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「てつと」と「キネ」。
実は、おれは名前を2つ持っている。
一つは本名である「てつと」。
もう一つが「キネ」だ。
何もふざけている訳ではない。
本当の話なのだ。
うちの「望月家」には、昔から家族ぐるみで仲良くしている「藤井家」という一家がいる。
元々住んでいた家が近所だったことが、きっかけで付き合いが始まった。
趣味や空気感が似ていたのと、何よりお互い同じような年頃の子供が3人ずついたことで、もうかれこれ30年以上の「家族付き合い」が続いている。親戚以上に仲が良いくらいだ。
子供の頃は毎年夏になると、ふた家族で何度も海や山にキャンプに出掛けた。
冬は一緒にスキーをしたし、お互いの家にもよく行き来した。
ここの藤井家のお父さんが、「たけちゃん」である。
たけちゃんは、寡黙で優しい。
いまだに怒っているところを一度も見た事がない。
ただ何かにハマるととことん突き詰める職人的な一面もある。
趣味の蕎麦打ちはおそらくもう20年以上続けていて、つけ汁も出汁を取って自作するこだわりようだ。
そこらへんの蕎麦屋では到底叶わない。
たけちゃん曰く、「趣味で原価を考えてないから当たり前だ。」とのことだ。
「キネ」は、たけちゃんだけが使い続けている、おれの名前だ。
「それって”名前”じゃなくてただの”あだ名”じゃないの?」と思われそうだが、これがまたちょっと違うのだ。
おれがまだお母さんのお腹の中にいた、ある日。
「”キネ”がいいんじゃない?」
たけちゃんはオリジナルの名前をおれの両親に軽く提案した。
別に知ってもなんの役にも立たないかもしれないが、おれは「望月 哲門」という名前である。
読み方は「もちづき てつと」だ。
「もちづき」で、「餅」。
餅だから「杵と臼」。
それで「キネ」だ。
そう、早い話がただのダジャレである。
「”もち”の子供だから”キネ”って名前にすればいいじゃないか。」という話だ。
当たり前だが、それは無事におれの両親によって却下されおれの名前は「てつと」ということになった。
ちなみに、いくつか”願い”みたいなものが込められているらしいのだが、決め手は「てつ!」と叱りやすいかららしい。
こちらからすると、とんだ理由である。
だがおれは父と母のこの願いを忠実に守り、悪戯をしては幾度となく「てつ!」と怒られていた。
そんな感じで育ったから、今でもいろんな人に怒られているのだろう。
両親が「叱りやすいから」ではなく、「褒めやすいから」、「てつと」という名前を付けていれば、今頃おれはもうちょっと偉い人になっていたかもしれない。
たけちゃんも本気でおれの名前を「キネ」にしたいと思っていた訳ではないだろう。
ただ自分の案が却下されたことをちょっと根に持っていたのかもしれない。
それに、この「キネ」という名前を相当気に入っていたのだ。
だからたけちゃんだけがおれのことを「キネ」と呼び続けた。
生まれる前から、現在までずっとそのスタンスを崩さないのだからちょっとすごい。
職人気質が変なところで出ているのかもしれない。
人間の脳みそって面白いもので、物心がつく前からそうやってずっと呼ばれ続けていると、何の違和感もなく「キネ」を受け入れてしまうものなのだ。
たけちゃんだけが自分のことを「キネ」と呼んでいることが、「あれ?よく考えたらなんかヘンだぞ」とおれがようやく気がついたのは、小学校高学年のことだった。
疑問をぶつけてみると、たけちゃんは「もちの子供だからキネ」というその謎の由来について教えてくれた。
そして素直なおれは、「なるほどそういうことか!」とすぐに納得するのだった。
最初、たけちゃんは面白がってギャグのようなつもりで、おれのことを「キネ」と呼び続けていただけのかもしれない。
だが、今となってはおそらくたけちゃん自身も何の違和感もなくなっているだろう。
本名じゃない名前で呼んでいるという自覚もないハズだ。
もっと言うと、「望月家」と「藤井家」の全員にとって、たけちゃんがおれのことを「キネ」と呼ぶのは当たり前の風景である。
小さい時のおれだって、もちろん自分の名前が「てつと」であることは理解していた。
しかし、おれは「キネ」という名前を一度もあだ名や愛称だとは感じたことも思ったことも考えたこともなかった。
おれにとっては考える前からそこにあった、もう一つの名前だったのだ。
そして今もそんな感覚である。
それほど「名前」とか「自分」というものは本来テキトーで曖昧で流動的なものなのかもしれない。
おれはこの「キネ」という名前を気に入っている。
それに、ヘンな表現かもしれないが、アホっぽくて人懐っこい響きがして自分らしい良い名前だなと思う。
これがもう一つの名前、「キネ」についての話である。
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