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違いとの遭遇。

26歳のとき。

約6年間の
サッカーコーチとしての生活に区切りをつけ
中米大陸にある小国、コスタリカに渡りました。

目的は、サッカー選手として、と
ひとりの人間としての可能性にチャレンジすること。

大学中退後
サッカー留学で行ったブラジルでは
プロ選手たちとのレベルの高い練習はもちろん
毎日の生活の中でのチャレンジがまた刺激的でした。

例えば、スーパーでの買い物や、バスの乗り降り。

ブラジルでの習慣がわからないからこそ
そして、ポルトガル語がわからないからこそ
自分の感覚と思考をすべて駆使してクリアしないといけない。

それはとても大変なことではあるけど
自分の「命」を使って生きられてる実感があって
深みのある楽しい経験として自分に残ったのでした。

なので、このときも
日本でチャレンジするいう選択肢はなく
あくまで、外国のどこかで。

選手として5年のブランクもあったし
年齢だってサッカー選手としては
ベテランに入っていくくらいの歳だったので
今さらせっかくチャレンジするなら
とことんな方がいいなぁと。

そこから、知り合いがいない国
言葉がわからない国、日本人が少ない国
イメージが湧かない国、でも、サッカーが盛んな国
と絞り込んでいった結果、コスタリカになったのでした。

まぁ、もし、やれるチャンスがなくても
日本と違って大陸はつながってるから
バスで他の国に移動すればいいやくらいな軽い感覚で。

そして、2002年1月
大きなバックパックに生活用品や
練習着、スパイク、ランニングシューズ
『竜馬がゆく』全巻に『旅をする木』を詰め
(他にも何冊かあったと思いますが)
真夏のコスタリカに降り立ったのでした。

それからは。

チーム探しと自主トレの約8ヶ月。

2部リーグのチームとプロ契約ができて
シーズンを通して戦うことのできた約1年。

最後のチャンスとして
1部リーグのテストに挑んだ約4ヶ月。

その約2年の間に
いろいろなハプニングがあり
いろいろなビックリ展開があり
で、いろいろな心模様がありました。

そんないろいろのひとつが「人種差別」。

今、アメリカで起きてる
黒人差別問題のテキストや映像を見たりしてて
コスタリカでのことを思い出していました。

正直なところ
コスタリカではめちゃくちゃ差別されました。

これは
他の中南米の国を旅していても同じですが
コスタリカではプレーヤーだったので余計にあって。

アウェイの試合に行けば
バスを降りてからロッカールームに行くまで
ウォーミングアップをしている間
グラウンドに入場するとき
試合でボールに触れたときや
相手選手にファールをしたとき
もうありとあらゆる状況で
差別的な言葉の集中砲火を受けていました。

東洋人に対しての偏見が社会的にある上に
当時は日本人選手がまったくいなかったので
自分に対しては特に激しかったんだとは思います。

試合では
「いいプレーをして認めさせてやる」
というエネルギーに変換できてたからいいんですが
それ以外の場面ではやっぱりストレスフルで。

名前のわからない東洋人が呼ばれることの多い
「 Chino 」( チノ=中国人 )という表現。

言葉自体は問題ないですが
その言い方のほとんどが見下した感じで
これがどんどんとストレスになっていくんです。
町を歩いててすれ違いざまに言い放たれたりしますからね…

一度気になり始めると
悪意のない言い方でも勝手に悪く捉えては
精神的に病んでいくという負のループにハマっていました。

でも、こんな救われたこともありました。

練習生として
1部リーグのチーム練習に参加したとき
監督が選手たちに自分のことを紹介してくれました。


「 練習生として参加する日本人のアリサーカだ 」


「 みんな知ってたか?日本人はチノと呼ばれるのを嫌がっているんだ 」


「 中国人が悪いからじゃない。中国と日本は国が違うからなんだ 」


「 だからみんなチノと呼ばないでくれ。アリサーカだぞ 」


その集合が終わりランニングになると


「 よろしくな、アリサーカ 」


と多くの選手が挨拶に来てくれました。

なんで監督はそのことを知ってたんだろう。

練習が終わって聞きに行くと、こんな話しを教えてくれました。


「 うちの奥さんが沖縄に留学してたことがあって、そのときの日本人の友だちが教えてくれたんだ 」


「 悪意をもって言う人も残念ながらいるけど、多くの人は日本人が嫌がってることを知らない。中国人と日本人の見分けもつかないしね 」


「 だから、知ってほしかったんだ、選手たちに 」


「 知ることが大事なんだ。知ることから始まるんだ 」


しばらくすると監督の自宅に招待され
奥さまがちらし寿司を振る舞ってくれました。

そして
とてもとても大事に飾った着物を見せてくれました。


「 こんな素敵なものを生み出した君の国を尊敬するよ 」


このチームとは契約を結ぶことはできなかったけど
忘れることのできない美しい美しい思い出のひとつです。

「違い」に遭遇したとき、それをどう捉えるのか。

そこから「差別」に向かっていくのか。
はたまた「尊敬」へと向かっていくのか。

違いとの遭遇は、その分かれ道な気がします。

だからこそまずは子ども時代に
たくさんの違いに触れる機会をつくって
「違い慣れ」することって大事だと思います。

違って当たり前なんだということを常識に。


ちがうみんなで、みんないっしょに。


そんな世界に。

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