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お腹が減ったら泥棒してもいい?

2022.08.06

こどもてつがく小学校高学年
「おなかがへったらドロボウしてもいい?」

てつがく屋 杉原あやの

※高学年のクラスに日程の都合で低学年も数人居ます

子どもたちに伝えたい哲学する意味


小さな子どもたちは、親御さんによって連れてこられていることが、ほとんどです。
「てつがくの時間」とは言っても、「一体なんのためにやらされているのだろう?」と、子どもたちが理解するのは難しいかもしれません。
水泳やピアノの習い事とは違って、何かが目に見えて上達するような気がしないかもしれません。「よく考えてみよう」と言われるのはどうしてなのでしょう。

てつがく屋は次のように考えています。
立ち止まって「当たり前」を再検討し、創造的に柔軟に考えることで、新しいものを生み出せるかもしれません。「当たり前」は、もはや「当たり前」ではなく、新しいものに変えることさえ、できるかもしれない。考えることは、実際に世界を変えることができる。だから、ちょっと、よく考えてみよう!

そのように、子どもたちにも、伝わるといいなと願っています。

あるとき、参加者の子どもたちに、このメンバーで「てつがくの学校」を作るとしたら、どんな場所にしたいかを聞いたことがありました。
「楽しくみんなで学びたい。そのためには仲良くなるのがいいと思う。トランプとかするのは?」という意見がありました。
それを受けて、「いいね。次回それを実際にやってみようか?」と私が言うと、まさか自分の意見が現実になるとは思っていなかったのか、子どもたちは、目をまん丸にしていました。
子どもたちには、自分の意見を持つことや、意見を言うことが、「どうせ無駄だ」とは、思ってほしくはありません。
「トランプ嫌いな子もいるかもしれない!」と意見があったので、挙手をしてもらうと、トランプが嫌いな子がちらほら。理由は、ルールがよくわからないからだそうです。
「だったら、ルールを教え合えばいいんじゃない?」と別の参加者の子が言いました。

こうした発言を受けて、私たちは約束通り、トランプの遊びを用意しました。


アイスブレイクのトランプ遊び


哲学対話には、うまくついていけずに、俯きがちだった低学年の小さな子も、目がキラキラしています。
トランプで遊んだことのない子たちは、トランプの持ち方もわかりません。けれども、少しづつルールを覚えて、盛り上がり始めました。いつも尻込みしている子が、トランプでは勝ち抜いたりして、景品のお菓子を貰って嬉しそうにしています。


今日の哲学対話始まるよ!


その後、哲学対話に移りますが、みんなリラックスしたようです。
いつも縮こまりがちで自信がなさそうに固まってしまっていた小さな低学年の子が、今回はなんと鉛筆を握り、ワークシートに書きこみ始めました!






テーマは「おなかがへったらドロボウしてもいい?」です。




子どもたちの最初の意見は、「どろぼうは、だめ!」というもので、全員一致でした。
理由は、「人のモノだから」「取られた人が嫌な気持ちになる」「お腹が減ったら、お母さんにご飯をもらったらいい」などでした。

でも、その泥棒には、お母さんもお父さんもいないかもしれません。お腹が減ってペコペコで死んでしまいそうです。
それでも泥棒してはダメなのでしょうか。

参加者の子が「この前、ホームレスを見た。ダンボールみたいなところに住んでいた。」と話しました。

参加者の何人かは、大笑いします。おうちがない人がいるなんて!しかも、段ボールだなんて!そんなへんてこりんなことが本当にあるのかな?
子どもたちは、自分たちが初めて耳にするホームレスの話を聞いて、なんだか、ちょっとおかしな話だ、と思ったようです。
(実際に、香川県の多くの子どもたちは、ホームレスを見たことがないと思います。)

子どもたちは、依然として、泥棒は良くないことだと考え、何か別の案を考え出そうとしているかのようでした。

「お腹ぺこぺこで死にそうだったら、まずお店でご飯もらって、そこのお店で働いて、お金返す。」
「誰かに助けを求めたらいい。」
「銀行にお金借りにいったらいい。」
「誰かの家の落ち葉とか掃除して、それで、ご飯もらったらいいと思う。」
「刑務所に行ったら、ご飯食べれる。」
「ものを売って商売をしたらいいと思う。」

知らない人に助けを求められたらどうする?


そこで、こんな質問を子どもたちにしてみます。「知らない人が来てお腹ぺこぺこで死にそうだから、食べ物ちょうだいって言ってきたらどうする?」

「怖い・・・。警察呼ぶ。」
「怖い!!!!!」

さて、ホームレスを見たという子にも聞いてみます。「そのホームレスの人が、君に、助けを求めたら、助ける?」

すると「助けない・・・。」という答えが返ってきました。

目の前にいる杉原が、お腹ぺこぺこな人だった場合どうでしょうか。「もしも、私がお腹ぺこぺこで、君の家の落ち葉とか、綺麗にしたら食べ物くださいって言ってもいい?」と聞くと、参加者の子は、ドン引きした様子で「先に言っておいてくれたら・・・・。」と言葉を濁します。

助け合い、絆、思いやり、というのは簡単そうですが、私たちの世界は、本当は、もっと複雑なようです。

お腹ぺこぺこな人が病気だったらどうなるだろう?


さらに思考実験してみます。

お腹ぺこぺこな人は、病気かもしれないし、動けないかもしれないので、働けないかもしれません。
「病院に行って、まずは治してもらって、治ってから働いてお金返す。」
「そんなことを、みんながしたら、病院潰れるし、後でお金返ってこないかもしれない。」
「病院までどうやって行くの?病院まで行けないかもしれない。」
「やっぱり、もしも、その人が変な病気を持ってたら怖いから、お店で働いてもらわない方がいい。みんなに移るかもしれない。」

みんなが平等にものを持つことはできるだろうか?

「みんなが平等にモノを持つことができるのか」について考えてみる時には、こんな面白い意見も出ました。

ある参加者の子が、いつになく神妙な面持ちで言います。
「本当に平等にするなら、みんなもお腹ぺこぺこで死にかけにならないといけない。悪いことも平等じゃないといけない。」

どうもそれには不服そうな子は「でも元気な人がいないと社会が回らないから」と言います。

最後には「なんか、そういう人の施設とかないんかなぁ」という意見も出ました。


単純化せずに考える

哲学対話の良いところは、複雑なことを複雑なまま考えられることではないか、と私たちは考えています。

「思いやり」や「助け合い」と言って片付けてしまうことは、とても簡単ですが、今回は、それがそんなに簡単ではない、ということも考えることができたのではないでしょうか。

思いやりや助け合いの精神を実現するには、自分のことだけを考えていてもいけないし、相手のことだけを考えているだけでもいけないのかもしれません。自分のことも相手のことも社会のことも、よく知らなければならないかもしれませんし、よく考えることができなければならないかもしれません。

泥棒をしてもいい場合があるかどうかについての意見は出ませんでしたが、「命と泥棒なら命の方が大事」という意見に賛同した子どもたちが何人もいたようでした。

回の最後に、子どもたちにこう伝えて締めくくります。

「泥棒をしてはいけないなんて、そんなの当たり前だ、とみんなは思うかもしれない。でも、てつがくの時間では、当たり前のことをもう一度考えてほしいんだ。お腹ぺこぺこな人にとっては、大変な話だと思う。私たちがどう考えるかによって、もしかしたら、本当にぺこぺこになりすぎて死んじゃう人だっているかもしれない。当たり前のことや、ルールや規則や法律も、絶対に正しいとは限らないかもしれない。だからこそ、考えてほしいと思って、このテーマにしたんだよ。」

哲学対話の時間を半分ぐらいトランプに譲りましたが、それでも、いろいろな意見が出る時間になりました。



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