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コジモ・イル・ヴェッキオ

Cosimo 'Il Vecchio' de' Medici

コジモ・デ・メディチ(Cosimo di Giovanni de' Medici, 1389〜1464年)、通称イル・ヴェッキオ(il Vecchio)は、ジョヴァンニ・ディ・ビッチの長男で、父の生前から銀行業務を任され、優れた経営手腕を発揮していましたが、深い古典的な教養の持ち主でもありました。

P1130271 3のコピー2Ritratto di Cosimo il Vecchio, Pontormo, 1519-1520 circa, Olio su tavola, 86×65 cm, Galleria degli Uffizi (Sala 83), Firenze

コジモはさまざまな人脈を通じて支持者を集め、ジョヴァンニが1429年に世を去ったとき、新興派閥のメディチ派はアルビッツィ派に対抗しうる一大勢力となっていました。

1429年、フィレンツェはルッカ攻略をしかけましたが、アルビッツィ派の思惑に反してうまくゆかず、戦況は一進一退、共和国の経済不況は深刻化しました。多額の戦費を使ったあげく4年後の1433年、「すべてを戦前の状態に戻す」という条件でルッカと和解しましたが、それでは何のために戦争したのか分かりません。重税に苦しむ市民たちのあいだに不満が高まり、この戦争に対して終始批判的な態度を取ってきたメディチ派に期待が集まりました。

コジモを倒す機会をねらっていたアルビッツィ家の当主リナルドは、1433年9月、メディチ派を参加させずに緊急市民集会を開き、バリーア(特別委員会)の設置を決めました。コジモは逮捕され、政庁舎の鐘楼の一室に20日間監禁されました。リナルドはコジモを政府転覆の陰謀を理由に死刑にすることを主張しましたが、穏健な処分を求める世論に屈し、最終的にはパドヴァへの10年間の追放刑が科せられることになりました。

コジモはパドヴァにしばらく滞在したあと、ヴェネツィア政府の強い働きかけにより、弟ロレンツッォの亡命先であるヴェネツィアに移りました。ヴェネツィアはメディチ銀行と関係が深かったため、コジモは歓待され、何一つ不自由のない亡命生活を送ることができました。

コジモの亡命の1年間、フィレンツェの経済は好転せず、不況が続いたので、政府への不満は極限に達し、メディチの帰国を望む声が大ぴらに聞こえるまでになりました。1434年8月、次期の政府役職選挙はアルビッツィの必死の工作にもかかわらずメディチ派が勝利し、メディチ派が多数を占める政府が成立しました。市民集会が開かれ、再びバリーアが設置され、メディチ家追放の取り消しと、アルビッツィ派70人以上の追放が決議されました。10月初め、コジモは帰国の途につきました。

こうしてコジモはフィレンツェの実質的な支配者となりましたが、あくまで一般市民としてふるまい、表向きはそれまでどおりの共和国体制が維持されました。有資格者の名札を袋に入れて政府の役職に就く人を抽選するという方式は変わりませんでしたが、メディチ派で占められた選挙準備委員会によって袋に入れる名札はコジモの息のかかった人物にかぎられました。

コジモがフィレンツェに帰国した後、メディチ家の独裁時代が始まりましたが、法制的にも形式的にも、その前の時代と何も変わったところがありませんでした。帰国してから死ぬまでの約30年間にコジモが正義の旗手の地位に就いたのは断続して3期、計6ヶ月に過ぎません。生涯のほとんどを単なる一市民、一銀行家として過ごしたわけですが、彼の実質的な独裁権は30年間揺るぎませんでした。

コジモが政治家として実現した最大の業績は、国内外の平和でした。彼が権力を掌握して以来、内紛暴動は跡を絶ち、市民は平和に労働にいそしむことができました。しかし他国との戦争がなかったわけではなく、1440年には何度かの対ミラノ戦(後にレオナルドの壁画で有名になるアンギアーリの戦い)があり、この時はフィレンツェ軍が勝利して共和国の領土を増やしました。コジモは本来戦争を好まず、領土を増やすにしても、同年のサンセポルクロの場合のように、金で買収する手法を好んでいました。そして、金の力を巧みに利用しながらイタリア半島の平和を構築しました。1454年、ミラノ、ヴェネツィア間の「ローディの和」が成立し、翌年、それにナポリ、フィレンツェ、ローマを加えた五大国間の平和協定が成立しました。コジモがこの協定のために精力的に尽力したことは言うまでもありません。

メディチ財閥の事業も、コジモのもとに隆盛発展を続けました。1436年には絹織物業にも本格的に進出し、メディチ銀行の国外支店の数も増え続けました。サン・マルコ修道院図書館長に任じていた聖職者が出世して教皇ニコラウス5世となったので、教皇庁との関係はいっそう密接となり、ローマ支店の業績はますます良好となり、ヴェネツィアとブリュージュの支店がこれに次ぎました。1435年のジェノヴァを皮切りに、1441年ピサ、1446年ロンドンとアヴィニョンに相次いで支店を開業し、これらの支店網はそのままメディチ家の資金源であり情報網であり、銀行業務はそのまま貿易も兼ねました。1452年にはついにミラノにメディチ銀行支店が発足されましたが、これは、フィレンツェとミラノの長年の敵対関係に終止符が打たれたことを示していました。

コジモは学問の分野でも美術の分野でも、新しい潮流を積極的に擁護し、理解し、後援しました。そして、この莫大な富を背景に、パトロンとしてフィレンツェの芸術文化に多大な功績を残しています。

まず建築の分野では、メディチ家の菩提寺ともいうべきサン・ロレンツォ聖堂がフィリッポ・ブルネッレスキの設計で改築され、サン・マルコ修道院の再建工事もブルネッレスキの弟子ミケロッツォ・ミケロッツィの設計で行われました。またラルガ通りのメディチ・リッカルディ宮殿は彼の富と権力の象徴というべきもので、フィレンツェ最初のルネサンス様式の邸宅です。ブルネッレスキの設計案があまりにも豪華だったため、市民の嫉妬をかわないよう、ミケロッツォに改めて設計を依頼したという逸話が残っています。

古典の教養が深かったコジモは古典文献の蒐集に熱心でした。その800冊以上の蔵書を収めるためにサン・マルコ修道院内につくられた図書館はヨーロッパ最古の公共図書館です。

また古典学研究にも援助を惜しまず、1439年にフィレンツェで開催されたカトリック教会と東方正教会の合同公会議にコンスタンティノープルから著名なプラトン学者がやってきたのをきっかけに、私的サークル「プラトン・アカデミー」を創設しました。

1464年8月、コジモは75歳の生涯を終えました。遺体はサン・ロレンツォ聖堂に葬られ、全市民が哀悼し、共和国政府はその業績を称え、「祖国の父」という尊称を贈りました。

コジモの墓碑(アンドレア・デル・ヴェロッキオ作)は、サン・ロレンツォ聖堂の身廊と翼廊が交わる交差部、祭壇の真正面にあります。

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この場所は、通常、教会が捧げられた聖人の遺体や聖遺物を安置するための場所ですので、このような場所を占拠していること自体が、コジモの権力、そしてメディチ家とサン・ロレンツォ聖堂の深い繋がりを表しています。ただし、この墓碑は墓の目印に過ぎません。

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墓碑の真下には地下祭室(cripta クリプタ)の支柱があり、コジモの墓はその中にあります。


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サン・ロレンツォ聖堂/Basilica di San Lorenzo

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