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ローマ劫掠

Sacco di Roma

クレメンス7世は、初めのうちはレオ10世と同様にカール5世と同盟を結んでいました。しかし、野心家のフランス王フランソワ1世が再びイタリアに進出し、1525年2月のパヴィアの戦いで、フランス軍が皇帝のスペイン軍に撃破されてフランソワ1世が捕虜となると、カール5世の勢力がイタリア全土に及ぶことに危機感を覚えたクレメンス7世は、解放されたフランソワ1世とフィレンツェ、ミラノのスフォルツァ家、ヴェネツィアとともに反皇帝のコニャック同盟(1526年5月)を結びました。

それに対し、皇帝側はゲオルク・フォン・フルンツベルク将軍率いる「ランツクネヒト」軍団をローマに向けて進軍させました。この軍団の兵の大部分はローマへの復讐心に燃えるルター派の信者で占められていました。(マルティン・ルターはレオ10世によって破門されていたため、信者はローマに復讐心を抱いていました。)

この軍団は途中スペイン軍と合流しますが、この時、マントヴァ近郊で皇帝軍がポー河を渡るのを阻止しようとして奮戦した教皇軍の司令官「黒隊長」ジョヴァンニ(1498-1526年)は、銃弾を受けて戦死しました。

画像5Ritratto di Giovanni delle Bande Nere, Gian Paolo Pace, 1545, Olio su tela, Galleria degli Uffizi, Firenze

話はそれますが、この「黒隊長」ジョヴァンニは、メディチ家弟脈のジョヴァンニ・デ・メディチ・イル・ポポラーノの息子です。幼い時に父母をなくしたため、親類の教皇レオ10世のもとで軍人になるための訓練を受け、教皇軍の傭兵隊長となりました。

画像6Giovanni dalle Bande Nere, Temistocle Guerrazzi, Galleria degli Uffizi, Firenze

レオ10世のウルビーノ攻略戦でも勇猛果敢に立ち向かい、後年「ルネサンス最後の傭兵隊長」と賞讃されました。「黒隊長(Bande Nere, バンデ・ネーレ)」の通称はレオ10世の死後、哀悼の意を表して黒い軍旗を用いたことに由来します。彼の部隊は、全員が黒い絹のリボンを付け、槍にも黒の槍旗を付けました。18歳でロレンツォ・イル・マニーフィコの孫娘マリア・サルヴィアーティと結婚し、将来のメディチ家当主でトスカーナ大公となるコジモ1世をもうけました。

1527年5月、途中で死亡したフルンツベルク将軍に代わって指揮をとるブルボン公シャルル3世に率いられた2万を超える軍勢がローマに迫りました。この時、皇帝軍は長い行軍に疲れ、軍資金も底をつく状態でした。

しかし5月6日、緒戦でシャルル3世が戦死すると、長い行軍で軍資金も底をついていた皇帝軍は、統制を失って暴徒の一団と化し、同日、ローマ市内になだれ込んで破壊と掠奪の限りをつくしました。これが、世に有名な「ローマ劫掠」(Sacco di Roma, サッコ・ディ・ローマ)です。

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教会、修道院、家屋敷は破壊され、財宝は徹底的に掠奪されました。多数の修道士や修道女、市民、病人が見さかいなく拷問を受けて虐殺されました。この日だけで死者の数は8000人にのぼり、その後に町を襲った疫病や逃亡によってローマの人口は3分の2に減少したといわれます。

クレメンス7世はサンタンジェロ城に逃げ込み、辛うじて難を逃れました。救出軍の到着を待ちわび、毎日北の方向を眺めて暮らしましたが、軍隊はついに現れませんでした。

結局、7カ月間そこに幽閉されたあと、莫大な賠償金(40万ドゥカート)を支払わされ、パルマ、ピアチェンツァ、モデナなどの教皇領の都市と重要な要塞の放棄を条件にようやく解放されました。クレメンス7世は、その後オルヴィエートからヴィテルボに避難し、ローマに帰還したのは翌年10月のことでした。

5世紀の西ゴート王アラリックによるローマ占拠以来のこの「ローマ劫掠」は、諸々の偶発事が重なって暴発した災難だったとはいえ、当時の人々には、腐敗堕落したローマに下された神の恐るべき懲罰として激しい衝撃を与えました。

「これは一都市の破壊というより、一文明の破壊です」とエラスムスは述べましたが、この悪夢のような災禍によって、レオ時代の文化的栄華の記憶は急速に過去のものとなりました。


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ローマ/Roma

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