ジューリオ・デ・メディチ 'クレメンス7世'
Giulio de' Medici 'Papa Clemente VII'
ジューリオ・デ・メディチ(Giulio di Giuliano de' Medici, 1478-1534)は、ロレンツォ・イル・マニーフィコの弟ジュリアーノの庶子(母はフィオレッタ・ゴリーニ)として1478年に生まれました。
Ritratto di Clemente VII con la barba, Sebastiano del Piombo, 1528 circa, Olio su lavagna, 50×34 cm, Museo nazionale di Capodimonte, Napoli
ジューリオは、恵まれた人文主義的教育を受けながら、3歳上の従兄ジョヴァン二(レオ10世)と兄弟のように育ちました。
1494年の亡命後は、パドヴァ大学で学んだ後、ジョヴァンニ枢機卿とともに北ヨーロッパ各地を旅行し、ローマに定着してからもマダーマ宮殿で文人や芸術家に囲まれた優雅な宮廷生活をともにしました。この時期にローマでシモネッタなる召使いに庶子アレッサンドロを産ませました。
Ritratto di Alessandro de' Medici, Giorgio Vasari, 1534, Olio su tavola, 157x114 cm, Galleria degli Uffizi (Sala 83), Firenze
そして従兄ジョヴァン二が教皇レオ10世として即位すると、フィレンツェ大司教、枢機卿、教皇庁副尚書院長にとりたてられ、一貫してその最も信頼あつい側近として活躍しました。
Ritratto di Leone X con i cardinali, Raffaello Sanzio, 1518, Olio su tavola, 155,2×118,9 cm, Galleria degli Uffizi (Sala 66), Firenze
1521年12月、病気がちであったレオ10世が風邪をこじらせて46歳の若さで急死すると、その右腕であったジューリオ・デ・メディチ枢機卿が教皇候補として有力視されました。しかし、実際に選ばれたのは、皇帝カール5世の家庭教師を務めたことのあるオランダ人枢機卿でした。この禁欲的なユトレヒト大司教ハドリアヌス6世(在位1521〜23年)が教皇になると、レオ時代の享楽的な雰囲気は一掃されました。
ウルビーノ公ロレンツォの死後、フィレンツェではジューリオが統治者となりましたが、その翌年の1520年に発覚した「オルティ・オリチェッラーリの陰謀」(若い貴族たちによる彼の暗殺計画)に対しては厳しい処断を行いましたが、基本的には柔軟で用心深い統治を行いました。
また、この事件の首謀者たちの学問的師匠で元ソデリーニ政権の中心人物であったマキャヴェッリに対して、ジューリオはマキャヴェッリの事件への関与を一切問うことはせず、著作家として才能を開花させていたマキャヴェッリに『フィレンツェ史』(1520-25年)の執筆を依頼したことも、ジューリオの柔軟な統治姿勢を示しています。
Ritratto di Clemente VII, Sebastiano del Piombo, 1526, Olio su tela, 145×100 cm, Museo nazionale di Capodimonte, Napoli
1523年、ローマ市民に不人気のハドリアヌス6世が1年ほどの在位で死去すると、ジュリオは50日間にもおよぶ異例に長いコンクラーヴェの末、メディチ家出身の2人目の教皇に選ばれ、クレメンス7世(在位1523〜34年)として選出されました。
レオ10世とは対照的に、美男の父ジュリアーノの血を引いて歴代教皇中でも最も美男の教皇といわれたクレメンスは、性格的にも、陽気で社交的な享楽主義者レオとは正反対に、陰気で内向的な学者タィプの知識人で、質素で、敬虔な信仰心をもつ人物でした。しかし政治家としてのクレメンスは、レオの片腕として有能な実務家ぶりを発揮した枢機卿時代とはうってかわり、極度に優柔不断で決断力が欠けていました。
クレメンスが教皇の座にあった11年間のイタリアとヨーロッパの情勢は、レオの時代には予想もつかなかったほどの激しい変化を示しました。
フランスの野心的な国王フランソワ1世と超大国の神聖ローマ帝国の皇帝となったカール5世(父方からオーストリアとフランドルを母方からスペイン王国を引き継ぐ)がイタリアでの領土権をめぐって争い合う「イタリア戦争」が頂点に達し、ルターによって火ぶたを切られたプロテスタント宗教革命の波は、ドイツ、スイスからスカンディナヴィアまで広がりました。
また英国王ヘンリー8世の離婚問題に端を発して英国国教会が分離し、さらに東ヨーロッパではオスマン・トルコがハンガリーに侵入してオーストリアに脅威を与えていました。
1527年にはルター派の皇帝軍の一団がローマを掠奪するというローマ教会史上最悪の事件が起こり、それと連動してメディチ家は再びフィレンツェから追放されました。
このように、クレメンス7世の治世は、イタリアとヨーロッパが未曾有の分裂と混乱にみまわれ、教皇自身が、次々と押し寄せる難題の重大性を理解できないままそれに翻弄され、疲弊し、その権威を喪失していった時代でした。
1534年9月、クレメンス7世は56歳でこの世を去りました。チェッリーニは、死者となった教皇の足に接吻したとき涙があふれた、と記していますが、「劫掠」後の荒廃したローマにあってメディチ家の繁栄だけを生き甲斐としていたクレメンスの死を悼む者は誰一人としていませんでした。
Tomba di papa Clemente VII, 1542, Basilica di Santa Maria sopra Minerva, Roma
カポディモンテ美術館/Museo e Real Bosco di Capodimonte
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