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#メディチ家

メディチ家

Medici メディチ家の起源は謎に包まれています。 一般に、メディチ一族はフィレンツェ近郊のムジェッロの出身で、1046年頃に生まれたポトローネの医者(Medico di Potrone)から始ったといわれています。 メディチの出自の謎は、紋章の謎ともからんでいて、盾に数個の赤い球を配した個性的なメディチ家の紋章の由来については、2つの説があります。 ひとつは、「メディチ(Medici)」の家名が示すように、彼らの祖先は医師([単]medico/[複]medici)

アレッサンドロ・イル・モーロ

Alessandro 'il Moro' de' Medici 1530年8月に「フィレンツェ包囲戦」が皇帝・教皇軍の勝利で終わると、クレメンス7世はメディチ家のフィレンツェへの帰還を慎重に行いました。 まず側近の枢機卿を送り込み、国家体制を1527年以前の状態に戻したうえで、翌1531年、20歳になっていたアレッサンドロ(Alessandro de' Medici, 1511-1537年)を再び統治者としてフィレンツェに復帰させました。 Ritratto di Ale

フィレンツェ共和国の終焉

Fine della Repubblica di Firenze ウルビーノ公ロレンツォの死後、フィレンツェの統治はフィレンツェ大司教だったジューリオ枢機卿が行っていました。 しかし、ジューリオがクレメンス7世として教皇に選出されると、あとを託されたのはヌムール公ジュリアーノの庶子イッポーリト(1511-1535年)と、教皇自身の庶子で表向きはウルビーノ公の庶子ということになっていたアレッサンドロ(1510-1537年)の2人でした。 Ritratto di Ippol

ジューリオ・デ・メディチ 'クレメンス7世'

Giulio de' Medici 'Papa Clemente VII' ジューリオ・デ・メディチ(Giulio di Giuliano de' Medici, 1478-1534)は、ロレンツォ・イル・マニーフィコの弟ジュリアーノの庶子(母はフィオレッタ・ゴリーニ)として1478年に生まれました。 Ritratto di Clemente VII con la barba, Sebastiano del Piombo, 1528 circa, Olio su lava

ジョヴァンニ・デ・メディチ

Giovanni de' Medici Ritratto di Leone X con i cardinali, Raffaello Sanzio, 1518, Olio su tavola, 155,2×118,9 cm, Galleria degli Uffizi (Sala 66), Firenze 父ロレンツォ・イル・マニーフィコの才能を継いて子供の頃から英才ぶりを注目された次男ジョヴァンニ(Giovanni di Lorenzo de' Medici, 1475

ウルビーノ公ロレンツォ

Lorenzo de' Medici duca di Urbino ジュリアーノの跡を継いでフィレンツェの統治者となったロレンツォ・イル・マニーフィコの孫ロレンツォ(Lorenzo di Piero de' Medici, 1492-1519)は、ジュリアーノとはあらゆる面で正反対の性格で権力欲が強く、父のピエロから尊大さと粗暴さを受け継いでいました。 2歳のときにフィレンツェを離れてローマで育ったロレンツォは、ローマでの享楽的生活に愛着をもっていましたが、叔父の教皇レオ

ヌムール公ジュリアーノ

Giuliano de' Medici duca di Nemours Ritratto di Giuliano de' Medici duca di Nemours, Raffaello Sanzio, 1515 circa, Tempera e olio su tela, 83,2x66 cm, Metropolitan Museum of Art, New York, Stati Uniti 1512年9月1日、スペイン軍の脅威の前にソデリーニが亡命すると、同じ日に

ピエロ・イル・ファートゥオ

Piero 'il Fatuo' de' Medici ロレンツォ・イル・マニーフィコが死去すると、20歳の若さで長男のピエロ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチ(Piero di Lorenzo de’ Medici, 1472-1503)がメディチ家の権力を継承しました。 Ritratto di Piero 'il Fatuo' de' Medici, Agnolo Bronzino 父ロレンツォは常日頃、3人の息子のことを「一人は愚かで(ピエロ)、一人は賢く(ジョヴァ

ロレンツォ・イル・マニーフィコ

Lorenzo 'il Magnifico' de' Medici ロレンツォ・ディ・ピエロ・デ・メディチ(Lorenzo di Piero de' Medici, 1449〜1492年)は、「痛風病みの」ピエロの長男で、フィレンツェのルネサンス期におけるメディチ家最盛時の当主です。 Ritratto di Lorenzo il Magnifico, Giorgio Vasari, 1534 circa, Olio su tavola, 90 x 72 cm, Galle

ピエロ・イル・ゴットーゾ

Piero 'il Gottoso' de' Medici ピエロ・ディ・コジモ・デ・メディチ(Piero di Cosimo de' Medici, 1416〜1429年)は、「祖国の父」コジモの長男で、「痛風病み ‘il Gottoso’」というあだ名のとおり若い頃から病弱でした。 Ritratto di Piero il Gottoso, Agnolo Bronzino, Olio su tela, National Gallery, Londra コジモにはピエ

コジモ・イル・ヴェッキオ

Cosimo 'Il Vecchio' de' Medici コジモ・デ・メディチ(Cosimo di Giovanni de' Medici, 1389〜1464年)、通称イル・ヴェッキオ(il Vecchio)は、ジョヴァンニ・ディ・ビッチの長男で、父の生前から銀行業務を任され、優れた経営手腕を発揮していましたが、深い古典的な教養の持ち主でもありました。 Ritratto di Cosimo il Vecchio, Pontormo, 1519-1520 circa,

ジョヴァンニ・デ・メディチ

Giovanni di Bicci de' Medici ジョヴァンニ・デ・メディチ(Giovanni di Bicci de' Medici, 1360〜1429年)、通称ジョヴァンニ・ディ・ビッチは、フィレンツェの歴史に名を刻むメディチ家の当主で、一族の繁栄を築いた人物です。 ジョヴァンニは、親戚がローマで経営していた銀行を引き継ぎましたが、1397年に本店をフィレンツェに移しました。これが事実上の「メディチ銀行」の創設となります。 メディチ銀行は飛躍的な発展を遂げ