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サン・ジョヴァンニ洗礼堂

Battistero di San Giovanni

フィレンツェの歴史をひもとく時、そこにはいつもサン・ジョヴァンニ(洗礼者ヨハネ)の聖堂があります。

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フィレンツェを追放されたダンテは、流浪の日々にあっても、「わが麗しきサン・ジョヴァンニ」を心に描きつつ、「洗礼の日、深い聖盤の中にはまって溺れかけた子供を、私自身がそれを壊して救った」( 『神曲』地獄篇、第19歌)と語っています。

画像4La Divina Commedia illumina Firenze, Domenico di Michelino, XV secolo, Affresco, Cattedrale di Santa Maria del Fiore, Firenze


八角形の平面プランをもつサン・ジョヴァンニ洗礼堂は、この町の起源からずっと長い歴史を歩んできました。

紀元前1世紀、ローマ人たちはフィエーゾレの丘の上にあったエトルリア人の町を攻撃して勝利すると、アルノ川岸の平坦な地に新しい植民都市(カストゥルム)の建設を始め、今のサン・ジョヴァンニ洗礼堂のところに軍神マルスに捧げる神殿を建立しました。

キリスト教の聖堂としての建設は5世紀の頃とされており、現在みるような美しいロマネスク様式の建築は、教皇二コラウス2世によって1059年に奉献されたものです。

しかし、この時にはすでに都市の住人の数は急激な増加をみせており、サン・ジョヴァンニ聖堂では手狭になったため、現在の大聖堂のところにサンタ・レパラータ聖堂 Chiesa di Santa Reparata の建設が始まりました。

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画像15Chiesa di Santa Reparata, Firenze

それが完成した1138年、サン・ジョヴァンニは大聖堂の座を譲り、以後は洗礼堂としての役割を担うことになりました。

Florence_baptistery_ceiling_mosaic_7247pxのコピー3Mosaici


堂内の天井は、ビザンチン様式のモザイク画で覆われ、まばゆい金色に輝いています。おそらくは13世紀のヴェネツィアからのモザイク職人が参加しているでしょうが、14世紀初頭のフィレンツェの美術家たち、たとえばコッポ・ディ・マルコヴァルド Coppo di Marcovaldo、チマブーエ Cimabue、ガッド・ガッディ Gaddo Gaddi などによって完成されたものです。

主題となっているのは、「天地創造」、「洗礼者ヨハネ伝」、「マリアとヨセフの物語」、「キリスト伝」、「最後の審判」などです。

画像8Giudizio universale


さて、明快な比例の原理に基づいたロマネスク様式の建築とビザンチン美術の影響を受けた力強い幾何学装飾によって、つねに最高の芸術と評価されたサン・ジョヴァンニ洗礼堂は、15世紀のルネサンス芸術の誕生に際しても洗礼堂の役割を果たします。


〔3つの聖堂扉と1401年のコンクール〕

現在の洗礼堂には、南側と北側そして大聖堂に面した東側の3つの青銅扉がみられます。

画像9Porta sud, Andrea Pisano, 1329-1336, Bronzo con dorature, 577×428 cm, Battistero di San Giovanni, Firenze

南側扉は、アンドレア・ピサーノの手によって原型がつくられ(1318-30)、1338年に設置されたものです。(この時には他の扉がまだ制作されていませんでしたので、大聖堂の正面と向かいあういちばん大切な東側に取り付けられました。)

扉全体は28枚のパネルで構成されていて、そこには「洗礼者ヨハネの生涯」とキリスト教における象徴的な「徳」の姿がゴシック様式特有の四つ葉型の枠の中に浮き彫りにされています。


1401年、当時のフィレンツェは最有力の同業者組合であった毛織物業者(カリマーラ)組合が主催して、北側扉の制作者を決定するコンクールを開催しました。

美術史上初めてともいえるこのコンクールには、名だたる彫刻家たちが参加してその腕を競いました。芸術への高い関心と青年芸術家たちの技量を正当に評価しようとする自由で民主的な空気が、当時のフィレンツェには流れており、このコンクールによって、ルネサンスの幕が開かれることになります。

画像11Sacrificio di Isacco, Filippo Brunelleschi, 1401, Bronzo dorato, 45×38 cm, Museo del Bargello, Firenze

画像12Sacrificio di Isacco, Lorenzo Ghiberti, 1401-1402, Bronzo dorato, 45×38 cm, Museo del Bargello, Firenze


最終審査に残ったブルネッレスキとギベルティの2人の作品に対して、委員会は優劣を決めがたく共同制作の申し出をしましたが、ブルネッレスキはそれを嫌い、自ら進んで優勝をギベルティに譲ったと伝えられています。

画像10Porta nord, Lorenzo Ghiberti, 1401-1424, Bronzo dorato, 506×387 cm, Battistero di San Giovanni, Firenze

優勝したギベルティは1403年には青銅扉の制作に着手し、1424年に完成しました。扉の形式と28枚のパネルからなる構成はアンドレア・ピサーノのものとまったく同じですが、主題はすべて新約聖書中からとられています。

コンクールの後、敗者となったブルネッレスキは後輩の若き彫刻家ドナテッロとともにローマへ赴き、そこで古代芸術の研究に取り組みました。そして、彫刻よりは古代建築における明快で力強い比例の美しきに注目し、やがて建築家としてギベルティに対する雪辱を果たすことになります。


1424年に北側扉が完成すると、ひきつづき残る1枚の扉制作を同じ毛織物業者(カリマーラ)業組合から委嘱されますが、ギベルティは後半生をかけたその仕事を息子のトンマーゾやヴィットーリオの手を借りて1452年に完成しました。

画像13Porta del Paradiso, Lorenzo Ghiberti, 1425-1452, Bronzo dorato, 599×462 cm, Battistero di San Giovanni, Firenze

前作の時とは違い、形式も構成もギベルティの自由に任されていたことが、現存する請負契約書から知ることができます。彼はここで四つ葉型の枠を捨てて、1枚の画面の大きさも実質的に4倍に拡大します。

主題を旧約聖書から選択した合計10画面のそれぞれは、透視図法によって空間を処理した絵画的世界として表現されているほか、周縁は豊かな工芸的装飾で包まれ、さらに全体には燦然と輝く鍍金仕上げが施されています。

完成当時も絶賛を博したこの第三の扉は、ピサーノの第一扉を南側へ移して、大聖堂の正面に向かいあった東側に設置されました。


なお、それからしばらくしてからのことですが、この東側扉をミケランジェロが「天国の扉(門)」と呼んでから、今もそのように呼ばれています。(もちろん、近代彫刻の傑作ロダンの『地獄の門 』はこれを意識して制作されたものです。)

画像14Porta dell'inferno, Auguste Rodin, 1880-1917, Bronzo, 635x400x100 cm, Musée Rodin, Parigi, Francia


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サン・ジョヴァンニ洗礼堂/Battistero di San Giovanni

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