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ウルビーノ公ロレンツォ

Lorenzo de' Medici duca di Urbino

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ジュリアーノの跡を継いでフィレンツェの統治者となったロレンツォ・イル・マニーフィコの孫ロレンツォ(Lorenzo di Piero de' Medici, 1492-1519)は、ジュリアーノとはあらゆる面で正反対の性格で権力欲が強く、父のピエロから尊大さと粗暴さを受け継いでいました。

2歳のときにフィレンツェを離れてローマで育ったロレンツォは、ローマでの享楽的生活に愛着をもっていましたが、叔父の教皇レオ10世の強い意思により、気が進まないまま21歳でフィレンツェの統治者となりました。

ロレンツォの行動は、もう一人の叔父の枢機卿ジューリオによって監督され、逐一ローマに報告されていましたが、ロレンツォはしだいに独裁的な傾向を強めました。野心家のロレンツォはウルビーノ公国獲得をめざしましたが、それはレオ10世のもくろみと一致しました。

領土的野心にたいして、かつてウルビーノ宮廷で公爵一族の厚遇を受けたジュリアーノは反対し、協力を拒否しましたが、ジュリアーノが死ぬと、フィレンツェ軍と教皇軍の総司令官を兼務していたロレンツォは、直ちに行動を起こしました。

ロレンツォは、1516年にウルビーノを攻め、ウルビーノ公フランチェスコ・マリーア・デッラ・ローヴェレを追放して、強引に「ウルビーノ公」の称号を獲得しました。

1518年には、フランス王族との姻戚関係をさらに強固にすることを望んだレオ10世の政略で、ロレンツォはフランソワ1世の従妹マドレーヌ・ド・ラ・トゥール・ドゥーヴェルニュと結婚しました。翌年には娘が産まれましたが、出産直後に妻は死亡、ロレンツォ自身もその1週間後に27歳の若さで亡くなりました(死因は梅毒といわれています)。

ロレンツォのあとには、女児カテリーナ(のちのフランス王妃カトリーヌ・ド・メディシス)が残されましたが、ロレンツォの早世によって、メディチ家兄脈の嫡子の血統は途絶えることになりました。

ロレンツォは、父ピエロ同様、芸術や文化のパトロネージには関心を示しませんでした。また、マキャヴェッリの著名な 『君主論』は、初めはジュリアーノに捧げられる予定でしたが、ロレンツォに献上されました。マキャヴェッリはロレンツォに新しい権力者像を期待しましたが、文化的なものに対して無関心だったロレンツォは、この革命的な書物にまったく理解も関心も示しませんでした。

レオ10世は、夭折した「ヌムール公」ジュリアーノと「ウルビーノ公」ロレンツォの墓碑の制作をミケランジェロに依頼しました。2人の墓碑は、サン・ロレンツォ聖堂新聖具室(メディチ家礼拝堂)にあります。

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最初の計画では、2人と同名の、ロレンツォ・イル・マニーフィコと暗殺された弟のジュリアーノの墓碑も作られるはずでしたが、実現せずに終わりました。

「ウルビーノ公」ロレンツォの死後、フィレンツェの統治はフィレンツェ大司教だったジューリオ枢機卿(Giulio di Giuliano de' Medici, 1478-1534)が行っていましたが、1523年にジューリオはクレメンス7世としてメディチ家2人目の教皇となりました。

フィレンツェの統治は「ヌムール公」ジュリアーノの庶子イッポーリトと「ウルビーノ公」ロレンツォの庶子(実際には教皇クレメンス7世の庶子)アレッサンドロに託され、幼少の2人の後見人として腹心の枢機卿がフィレンツェに派遣されました。


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メディチ家礼拝堂/Cappelle medicee

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