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フィレンツェ

Firenze

フィレンツェ市街の南東にある小高い丘の上に位置するミケランジェロ広場 Piazzale Michelgngelo からは、フィレンツェの素晴らしい景色が一望できます。

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なだらかな丘陵に囲まれた盆地の底をアルノ川 L’Arno の流れが一筋、ゆったりと西へ向かって流れています。丘陵はアッペンニン山脈 Gli Appennini の支脈です。アルノ川は河口の町ピサ Pisa(100km西)に達して、ティレニア海 Mar Tirreno に注いでいます。

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この展望台から見渡すかぎり、町は赤褐色の瓦屋根に包まれ、家並の壁を微妙な色調に染める「シエーナの土色(Terra di Siena)」と優しく調和しています。

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その中心あたりには、群を抜いて大きなクーポラ(cupola, 円蓋)を戴いた花の聖母マリア大聖堂 Cattedrale di Santa Maria del Fiore が青い空に浮かび上がって、花の都フィレンツェを象徴しているかのようです。

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その左の方には、今度は城塞風のヴェッキオ宮殿 Palazzo Vecchio の塔が突き出ています。

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そして、視界の手前を流れるアル川には二階通廊をもった有名なヴェッキオ橋 Ponte Vecchio をはじめ、独特の連続アーチをした数々の橋が川を縫い取っています。


〔クアルティエーリ〕

フィレンツェは、この町独特の都市分割法に従って、4つの地区(サン・ジョヴァンニ地区、サンタ・クローチェ地区、サンタ・マリア・ノヴェッラ地区、サント・スピリト地区)に分割されています。

この4つに分割された区域のことを「クアルティエーリ」([単]quartiere/[複]quartieri)と呼びますが、実は、その起源はずっと古く、ローマ時代にまで遡ります。

紀元1世紀にローマの植民都市として建設されたフィレンツェは、その建設が「花遊びの祝日」(ルーディ・フロラレス)に始まったためか、あるいは「花咲く野」(アルヴァ・フロレンティア)に建設されたために「フロレンティア Florentia」と呼ばれていました。

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ローマ特有の都市計画に従って500メートルごとの条里制が敷かれ、東西と南北に走る2本の大通りが今日の共和国広場 Piazza della Repubblica で交わっていました。

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町の地図を広げると、チェレッターニ通り Via de' Cerretani、トルナブオーニ通り Via de' Tornabuoni、プロコーンソロ通り Via del Proconsolo で囲まれた基盤の目のように整然とした正方形の街区を今でも読み取ることができます。

町の中心を通る南北の大通りを「大カルド」(現カリマーラ通り Via Calimara)といい、東西の大通りを「大デクマヌス」(現コルソ通り Via del Corso)といいますが、この2本の軸線で区切られる4つの区域が「クアルティエーリ」です。

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時代とともに町は不規則に拡大されていきましたが、人々の意識の中に、ローマ時代の「クアルティエーリ」分割法がずっと生きていたということになります。


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フィレンツェ/Firenze

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