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誰か私を

CD収録に使われる某スタジオでのこと。
このスタジオはM駅のほど近くにあり、料金も安いこともあって様々なアーティストが使っていた。
しかし、ここには守らねば損をする約束事があった。

「入るなよ!入るなよ!」と録音機材の前で唱えてから、収録する。

これだけだった。
貼り紙もなく、口伝だけの約束事。
もちろん、これを知らずにやらない人間や知っていてもやらない人間も存在する。
そういった人間は、音源の編集をする時に必ず後悔する運命にあった。
歌声の裏に「ねぇ……ねぇ……ねぇ……」という女の囁きが断続的に入るのだ。

豊田さんが女性歌手のCD収録をした時のことだ。
普段なら「入るなよ!」と唱えてから作業していたはずだが、この日に限っては忘れていた。
迷信深い彼は収録後に気付き、それから数日経っているにも関わらず、音源を確認できずにいた。
このままでは仕事に支障が出てしまう。
そこで、友人3名に確認してもらうことにした。

「悪いんだけど、これ聴いて。変な声入ってるかだけ教えてくれない?」
いち早く連絡をくれたのは友人Aだった。
「ねぇねぇって小さくずっと聞こえてるけど、これなに?」
これを見て、豊田さんはすぐにスタジオの再予約をした。
歌声だけを切り出した音源だ。
これ以上切り出せない状態なのに、声が入っている。
使えないことは明らかだった。

続いて友人Bからも連絡が入る。
「入った入ったっていう台詞が歌の合間に聞こえるけど、これが変な声なのかな」
豊田さんは、慌ててパソコンに向かい、音源データを消去した。

更に友人Cからも連絡が来た。
「変な声? 入ってないよ。でも豊田さんが台詞入れるの珍しいね。ビックリした。曲の終わりに『外さないで』なんて心臓に悪いって」
このメッセージを読んでいる最中に、パソコン画面ではひとりでにフォルダが開いた。
そこには削除したはずのデータが復活していた。
アプリが開き、データが再生される。
歌声に重なる声がはっきりと耳に届いた。

入りたい。入りたい。入りたい。

「ごめんなさい! ごめんなさい! 入らないでください!!」
恐怖の涙に視界を滲ませ、飛び起きる。
いつの間にか寝ていたらしい。
パソコン画面を見ると、フォルダは開いていたがデータは見当たらない。
しんと静まる室内。
朝日を含んだ空気が満ちていた。
豊田さんは「入りたい」という言葉の意味を考える。
まだ幼さの残る女の子の声。
夢があったのかもしれない。
そうだとしたら。
音楽に関わるものとして、切実な気持ちを察することができる。
豊田さんは、鼻を突くような切なさに空を仰いだ。

「入るなよ! 入るなよ!」
今でもそのスタジオでは、そうやって唱えられている。

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