども人間の運動学習はそれほど単純ではなくて、そこには「他者との関わり」というものが常に存在している。子どもは常に目の前の大人の動きを観察している。成長すれば、年長者や熟達者の動きを見るようになる。ときには、その「相手」から指示や指導をもらうこともあるだろう。人間の運動学習には「他者とのコミュニケーション」という要素が少なからず関わってくるのだ。


昨日、子どもとスキーをした。
5歳の子どもは、初スキーだ。

子は、スキーに興味とまではいかないまでも関心を示し、前日まで、ときどき「ちょっとスキーのことを考えると緊張しちゃう」とか、かわいいことを言っていた。おそらく、何度か見たことのある「誰かがスキーをしている場面」を「自分の身体で体現できるかわからない」という部分に緊張していたのだと思う。

運動学習は、イメージと運動を一致させる過程だ、とも言えるだろう。

だから初めてのスキーはまさに運動学習のスタートだった。
子を観察していると、リフトに乗って上から滑り降りてくる大人や子どもをじっと見つめているなぁと思ったら「履いてみる」と言い、「進みたい」「教えて」と言い出した。父と母がさっさと板を履いて平地を進んだり緩斜面を滑ったりしているのを見て「この人たちの言うことをとりあえず聞く」と決めたらしい。

父と母も、あーしてこーして、と、もちろん子どもにスキーを教えるなんて初めての経験である親として、様々工夫をしようとした。しかし10分ほど試行錯誤する父と母に見切りをつけたのか「あれ(リフト)乗りたい」と子は言った。マジか、と父母は焦った。乗るのはいいが降りれるのか?・・・けれども乗りたいというからには彼なりにやってみるつもりだということでもあるし、「行ったら滑って降りてくるしかない、転ぶと思うけどやれるか」と聞くと「行く」と言う。まあリフトを降りる時にリフトを止めるかもしれないが、降りるときにめげて板を外して歩くことになるかもしれないが、そんなことは大したことではないのでとりあえず初心者コースの一番上までリフトに乗ることにしたのだった。

さて、一緒に滑り、転ぶ様子を見る中で、件の運動学習について考えた。

多くの研究者による研究の積み重ねで、運動を教える際のコツというか基本というか、とりあえずのコンセンサスがいくつか存在している。そのうち、今回のスキーで活かせたと思うことは以下の通りだ。

1.  言葉による運動方法の伝達は詳細すぎると害となる
2.  運動を教示するときには、内在的なものに注意を向けるよりも外在的なものに注意を向けたほうがいい
3.  子どもには正確さに関する最適レベルがあって、そのレベルは年齢とともに上がっていく(小さい子に細かい指示を与えると意味がないどころかがパフォーマンスが低下する)
4. フィードバックの回数は多ければいいってもんじゃない

ひとつずつ簡単に説明してみようと思う。


まず、1についてだが、これは、運動を行う前にその運動がどういうものでどう行うとうまく行くのかを説明する度合いの話だ。スキーを例に「ダメケース」を挙げるとこんな感じだ。
『板をハの字にして目線は前、膝は軽く曲げて足の内側に力を入れるとそんなにスピードが上がらなくて済む。もし転びそうになったらハの字の幅を少し大きくするようにして、でも板の先端は重ならないように。』

どこまで削るかは教える側の考える優先度次第だが、例えば以下のような指示がいいのではないかとわたしは考えた。
『とにかく板はハの字。スピードが出すぎて怖くなったらお尻をつけば止まる。』
(よしこれだ!と思ってこのフレーズを言ったあとに、5歳の息子はカタカナのハの字を知らないことに気がついて『おやま(山)!おやまの形!』と言い換えた。)


つぎに、2について。これは、身体の動き自体よりも、身体の動きによって起こる結果を指示したほうが良い、ということだ。例えば、『頭を上げて』よりは、『お母さんの方を見て』と言うこと。『リフトを降りるときには左足に力を入れて』よりは『右へ行くから右の建物を見て』と言うこと。
自分の身体の動きに注意を向けすぎるとうまく動けず、自分の外にある目標を結果に繋がるように意識させるといい、と言うことだ。


3は、ある意味当然なのだけれど、子どもへの指示は年齢が小さければ小さいほど大雑把なものしか通じない。「加減」みたいなことを伝えようとしても5歳児には無理だ。ちょっと力抜いて、とか、もう少し曲げよう、とか、は、無理だ。
現に、滑り出す前に姿勢は膝を軽く曲げて、と伝えてしまったがために、子の滑走スタイルは滑降種目のようになってしまった。そしてなかなか直らなかった。(お昼の休憩のときに、このあと4に書くフィードバックをしたら午後は改善した。)


4は、運動の直後にその運動がどうだったかについて、毎回フィードバックしないほうがいい、ということだ。更に言えば、フィードバックの正確さも上達を阻害する。例えば、「上手にできた」「速かった」「遅かった」というような「外から見たあなたの様子」をいちいち毎回伝えない。それが「5秒でさっきより0.5秒遅かった(速かった)」のように言葉として詳細になればなるほどそれも良くない。
なので、散々転びながら降りることを繰り返したあと、しばらくして、直すべきところを動画で伝えてみた。『滑っているとき、結構膝が曲がってたけどもう少し伸ばすと上手な人に似ると思う、ホラ(と動画を見せた)』。
これに対して彼は「あ、ほんとだ」と言って、しばらく考えたようだったが、午後少し膝が伸びていた。よかった。


長くなってしまった。
そんなわけで、子の初めてのそこそこ高度な運動体験というものは、親にとっても初めてのそこそこ高度な運動学習のための教示体験ということで、とても楽しかった。

途中から、親二人が関わっているのも言葉が多すぎると感じて(そして転ぶ子を起こすのに母の体力が足りなくなって)、父に子を任せてしまったので、最終的には『イイね!』しか言わなくてよくなり、わたしも楽だった。必死になったらお互いつまらない。

そして、子どもがもうやめとくわ、と言ったらもう一回を無理強いしなかった。これも我ながら(父とともに我々ながら)偉かったと思う。正直あと2−3本滑れば一気に上達するような気がしていたのだが、何事も楽しいうちに、6割くらいの満足度でやめるというのが大切なコツであると、わたしは周囲の複数のアスリート指導者から学んでいたからだ。これは運動学習とはまた違う、モチベーションのハナシになるのでまた今度。


しかし、患者さんに対してはドライに実行できても、我が子となると難しい指示と感情のコントロールよ。人間として成長しなければならない。



追記:
運動学習について興味のある方は、日本語で以下のような解説を見つけたので是非どうぞ!→ 谷浩明『セラピストによる教示やフィードバックは学習に効果的か?』理学療法科学、2006