何故ナチスを許してはならないか

 ロシアのウクライナ侵攻がはじまったとき、ユーロ圏のテレビ放送で、アナウンサーがこんなことを言った。
「私たちと同じ人がこのような被害にあっているのをみて衝撃を受けた」と。
 つまり有色人種が紛争被害を受けることと、白人が同様の被害を受けることは等価ではないと、明言しているのだ。

 21世紀にしてこれである。
 先の大戦の前後、20世紀の半ばには人種の平等などなかった。理念はあったが、現実に適用されるべきものではなかったことは、日本の国際連盟での提案(人種平等を訴えるもの)があっさりと否決されたことを見れば明らかだろう(だから自然権、日本国憲法が基本的人権と呼ぶものを私は信じない)。

 日本の植民地被害にあったとされる多くの国が、それ以前は欧米列強の支配下にあった。
 植民地支配のもとに会った地域と国民は、搾取のための最低限のインフラだけを与えられ、伝統文化も尊厳も奪われ、出口の見えない困難な状況を強いられていた。
 それは当時、あたりまえのことであった。
 優れた白色人種が、低劣な有色人種に文明を与えている。そういう意識のもとに行われていることであった。

 ヒトラーは白人の中でも最も優秀なのはゲルマン民族だと言い、その他の劣った人々を導く権利があると言い、行動に移した。
 つまりは、白人が有色人種に対してしたことを、ヨーロッパ域内で白人に対して行おうとしたのだ。
 ヒトラーはここで禁忌に触れたのだと思う。

 ユダヤ人差別や虐殺はナチスの発明ではない。 
 中世にはどこでも普遍的に、しかも公権力によって差別や迫害が行われていた。
 ただ、インダストリアルな手法で合理的に大量虐殺を行ったことが、人々を恐怖せしめた。
 しかしそれとて、ドレスデン爆撃や、原爆の開発と投下、そうした近代戦争の技術となにがどう違うのか。スターリンが自国民に対して行ったことと何が違うのか。

 ナチスの思想行動に新発明はない。
 それでも彼らが許されず、ナチスに対して肯定的な態度をとることが禁忌となっているのは、ナチスの存在が、白人が見たくない自らの姿を映し出す鏡となっているからである。
 
 

 
 

 

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