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慰安婦 戦記1000冊の証言3 漢口遊廓

 国連勧告など無視し、廃娼運動を沈黙させ、「慰安婦分隊」は勢力拡大の一途だった。
 昭和13年10月の漢口では、「慰安婦分隊」の新設準備が最優先で行われた。
 第11軍の先遣参謀は、兵站司令部先遣設営隊の少佐に、「このような大都会だから、将校用も下士官用も相当に大きいものがいるだろう。慰安所は300人くらいの女が入る広さのものが必要だ」と慰安所用建物の選定を指示した。

 設営隊では漢口市内の建物を調査し、積慶里にある建物に決定した。部屋の床にアンペラを敷き、部屋の仕切りもつくるなどの応急改造を行う。蒲団や食器類は、無人の中国人家屋から運んできた。
 兵站と後方参謀と協議して、利用料金も定めた。30分で、兵は1円、下士官1円50銭、将校・軍属は1時間で3円。宿泊は将校、同待遇軍属のみで10円とした。
 慰安所を作り上げ、続いて肝心の慰安婦をそろえた。

「兵站は(戦闘部隊に追随して来た朝鮮人)一行を全員積慶里に収容し、これが積慶里入居第一号となった」。
 さらに、「上海、南京で待機していた売春業者らは、慰安婦を率いて続々と武漢を目指し、揚子江をさかのぼりはじめた。派遣軍は彼らを軍需品扱いとし、優先輸送した」
「彼らは漢口に到着すると、兵站司令部の指示を受け、積慶里に入り、11月中には30軒の慰安所と約300人の慰安婦が入居した」。

 このようにして「慰安婦分隊」というより大規模な「慰安婦中隊」が組織され、積慶里入口には「漢口特殊慰安所」の看板が掲げられた。
 その後、この「中隊」はこの場所に留まり、本格的な改装も行われ、「その規模と内容において、支那派遣軍随一のものとなり、敗戦の日まで繁昌を続けた」という(1)。

 ただ、この「漢口特殊慰安所」だが、「割合格調の高い店が多かった。したがって、彼女達の趣味とか好みとかが反映され、室内を彩っていた。
 衣桁にはなまめかしい長襦袢がかかっていたり、長火鉢は桐で、銅壺に湯がたぎっているといったぐあいで、ときには爪弾きの音の洩れるときもあった。
 この日本的な情緒がたまらないといって、積慶里だけを愛用した者もいたが、惜しむらくは料金が高かった」(2)
 この積慶里、「入口は狭いが、中に入ると縦横の路地の両側にびっしりと慰安所がならび」「中国家屋だが、内部の造作は畳障子の日本風であった。女は全部日本国籍つまり内地人と半島人である」(3)

 日本内地の「遊廓」づくりだったらしい。慰安婦の集め方も、同様の方法だったという。
 昭和19年6月、漢口に転勤になった中支憲兵隊の憲兵曹長の証言。

「慰安所街の積慶里で、以前に南昌で旅館をやっていた旧知の安某という朝鮮人経営者から聞いた内幕話。
『この店をやっていた私の友人が帰郷するので、2年前に働いていた女たちを居抜きの形で譲り受けた。
 女たちの稼ぎがいいので、雇入れたとき、親たちに払った300-500円の前借金も1、2年で完済して、貯金がたまると在留邦人と結婚したり、帰国してしまうので、女の後釜を補充するのが最大の悩みの種です。
 そこで1年に1、2度は故郷へ女を見つけに帰るのが、大仕事です。私の場合は例の友人が集めてくれるのでよいが、よい連絡先を持たぬ人は悪どい手を打っているらしい。軍命と称したり、部隊名をかたったりする女衒が暗躍しているようです』」(4)

 この「遊廓」とは別に、漢口市内に「六合里と呼ぶ現地人の女を置いた妓楼があった。私娼窟ではない。歴とした軍公認であった」
「六合里は低廉な料金であったから、利用度も高かった。ただ積慶里のような派手な情緒はなかった。
 房子といった方がふさわしい中国風の部屋は薄汚れていたが、兵隊達はよくここへ通ったものである」(2)

 昭和14年ごろの漢口の慰安所事情に詳しそうな歩兵第231聯隊歩兵砲中隊員の証言。
「漢口市内には軍人軍属の出入りできる慰安所が5か所ぐらいあった。将官慰安所と海軍慰安所は別として、兵隊に馴染みの深い篤安里、積慶里、六合里の3か所であった。
 篤安里に一歩足を踏み入れると、すぐ『羽田別荘』の看板が目に映る。広島市内にある羽田別荘の進出であるらしかった。郷土部隊である中隊の兵士がつめかけたのはいうまでもない。
 異国情緒は六合里慰安所だ。料金は、日本1円、朝鮮80銭、支那60銭である」(5)
 
慰安所は必要悪

 ところで、「漢口特殊慰安所」の「繁昌」の反面、漢口兵站司令官は、皇軍将校が“遊廓の大将”をしている辛さを、部下の慰安係に語っている。昭和18年ごろか。慰安係は慰安所の監督指導も行う。

「静かな調子で慰安についての話をした。『慰安係の仕事のうちで、いちばん面倒なのは、いわゆる特殊慰安所の監督指導だ。
 特殊慰安所を軍が施設として持っていることには、いろいろ意見もあろうが、現在のところ必要悪として認めなければなるまい。
 しかし、その弊害を極力少なくする方法として、なるべく兵をそうした遊里へ近づけないために、健全娯楽の施設を強化する必要がある。
 同時に慰安婦たちを泥沼から1日も早く救ってやるために慰安所の不正をなくし明朗な管理も行っていきたい」(6)。

 慰安所は「泥沼」なのだ。「泥沼」を敬遠したいが、やむを得ないと、受け入れる部隊長もいた。
 昭和15年2月、中国・南寧で、今村均第五師団長らを主賓とし、久納第22軍司令官による夕会食が開かれた。以下、今村の証言である。

「席上、軍の管理部長が、次のようなことを云いだした。
『話は下がりますが、きょう自動車で15名ほどの抱え主につれられて、150名の慰安婦が到着し、軍管理部で、家屋の都合はつけました。
 全部を南寧に留めておいてよいか、近衛部隊は南寧から8キロも離れた部落におりますので、そちらに何名ほど移らせたらよいか、ご決定を願い、その方の設備は桜田旅団でやっていただきたいと存じております』
 すると誰かが、『双方の兵員数に応じ、按分できめたらよいでしょう』。そういうや否や桜田少将(近衛旅団長)が、『ご配慮は有難いですが、近衛の兵は、いくらかほかとは違っており、そのほうのご心配は無用にしていただきます』と言う。
 同少将は性的方面にも謹直の人だ。
 慰安所というのは、将兵の性的慰安のためのところであり、わが国内では、戦地のこの種施設をひんしゅくする人が多い。
 これはわが国軍だけのことではなく、列国軍とともに『特殊看護婦隊』の名でやっているとのこと。私もこの名のほうがよいと思う。
 ずっと以前、誰かから聞いたのだが、往昔わが東北地方の前9年後3年の戦のときも、朝廷は、京女からなる慰安隊を、源氏の軍に送っているとのことである。
 右(夕会食)の日から10日ほどたち、憲兵隊が各部隊の南寧慰安所利用状況を一表にして、参考のためと云い、各隊に配布してきた。
 それによると、予想に反し、これを利用する人は、近衛部隊の者が一番多く、しかも往復15キロ以上の道を歩んで来てのことと云う。
 その後、桜田少将に会ったとき、遠慮のない間柄のこととて、憲兵隊の調査表のことを話題にして見た。
『50に手がとどきますと、こんなにも、20代青年のことがわからなくなるものですかね。私も、あの表を見て驚いてしまい、会食の席での言葉を素直に取り消し、やっぱり部隊の宿営地に分派してもらうことにするつもりでおります』」
「『君が前言を率直に取り消し、あの設備を宿営地内に設けてやれば、兵は遠路を通う必要がなくなり、きっと喜ぶだろうと思う』。このように語った。

3日間の特設慰安所

 昭和19年3月、鉄道13連隊は河南作戦で宿営している頃、3日程の休養があった。その間、「3日間の休養日に開設する特設慰安所の長を命ぜられ」た軍人の話。
 前線司令部の軍政部が、地元の治安維持会(住民の行政組織)に慰安婦の提供を要請する。集まった「25人の慰安婦と賄婦、監督(やりてばばあ)、総数30人を受領する」。
「現地で徴発した支那ピー(慰安婦)で、半分は素人、半分がセミプロ程度のようだった。軍政部から金が支払われている。2台の車に分乗させ、逃亡されないように警備も分乗する」
「部落の村長の豪邸を3日間借り受け、6棟くらいある家に分営させる」「設営は老練な予備の伍長が万事請け負う。先ず、寝台を頭数だけ集める。部屋をアンペラで区切って個室のようにする。毛布を配る。受付は門前に机を並べる。
 6棟ある家には、各々家号を張る。できるだけ吉原や洲崎の女郎屋を連想させるムードづくりから始める」
「翌日9時から開業である。それまでに軍医殿の検査を終わらねばならない」
「初日は大盛況裡に事故もなく無事終了した。第二日目に入ると、彼女達から、1日休ませてくれという陳情とも哀願ともつかない申し出がある。要するに、朝の10時から夜中まででは身体がもたないというのだ。
 尤もなことだが、ここで休まれたのでは兵隊が承知しない。充分な栄養をつけて時間を短縮するからとなだめすかして、2日目は午後から開業し、どうにか終了する。第3日目も午後から開業、無事3日間の営業を計画通り終わる」(7)

 こんな「臨時慰安所」の設営・管理も、すべて、日本軍が行った。
「出張慰安所」も早くからできていた。昭和16年、中国・東鴉園?、「村上部隊(第104師団第4野戦病院)隊員の証言。

「休務日は水曜日であった。慰安所の都合からそうきめられたらしい。しかし、村上部隊に慰安所があったのではない。
 鴉湖という歩兵第161連隊本部が駐留する部落にあった。だが、鴉湖までは2里近くある。いくら精力にあふれても2里の道は通えない。
 水曜日の朝、病院の患者輸送用のトラックは、鴉湖まで慰安婦を迎えに行く。3、4人の慰安婦が1日だけ出張して、臨時営業するのである。私は鴉湖の病院内のどこで慰安婦が店を開いていたのか、ついに知らずに過ごしてしまった。
 私たち初年兵には、休務日といえども、しなければならないことが山程もあって、とても慰安婦に関心を持つ余裕がなかった。午後から夕方までが兵隊の時間、夕方から日夕点呼までが下士官、そして朝までが将校ときめられていたそうであるが、私たちが彼女らの姿を見るのは、いつも翌朝早く、トラックに乗って鴉湖へ帰って行くときだった」(8)

 同じ中国・易県の昭和20年ごろ、ある伍長は大隊本部の営繕担当・酒保担当となった。酒保はようかんや饅頭、酒や煙草を安く売る軍隊内部の売店だが、「もっと生ぐさい商品も売っていた。それが慰安婦である」。
「生身の人間であるから、一切の生活必需品を必要とした。これらはすべて酒保担当下士官である伍長が調達していた」
 伍長は慰安所の設営にあたり、「大隊本部近くの民家を接収して内部改造を行い慰安婦4人を迎え入れた。いずれも朝鮮人で、20歳から25~26歳の慰安婦で、経験は2年から6~7年の者とのことであった」(9)。

 北支派遣自動車第22連隊の隊員の証言。日本軍設営の慰安所もさまざまだったことがわかる。
 昭和15年3月、湖南省石門に駐屯する。「石門のピーヤには1等から3等まであった。我々になじみの深いのは3等だ」。
「作戦参加のため南下するという石門最後の外出日、自分は一度特等ピーを経験しておこうと思って入口に立った。ここは金のある将校のゆくところだから勝手がわからない。
 どの部屋も鍵がかかっていて開かない。やり手婆さんの部屋にも誰もいない。満員かな?と思って待っていたら奥の部屋の扉が開いて姑娘が顔を出した。
 スゴイ美人、やっぱり特等だなあと一瞬呆然、そうしたらドアを閉めてスーッと中に消えてしまった」
「するとまたドアが開いて手招きして自分を呼ぶ」
「姑娘の部屋に入ってまた驚いた。2部屋続きの奥の部屋にはお宮のような寝台、手前の部屋には応接セット、テーブルの上には酒まである。営倉のような暗い3等しか知らない自分は夢かと思った。西瓜の種を食べながら注がれるままに酒を飲む」
「姑娘は何の香料をつけているのか良い香りが漂ってくる」
「姑娘は片言の日本語で話しかけてくるが、自分はもううわの空である。ふと見上げると視線に感謝状が飛び込んできた。当時、石門市民が日本軍に飛行機を献納したことがある。愛国石門号がそれである。
 この美人の姑娘は、それに2回も寄付したのである。感謝状には支那方面最高司令官の名がはいっていた」
「『私、日本人、好きです。私も、日本に協力しています』。姑娘がいった。その顔には厳粛なものが浮かんでいた。
 私はこの姑娘の一言で本題を切り出すことをやめた。姑娘に注がれるままに盃を重ねて夢のような一刻を過した」(10)

《引用資料》1,長沢健一「漢口慰安所」図書出版社・1983年。2、六高会戦史編集委員会「近衛師団第六野戦高射砲隊史」私家版・1974年。3,野元巳郎「大陸通信戦記」図書出版社・1985年。4,秦郁彦「慰安婦と戦場の性」新潮社・1999年。5,歩兵砲中隊戦記委員会「まるさ(〇の中に「さ」を書く)虎の子奮戦記―歩兵第231聯隊歩兵砲中隊」私家版・1974年。6、山田清吉「武漢兵站」図書出版社・1978年。7,森利「モリトシの兵隊物語」青村出版社・1988年。8、高橋弘一「第65師団野戦病院回顧録」私家版・1978年。9,日朝協会埼玉県連合会「証言『従軍慰安婦』」日朝協会埼玉県連合会・1995年。10、木村三四郎「北支派遣自動車第22聯隊」私家版・1976年。11、今村均「今村均回顧録」芙蓉書房出版・2002年。

(2021年11月15日まとめ)


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