狐印
嗣治さんはとある寺の一人息子だ。
友人を招く際は寺の敷地でよく遊んでいたそうだ。
それは小学4年生の秋。
淳さんという友人が家にやってきた。
この淳という子供は、数年ほど前は乱暴者で有名だった。
しかし、この頃には妙に大人しくなっていたそうだ。
控えめな性格の嗣治さんと相性がよく、この日は家に招いた次第だった。
「俺、寺の中は怖いから入りたくないな」
「じゃあ家との間に中庭があるから、そこで遊ぼうよ」
居住区と寺を繋ぐ中庭。
そこには様々な植物が生えていて、小さな池と庭石がいくつかある。
広くはないが、子供が遊ぶには充分すぎるほどだった。
「うん。ここならいいや。2人で秘密の話をしよう」
淳さんはそう言うと、目ほどの高さがある石にするりと登った。
嗣治さんもそれに続こうとした。その瞬間。
「嗣治、はやくおいで……うあぁっ」
何事かと淳さんを見ると、一点を凝視し、その場で固まっていた。
視線の先には書斎があった。
縁側のガラス戸が開けてあり、父親が経典を見ながら指で印を結んでいるのが嗣治さんの位置からも見えた。
「がふっ……がっ……」
獣のような声が漏れ聞こえる。
淳さんの肩がぶるぶると荒く震えていた。
「淳、どうしたの」
「がっ……ハッ……」
むせるような咳をひとつして、地面に落ちた。
口から泡を出し、がくがくと痙攣する体。
青白い顔。歪んだ口に、きつく吊り上がった目。
嗣治さんは悲鳴をあげた。
「どうした!」
父親が気づき、駆け寄る。
「キャハハハハ! ダメダッタ!」
淳さんは立ち上がり、その場で大笑いをし始めたのだ。
呆気に取られていると、彼は走り始めた。
ぶつかることも気にせずに、滅茶苦茶に走り回る。
絶えず笑い声をあげながらだ。
「やめなさい!」
父親が腕を伸ばす。
淳さんはにたりと笑い、腕を避けた。
そして、大きい石に突進した。
飛び散る血。止まぬ笑い声。
その様子はまさに地獄絵図だった。
淳さんは搬送され、夜には彼の家族が寺が原因で狐憑きになったと怒鳴り込んできた。
普段は袈裟に隠して印を結ぶものだから、見て障りがあったのかもしれない。
そのように父親は謝罪していたが、のちにこう教えてくれたという。
「印を見ただけで狐憑きになんかならん。ありゃ、もともと憑いてたのが出てきただけじゃ」
10年以上も前の事だと言うが、これ以降、淳さんは入院したままだという。
地元では「印で狐憑きになる」という噂がまことしやかに囁かれている。
父親は、否定しないままにしているそうだ。
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