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サン・ロレンツォ聖堂

Basilica di San Lorenzo

ドゥオーモ(大聖堂)広場から北へ伸びるマルテッリ通り(Via dei Martelli)を200メートルほど歩くと、左手に石積みのルネサンス様式の宮殿(メディチ・リッカルディ宮殿)があります。

そして、その角をすぐに左に曲がり、少し歩くと、レンガを積んだだけの未完成の教会ファサードが見えるはずです。それがメディチ家の菩提寺、サン・口レンツォ聖堂です。

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この教会の由来は、聖アンブロジウスによって祝聖された393年に遡ります。ここは今でこそ町の中心地区に位置しますが、当時は、町の城壁の外側にありました。

とはいえ、現在の教会はフィレンツェにおけるルネサンス様式を代表する建築のひとつです。

大聖堂のクーポラ建設を手がけることになったブルネッレスキが、11世紀にロマネスク様式で改築されていた教会をメディチ家の依頼で増改築することになったのが1419年のことです。

画像42Brunelleschi e Ghiberti presentano a Cosimo il modello per la chiesa di San Lorenzo, Goiorgio Vasari, Sala di Cosimo il Vecchio, Palazzo Vecchio

そして、1516年には、メディチ家出身のローマ教皇レオ10世はミケランジェロにファサードの設計を委ねます。

スクリーンショット 2021-05-05 12.19.51Il modello ligneo del progetto per la facciata, Casa Buonarroti

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しかし、このプロジェクトは未完におわり、今にいたるまで正面は粗いレンガ積みの姿のままです。

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それでも、ファサードの内側はミケランジェロのデッサンに従って完成しています。

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堂内に入ってまず第一に気づくことは、天井が床の面と平行であるということでしょう。

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ロマネスク様式にしてもゴシック様式にしても、天井はいつもヴォールトで支えられていましたが、ここでは水平な格天井がまっすぐに主祭壇の方へ伸びています。

そして、古代的な要素が明確に復活し、コリント式円柱による2本の列柱と、その間を結ぶ半円状のアーチが美しく連続しています。

画像7Ordine: Dorico, Ionico, Corinzio

柱やアーチなどの骨格部分には青灰色の砂岩(ピエトラ・セレーナ)を用い、その他の部分は白い漆喰壁で埋められて、落ち着いた力強い構築性が感じられます。

もちろん、ロマネスク教会におけるフレスコ壁画とか、ゴシック教会におけるステンドグラスなどといった装飾は見られません。


さて、堂内の彫刻や絵画に目を移すと、まず右側廊に隣接した礼拝堂の祭壇には、マニエリスム期を代表する画家口ッソ・フィオレンティーノ作 《マリアの結婚》(1523年)があります。

画像9Sposalizio della Vergine, Rosso Fiorentino, 1523, Olio su tavola, 325×250 cm

そして、主祭壇手前の両側廊には、一対の箱型をした青銅製の説教壇がありますが、これはドナテッロの最晩年の作品(1460年以降)です。

画像9Pulpito della Resurrezione, Donatello, dopo il 1460, Bronzo,123×292 cm (escluse le colonne)

主題は、「聖ロレンツォの殉教」「キリストの復活」などの場面ですが、ドナテッロのスキアッチャート(押しつぶした)と呼ばれる極端な浅浮き彫りの技法にみられる鋭い線描表現と奥行き表現は、ぜひとも注目したいものです。

なお、これは4本のイオニア式円柱で支えられた2基の説教壇に組み上げられてはいるものの、その組み上げ自体にも無理なところがあり、本来は主祭壇の正面装飾として制作された可能性があります。

クーポラの下、主祭壇に上る小階段手前の床面には、四隅にメディチ家の紋章(楯に6つの赤い玉)を配した色大理石による幾何学装飾があり、〈COSMUS MEDICES HIC SITUS EST DECRETO PUBLICO PATER PATRIALE(祖国の父コジモ・メディチここに眠る)〉と記した銘板が嵌め込まれています。

「祖国の父」と呼ばれたコジモ・メディチの墓誌銘であり、この下で彼は永遠の眠りについているのです。

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画像11Tomba di Cosimo il Vecchio, Andrea del Verrocchio

そこから翼廊を左に折れたところにあるマルテッリ家礼拝堂(Cappella Martelli)には、コジモ・メディチから愛された僧画家のフィリッポ・リッピが1440年頃に描いた《受胎告知》の祭壇画が置かれています。

画像12Annunciazione Martelli, Filippo Lippi, 1440 circa, Tempera su tavola, 175×183 cm

この絵では、大胆にも2つのアーチを支える柱が画面前景の中央に描かれていることが、かえって現実空間との自然な連続性を感じさせています。そして、計算され、統一された背景の奥行き表現には、ブルネッレスキの強い影響があることは確かです。


左右の翼廊の奥に、2つの聖器室がありますが、ブルネッレスキ自身の手によって建設された左手の方を旧聖具室(Sacrestia Vecchia 1419-1428)と呼んでいます。

ここは実際には教会建設に先立って完成されたので、ブルネッレスキによる最初のルネサンス建築の空間であったわけです。

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旧聖具室のプランは明快で、立方体の上をその一辺と同じ長きの直径をもった半球形のクーポラで覆い、四隅を三角形のペンデンティブで連結した構造をしています。

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建築装飾は最小限にとどめられていますが、ブルネッレスキの彫刻家としての後輩で親友でもあったドナテッロが参加しています。

クーポラの下のペンデンティブに内接しているもののほか合計8面のトンド(円形画)と、2面の青銅扉、それにその上にあるルネッタ(半円形レリーフ)がそれです。

トンドは四福音書記者と福音書記者ヨハネ伝を主題として、彩色したストゥッコ(漆喰細工)とテラコッタで制作されています。

画像15Ascensione di San Giovanni Evangelista, Donatello, 1428-1443, Stucco policromo, diametro 215 cm

画像16Tondo di San Giovanni Evangelista, Donatello, 1428-1443, Stucco, diametro di 215 cm

扉の浮き彫りは、使徒や聖人たちが2人ずつペアになって、まさに神学論争をしている場面がいきいきと描き出されています。

画像18Porta dei Martiri, Donatello, 1434-1442, Bronzo, 235×109 cm

また、左右のルネッタには、メディチ家の守護聖人である聖コズマとダミアーノ、聖口レンツォとステファノの姿が彩色した漆喰レリーフで制作されています。

画像18Santi Stefano e Lorenzo, Donatello, 1428-1443, Stucco, diametro di 215 cm


この聖具室に入る小さな入口の左手には、メディチ家のコジモの息子ピエロとジョヴァンニの廟墓モニュメントが見られます。

画像20Tomba di Giovanni e Piero de' Medici, Andrea del Verrocchio, 1469-1472, Marmo, bronzo, porfido e pietra serena, 358×601 cm

当時の工芸技術の粋を駆使して完成されたこの作品は、アンドレア・デル・ヴェッロッキオの工房で制作されたものですが、そこには若きレオナルド・ダ・ヴィンチも参加していました。


もう一つは新聖具室(Sacrestia Nuova)と呼ばれてはいるものの、ブルネッレスキの設計した旧聖具室とは教会の後陣をはさんで反対側にあるメディチ家廟のひとつです。

「君主の礼拝堂」とともに現在では博物館となっていますので、見学するには、カント・デ・ネッリ通り(Canto de' Nelli)にある入口から入りなおさなければなりません。

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1520年、ミケランジェロはメディチ家出身の教皇レオ10世の依頼を受けて、ここを設計しますが、彫刻と建築を見事に調和させることに成功しています。

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当初の計画はずっと縮小されて、ミケランジェロが完成しえたのはロレンツォ豪華王の第三子ネムール公ジュリアーノと孫にあたるウルビーノ公口レンツォの墓だけでした。

画像22Tomba di Giuliano de' Medici duca di Nemours, Michelangelo Buonarroti, 1524-1534, Marmo, 650×470 cm

画像23Tomba di Lorenzo de' Medici duca di Urbino, Michelangelo Buonarroti, 1524-1534, Marmo, 650×470 cm

ロレンッォ豪華王とその弟で暗殺されたジュリアーノの遺体は、ずっと後に室内にある未完成の聖母子像の下に埋葬されました。

画像24Tomba di Lorenzo il Magnifico e Giuliano de' Medici

夭逝した2人の若者にミケランジェロは、一日の時間が早くめぐって人生を短くしてしまったという内容のソネット(詩)を書いて、《曙 Crepuscolo》《昼 Giorno》《夕暮 Aurora》《夜 Notte》の4体の擬人像を彫りました。

画像25Crepuscolo, Michelangelo Buonarroti, 1524-1531, Marmo, 155×170 cm

画像26Giorno, Michelangelo Buonarroti, 1526-1531, Marmo, 160×150 cm

画像27Aurora, Michelangelo Buonarroti, 1524-1527, Marmo, 155×180 cm

画像28Notte, Michelangelo Buonarroti, 1526-1531, Marmo, 155×150 cm

ジュリアーノの肖像の下には《昼》と《夜》が、口レンツォの下には《曙》と《夕暮》が配置されています。

ただ、ミケランジェロは実際の2人に似せて肖像を彫ろうとはしませんでした。当時の人々がそのことを指摘すると、「10世紀も後になれば、そんなことを誰も問題にしなくなるだろう」と言ったそうです。

画像29Ritratto di Giuliano de' Medici duca di Nemours, Michelangelo Buonarroti, 1526-1534 circa, Marmo, 168×80 cm

画像30Ritratto di Lorenzo de' Medici duca di Urbino, Michelangelo Buonarroti, 1531-1534 circa, Marmo, 175×80 cm

少年ミケランジェ口の天才を認めて、寛大な保護を与えてくれた頃の共和国の父たるメディチ家はすでになく、神聖ローマ帝国の皇帝カール5世と手を結んだ独裁者のメディチ家に対する芸術家の必死の抵抗がそこにありました。

ミケランジェロ自身は、ロレンッォの像に 《思索する人》、ジュリアーノの像に《行動する人》という名を与えて、個人の廟墓に終始することのない、もっと普遍的な主題として制作にあたっていたようです。


明快な建築空間はもとより、それぞれに向かいあった《思索》《行動》、《昼》(男性像)と《夜》(女性像)、《曙》(女性像)と《夕暮》(男性像)の彫刻群には、ミケランジェロの造形原理であるコントラポスト(対位法)が見事に貫かれ、ダイナミックなリズムと緊張が構造的に調和しています。


メディチ家の廟墓は、時代とともに拡大されてゆきました。ブルネッレスキによる15世紀の旧聖具室、ミケランジェロによる16世紀の新聖具室、さらに17世紀にはトスカーナ大公となったフェルディナンド1世の時代に「君主の礼拝堂(Cappella dei Principi)」が着工されました。

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コジモ1世の庶子であるドン・ジョヴァンニ・デ・メディチの設計に従って、1604年に建築家ベルナルド・ブオンタレンティが建設を開始しますが、ほぼ現在のような形になるまでには1世紀以上の歳月を要しました。

美術史の時代区分からいえばバロック様式にあたるわけですが、ルネサンス芸術を生んだフィレンツェではバロック様式は充分に発展することができず、激しいダイナミズムを感じることはできません。

ただ、世界中から集められた色とりどりの美しい大理石や貴石モザイクによって、壁面は重厚かつ華麗に仕上げられ、周囲にはコジモ1世以後のメディチ家出身のトスカーナ大公たちの墓が設置されています。周囲にはコジモ1世以後のメディチ家出身のトスカーナ大公たちの墓が設置されています。

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博物館となっているメディチ家礼拝堂を出て右へ、通りをもう一度戻って教会のファサードへ行きます。左手に小さな入口があり、そこを入ると回廊に囲まれた教会の中庭に出ます。

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そこからさらに階段を昇ると、ミケランジェロの設計したラウレンツィアーナ図書館(Biblioteca Medicea Laurenziana)の玄関間へ出ることができます。

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このメディチ家の図書館はもともと老コジモ(il Vecchio)が設立、その息子ピエロと孫のロレンツオ豪華王の時代に蔵書を増やして諸国に誇れるものとなったわけですが、その後のメディチ家の追放にともなってサン・マルコ修道院のドメニコ会の管理下に置かれるなどの紆余曲折を経ることになります。

そして、1523年にメディチ家出身のローマ教皇クレメンス7世がミケランジェロに図書館の全体設計を委託しました。しかし、翌年にクレメンス7世が没すると、ミケランジェロはローマへ移ったため、実際の建設はミケランジェロの設計図や模型に基づいてヴァザーリやアンマナーティなどの芸術家が担当しました。

その主要部分は玄関間と閲覧室ですが、ここはマニエリスム建築とバロック建築の出発点になったといわれるほど、空間に対する新しい解釈が感じられるところです。

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ゆるやかに流れ落ちる滝の水からインスピレーションを受けたという玄関間の階段と、閲覧室の書見机の装飾には特に注目したいものです。

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また、蔵書の一部である貴重な古写本がずらりと展示されています。

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サン・ロレンツォ聖堂/Basilica di San Lorenzo

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