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人々の事実か否かの判断における問題と考察

クリスマスの晩御飯の話である。家族でフランス菓子を食べているとき、突然父が「日本のケーキはプラスチック製品である」という話を始めた。私たちがよくコンビニエンスストアなどで目にするケーキは石油で精製されており、その「事実」をTwitter(X)である人が言ってしまったのだと。そんな荒唐無稽な話を父は事実だと確信していた。私はその話は常識的に考えればありえないと断じた。なぜなら、私の常識の中では日本の食品の安全性は高く、ケーキがプラスチック製品であるはずがないと確信していたからだ。

 その後、実際にGoogleでその主張をした人間を探してみると、タニタの栄養士が生クリームの原料がプラスチックだと主張しているツイートを取り上げた記事を発見した1。もっと調べてみると「ホイップクリーム」の安全性についての論争がネット上で盛んに起こっていた。賛成派と反対派ともに、海外での規制の有無や、論文・研究などさまざまな情報源を使い自身の主張を正当化していた。それらの主張のぜひを判断するには、専門的な知識が必要だろう。しかし、私の父は理系ではない。また、食品の成分の安全性に関する情報を精査する知識もない。父はただ、本や信頼する人がその主張が正しいといったということを根拠に「日本のケーキはプラスチック製品である」と主張しているのだ。とんでもない話である。だが、私は同時に思ったのだ、私はその主張をいかにしてうそだと判断したのかと。私は父同様に理系ではないし専門知識も持っていない。そうすると、私は常識という客観性が欠けたものによって、父の主張をうそだと断じたのである。

 私は「日本のケーキはプラスチック製品である」という主張のぜひを解いたわけではない。私が問いたいのは「専門的知識を持たない人はいかにして、ある主張を事実か否かと判断するのか」である。それは誰しもが考えるべき命題であると私は考えている。現実の社会を見渡してほしい、上記の私と父のような話が社会規模で起こっているはずだ。例えば、日本の財務省陰謀論など。そのような現象は社会に混乱や停滞を招き、私たちが抱える諸問題が解決しづらくなってしまう。私たちがいかにして無知であるのにも関わらず、事実判断をしてしまうプロセスを理解できれば、その主張にぜひをつけることは難しくても、自己批判精神を持って無用な混乱と対立は避けられるはずである。

 まずは、問いの定義から始めていこうと思う。私が問うのは「専門的知識を持たない人はいかにして、ある主張を事実か否かと判断するのか」である。ここにおける「知識」とは本や新聞などの情報ソースから主張を取得し、その主張のぜひを判断できる知識。論文や本でも、間違っている主張はある。それらの主張に直面した際に、論文や本の正当性を判断できる専門的知識のことである。ある主張Aがあったとする。その主張の出処は不明瞭の場合が多い。社会にすでに存在した主張かもしれないし(日本人は集団的など)、ある人が突然言い出した主張かもしれない。本稿ではある主張を取得した専門的知識不足の人間を、間接取得者と呼称する。繰り返しだが、私が問いたいのはいかがに事実判断するのかというプロセスであり、そのプロセス自体を批判はする場合もあるが、否定しているわけではない。

間接取得者が主張を事実か否かと判断する際の根拠は、「常識」、「信用」、「権威」、「経験」の4つに分けられるのではないだろうか。

 常識は共同体の数だけ無数に存在する。当然だが、共同体間で常識は全く異なる場合が多いだろう。アメリカでの常識と日本の常識は違うであろうし、もっと言えば日本の首都と地方でも常識は違うだろう。また、100年前と現在の常識も違う。昔の日本では、たばこを吸うのが当たり前だったが今たばこを吸っていると特異な目で見られる。また、常識は自明な諸前提として扱われているため、無自覚的である2。実際に、私は父の主張を常識的にありえないと断じるまで、私は自身が持つ常識を認識してはいなかった。上記のことをまとめると常識とは、「ある共同体における無自覚的かつ可変的な自明な諸前提」であると言える。

 ではなぜ、間接取得者は常識を根拠に事実判断を行うのだろうか。結論を先に言えば、人は常識を根拠とする場合は事実判断を行ってはおらず、あくまで常識に従っているといえる。間接取得者は事実判断を主体的に行っているわけではない。間接取得者が、ある主張Aが正しいと判断する際には無自覚的に常識に主張Aが一致するか否かと照らし合わせ、事実か否かを決めている。そうすると、何故人は常識に従っているのかと疑問になる。回答を言うならば、社会的動物としての学習過程の中で常識に従うほうが利点が多いということを学んだからである。しかし、現実的には常識は客観的根拠に乏しく、客観的に証明された事実と異なる場合が往々にして存在している。また、常識に全てを当てはめてしまうことで、新しいことや真実(客観的なデータないし研究における)を見逃してしまう。もちろん、常識を疑って、実際にはその常識が正しかった場合もあるだろう。だが、それは場合によりけりであり、常識が常に正しいとは言えないであろう。

 「信用」というのは文字通り、情報源の人間・組織に対する間接情報取得者が個人的に持つ信用のことである。信用という概念は古今東西に存在しているが、具体的な意味は何なのだろうか。信用とは、「ある個人Aがある個人Bを特定の理由によって能動的に認め、認めた理由を担保にBが要求する行動を行う、またはBの主張を信じる関係性」のことである。 ある個人Aがある個人Bを信用しようとするならば、Aが価値があると思う理由をBの中に発見する必要がある。例えば、時間を厳守するということが、信用には必要がないと考える人には時間を厳守するという価値はない。たとえ、時間を厳守することに一定の価値があると考えていても、時間を厳守した出来事や話を注意深く発見することで初めて彼を信用する理由を認識することができる。もちろん、何が価値あるかというのは個人によって変わる。つまり、社会的な価値・重要性は関連性があっても、完璧に一致することはない。そこが後述する「権威」と決定的に違う点である。権威は社会的に認められている必要がある。だが、信用はAがBを能動的に認めているため他の誰ないし集団に認められているということとは関係なく、AのBに対する信用は機能する。

 信用は、ある主張ないし行動の客観的正当性を保証するものではない。例えば、ある顧客が信用できる証券マンからA株を進められている。その証券マンは、品よく、元気で、話が明確で分かりやすい、以前にも優れた商品を進めてくれた。そんな証券マンから進められたA株はきっと優れた商品に違いない、とその顧客は思うであろう。しかし、前回、人間性、誠実性はA株を評価する際には全くの無関係である。

 信用という関係性を観察していると、人は「信用を失う行為をした場合は責任を取ってくれる」という幻想を信じているのではなかろうか。証券マンの話しをまた例に取れば、あなたがたとえ100万円を失ったとしても、それを保証する責任はどこにも存在しない。だが、多くの人は信用と責任が常にセットであると考えている。俯瞰して見れば、実に愚かである(自分の経験も含め)。

 権威と信用は上記でも述べたように似ている概念である。権威と信用の違いは能動的に認めているか否かという違いしかない。権威による事実判断は信用と同じく、客観性を欠く場合があり、無責任である。

 経験とは、情報を取得した際に、その主張に関係する出来事を一回以上経験しているため、その情報を事実と判断する。日本での例を挙げると、「日本人は集団主義的である」であろう。実際に、ニュース番組や本といったあらゆる情報源でそのような通説を活用している人が多く、私の身近な人々も日本人は集団主義的であると信じている。彼らになぜそう思うのかと聞くと、そういった経験をしたからと答える。例えば、学校、職場、地域でこういった経験をしたのだと。だから、日本人は集団主義的であるという主張を思想的立場に関わらず受け入れている。しかし、日本人が集団主義的であるかを多角的に分析した研究によれば、日本人が集団主義的だという通説は誤りであることが示された3 。よくよく考えてみれば人間集団には形は違えど、集団主義的側面が必ず存在している。自身がそれに近しい経験をしたからといって、主語を大きくするのは間違いであるし、冷静に考えれば客観性に乏しい可能性が高いであろう。

 上記でまとめた通りに間接取得者は、「常識」、「信用」、「権威」、「経験」という4つの根拠によって事実判断を行っている。しかし、間接取得者の事実判断は2つ以上の根拠が混じった複雑な判断な場合が多い。実際に、父の事実判断は「信用」、「権威」が混合したものだった。現実の間接取得者は「常識」、「信用」、「権威」、「経験」という4つの根拠を複合的に判断し、立体的に事実判断を行っているのだろう。

 何度も指摘する通り、間接取得者の事実判断は主観的で真実に基づいていない場合がある。私は客観性に欠けた根拠を元にした事実判断は根深い問題であると捉える。そのような事実判断は社会に無用な混乱や対立を生み出している。間接取得者が正確な事実判断を行うためにはどうすればいいのだろうか。それを考えつためには間接取得者が客観性に乏しい根拠に頼る理由を解き明かさなくてはならない。 

 まずは現状の状況を見ていこう。そもそも、私たちが事実判断する分野は多岐に渡る。ケーキがプラスチックであるか否かという多くの人に重要ではないものもあれば、政治家の政策ないし主張や政府の政策といった国民にとって必要不可欠な分野もある。そこまで知識が必要ない分野や、事実判断を誤っても人生ないし社会の危機にならない分野であれば事実判断の正確さは問題にはならない(多少の人間関係などでの不具合が起きても)。

 だが、問題が顕在化するのは高度な知識・議論・観測が必要となる分野である。現状、政治や経済といった分野は年々高度化している。経済政策を例に取れば、国内経済は年々グローバル化が進み、国際社会の出来事が自国経済に複雑に影響を及ぼしている。従って、近年の経済政策には高度な知識、観測、議論、検討が必要であり、同時に、その経済政策を評価するには同等かそれ以上の専門性が必要なことは容易に想像できる。しかし、少なくても日本では2010年(平成22年度)の総務省統計局の「国勢調査からわかったこと」ことによれば、日本の45.3%は高卒である4。ただ、文部科学省の2023年度の学校基本調査によれば57.7%が大学進学を選択しているため、現状の大卒割合はもっと高いし、より高くなっていくだろう5。依然として、国民の大半は事実判断に不利を抱えているのだ。加えて、大学に進学している50%以上が高度な知識を身につけているとは言いがたいのではないだろうか。なぜなら、日本には大学が2023年の時点で私立・国公立を含めて810個存在しているが6、2023年度のデータによると320校が定員割れを起こしている7。いわゆるフリーボーダ大学が増えている中、学生の学力が維持されているかということには疑いが残る。

 声を大にして主張したいことは、高卒であることや知識がないということは直接的な問題にならないし、人の優劣を決定づけるものではない。そもそも、客観性が欠けた事実判断は大卒であろうが学者にも起こる問題である。現実的に考えて、全ての分野で優秀な学者レベルに知識をつけることは不可能だ。大事なのはどのような環境にいても学び続けるということである。しかし、悲しいが多くの現代人は家庭や仕事に人生の時間の大半を割かなければいけないため、足りない知識を養う機会は乏しい。

 ここに、間接取得者が「常識」、「信用」、「権威」、「経験」という4つの客観性に欠けた根拠に頼る理由があるように思える。私たちの人生には、受験、家ないし商品の購入などから、民主主義国家であり議院内閣制の日本での選挙までの全ての分野で本人の事実判断に基づく決断が必要である。それらの決断を万全にしたいが、上記でも述べたように限界が存在している。その限界を間接取得者は無意識的にしろ、意識的にしろ把握している。だからこそ、「常識」、「信用」、「権威」、「経験」といった客観性に欠けた根拠を活用し、正確に近しいであろう一種の事実確認システムを構築しているのだ。このシステムがあることにより、人々は知識が不足していても「常識」、「信用」、「権威」、「経験」と主張を照らし合わせ、客観的な根拠がなくても事実判断をすることが可能になる。

 上記をまとめると、大学進学率や大学での教育レベルを背景にして、多くの人々は知識もなければ、知識を習得する時間もなく、客観性に欠けた根拠を事実確認するシステムとして構築している。では、どうすれば客観性に欠けた根拠に頼る事実判断をなくすことができるのだろうか。

 私は人々が客観性に欠けた根拠に頼ることを根本的に変えることは現時点では不可能であると考える。ここにおける根本的解決は、人々の特定の分野に対する知識(リテラシーと言い換えてもいい)を向上させ、全ての人間が特定の分野における客観的な事実判断を可能にさせることであろう。実現するためには、教育機会の提供が重要となる。しかしだが、現状を見れば分かるように、特定のリテラシーを向上させるという根本的解決には日本の教育・社会機構の長期的な変革が必要である。その変革が本当に効果があるのかどうかは懐疑的な部分もある。例えば、人々が仕事をしなくていいように、仕事の大半をAIないし機械を導入し、自動化したとしよう。そして、政府から最低限度の生活に必要な額が定期的に支給される社会に変革したとする。その世界での人間はどうなるのであろうか。確かに、知識を得るための時間が増えたのかもしれない。だが、仕事がなくなるということは人間の幸福を減らす可能性があるかもしれない。教育・社会システムの変革についての検証ないし議論も不十分な今、安易に飛びつくのは愚策である。

 私は、「自己批判精神」こそがこの問題を改善すると思っている。自己批判精神とは、常に自身を俯瞰して評価するということである。人間は常に客観性に欠ける根拠を理由にある主張を事実か否かを判断するということを自覚し、常に自分自身を疑い続け、全ての事実判断の際に自身に問いかける作業が必要なのである。

 もちろん、これは根本的解決ではない。だが、自己批判精神が事実判断の先にある選択をより良くすることができる。選挙を例に取ろう、選挙は民主主義国家に加えて議院内閣制の日本で政治を形作る核となる行為である。そのため、国民の代理人である政治家の主張を、客観性に欠けた根拠によって判断していないかと常に問いかける自己批判精神を持つことが必須だ。自身が客観性に欠いた根拠を活用していないかを常に俯瞰して問いかける。その作業が政治家の主張を正確に事実判断をする、少なくても正確に近づける役目を果たす。だからこそ、自己批判精神が根本的解決にならないと分かった上でも必要なのだ。たとえ、根本的解決につながらなくても問題の改善には近づいている。また、事実判断以外でも自己批判精神を活用し、自身の理性の限界や傲慢な精神を見直すということは人生をより幸福にするものだ。

 以上より、自己批判精神は間接取得者が特定の主張が事実か否かを判断する際に持つべきものである。

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