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アッカデミア美術館

Galleria dell'Accademia サン・マルコ広場から大聖堂へ向かうリカーソリ通りの角にアッカデミア美術館があり、フィレンツェ美術学院に隣接しています。 現在ここはミケランジェロの 《ダヴィデ像》のあることでよく知られている美術館ですが、《ダヴィデ像》の原寸大のコピーがつくられてシニョーリア広場のオリジナルと入れ替わり、オリジナルがここに運ばれたのは1873年のことです。 美術館そのものは、1784年にトスカーナ大公ピエトロ・レオポルド1世(メディチ家の後

フラ・アンジェリコ

Beato Angelico 1400年頃にフィレンツェ近郊のヴィッキオというところで生まれた彼は、本名をグイード・ディ・ピエトロといいます。 彼は、ドメニコ修道会の画僧として、生涯を通じてキリストにまつわる物語を清らかな美しさで描き続けました。 活動初期の頃は、ロレンツォ・モナコに代表される後期ゴシックの名残をとどめた作品を描いていましたが、次第にマザッチョの造形性や遠近法を用いた空間処理を取り入れ、さらに、ドメニコ・ヴェネツィアーノやピエロ・デッラ・フランチェスカの

サン・マルコ修道院

Convento di San Marco リッカルディ宮殿を出て左、大聖堂を背にして北へ5分ほど歩くと、緑の植え込みのあるサン・マルコ広場に行きあたります。 広場の周囲を見廻して下さい。サン・マルコ聖堂があり、その右側に隣接しているのがサン・マルコ修道院です。 13世紀、ここにはシルヴェストリーニ信徒会の礼拝堂が建てられていましたが、1427年にはローマ教皇エウゲニウス4世の命でドメニコ会士たちが移り住んできました。 そして、1437年にメディチ家のコジモは建築家の

メディチ・リッカルディ宮殿

Palazzo Medici Riccardi ラルガ通り(現在のカヴール通り)とゴーリ通りの角に建っている邸宅が、メディチ家のリッカルディ宮殿です。 あれだけの権勢を誇ったメディチ家にしては地味な印象の邸宅ですが、そこには、アルビッツィ家の陰謀(1433年)を経て、他人から反感や嫉みを買うことがいかに危険なことであるかを思いしらされたコジモらしい配慮がありました。 最初、コジモは邸宅の設計をブルネッレスキに依頼しましたが、彼が作った模型があまりにも豪華だったため、お抱

サン・ロレンツォ聖堂

Basilica di San Lorenzo ドゥオーモ(大聖堂)広場から北へ伸びるマルテッリ通り(Via dei Martelli)を200メートルほど歩くと、左手に石積みのルネサンス様式の宮殿(メディチ・リッカルディ宮殿)があります。 そして、その角をすぐに左に曲がり、少し歩くと、レンガを積んだだけの未完成の教会ファサードが見えるはずです。それがメディチ家の菩提寺、サン・口レンツォ聖堂です。 この教会の由来は、聖アンブロジウスによって祝聖された393年に遡ります。

サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂

Cattedrale di Santa Maria del Fiore フィレンツェが都市として一大発展を遂げると、かつてのサンタ・レパラータ聖堂のあったところに、都市の全住人を収容可能な巨大な大聖堂建設の必要性が生まれ、1296年にアルノルフォ・ディ・カンビオが現在の大聖堂の基本的な姿を設計しました。 工事は1302年の彼の死によって一時中断したものの、1334年にはジョットを総監督として建設が続行されました。この時、ジョットは大聖堂の南側に隣接するように高さ81.75

サン・ジョヴァンニ洗礼堂

Battistero di San Giovanni フィレンツェの歴史をひもとく時、そこにはいつもサン・ジョヴァンニ(洗礼者ヨハネ)の聖堂があります。 フィレンツェを追放されたダンテは、流浪の日々にあっても、「わが麗しきサン・ジョヴァンニ」を心に描きつつ、「洗礼の日、深い聖盤の中にはまって溺れかけた子供を、私自身がそれを壊して救った」( 『神曲』地獄篇、第19歌)と語っています。 La Divina Commedia illumina Firenze, Domenic

フィレンツェ

Firenze フィレンツェ市街の南東にある小高い丘の上に位置するミケランジェロ広場 Piazzale Michelgngelo からは、フィレンツェの素晴らしい景色が一望できます。 なだらかな丘陵に囲まれた盆地の底をアルノ川 L’Arno の流れが一筋、ゆったりと西へ向かって流れています。丘陵はアッペンニン山脈 Gli Appennini の支脈です。アルノ川は河口の町ピサ Pisa(100km西)に達して、ティレニア海 Mar Tirreno に注いでいます。 この

メディチ家

Medici メディチ家の起源は謎に包まれています。 一般に、メディチ一族はフィレンツェ近郊のムジェッロの出身で、1046年頃に生まれたポトローネの医者(Medico di Potrone)から始ったといわれています。 メディチの出自の謎は、紋章の謎ともからんでいて、盾に数個の赤い球を配した個性的なメディチ家の紋章の由来については、2つの説があります。 ひとつは、「メディチ(Medici)」の家名が示すように、彼らの祖先は医師([単]medico/[複]medici)

アレッサンドロ・イル・モーロ

Alessandro 'il Moro' de' Medici 1530年8月に「フィレンツェ包囲戦」が皇帝・教皇軍の勝利で終わると、クレメンス7世はメディチ家のフィレンツェへの帰還を慎重に行いました。 まず側近の枢機卿を送り込み、国家体制を1527年以前の状態に戻したうえで、翌1531年、20歳になっていたアレッサンドロ(Alessandro de' Medici, 1511-1537年)を再び統治者としてフィレンツェに復帰させました。 Ritratto di Ale

教皇クレメンス7世のパトロネージュ

Patrocinio di Papa Clemente VII クレメンス7世の治世時代は、ヨーロッパ全体がかつてない大混乱に見舞われた時代だったため、不運な教皇というべきでしょう。 その一方で、芸術のパトロンとしては、従兄のレオ10世と同じように、メディチ家の一員にふさわしい豊かな人文主義的教養と洗練された芸術的見識をそなえたルネサンス・パトロンでした。 クレメンス7世自身も優れた音楽家としても広く知られ、このため教皇と同じ「Clemente」という名前のある作曲家は

フィレンツェ共和国の終焉

Fine della Repubblica di Firenze ウルビーノ公ロレンツォの死後、フィレンツェの統治はフィレンツェ大司教だったジューリオ枢機卿が行っていました。 しかし、ジューリオがクレメンス7世として教皇に選出されると、あとを託されたのはヌムール公ジュリアーノの庶子イッポーリト(1511-1535年)と、教皇自身の庶子で表向きはウルビーノ公の庶子ということになっていたアレッサンドロ(1510-1537年)の2人でした。 Ritratto di Ippol

ローマ劫掠

Sacco di Roma クレメンス7世は、初めのうちはレオ10世と同様にカール5世と同盟を結んでいました。しかし、野心家のフランス王フランソワ1世が再びイタリアに進出し、1525年2月のパヴィアの戦いで、フランス軍が皇帝のスペイン軍に撃破されてフランソワ1世が捕虜となると、カール5世の勢力がイタリア全土に及ぶことに危機感を覚えたクレメンス7世は、解放されたフランソワ1世とフィレンツェ、ミラノのスフォルツァ家、ヴェネツィアとともに反皇帝のコニャック同盟(1526年5月)を

ジューリオ・デ・メディチ 'クレメンス7世'

Giulio de' Medici 'Papa Clemente VII' ジューリオ・デ・メディチ(Giulio di Giuliano de' Medici, 1478-1534)は、ロレンツォ・イル・マニーフィコの弟ジュリアーノの庶子(母はフィオレッタ・ゴリーニ)として1478年に生まれました。 Ritratto di Clemente VII con la barba, Sebastiano del Piombo, 1528 circa, Olio su lava