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Tetsuo Yamamoto/山本哲生について

ども、はじめまして。
テツオって言います。

このブログでは日々の活動だったり、自分が考えていることや感じたことをササっと綴っていくものとして使っていきます。

更新は不定期、気分なのですが、何卒よろしくです!

今回は一発目なので、自己紹介なんてしていこうかと思います。

Tetsuo Yamamoto/山本哲生について

幼少期
愛媛県松山市東野町に1991/07/15に生まれました。
生まれた瞬間に病気にかかっていたらしく、すぐ入院。透明の箱みたいなのに入れられて暫く過ごしてたそうです。

幼稚園生の時は、上半身裸で走り回ってたそうなので、肌になるのは除いて今とあまり変わっていなように思います。

小学生
小学生の時からクラシックバレエを始めました。キッカケは母に勧められてだったのですが、バレエが何なのか分からず始めてしまったため、正直に言うとあまり楽しくはなかったです。

男の子がバレエをやっているなんて恥ずかしくて言えず、塾やピアノをやっているとごまかしながら上手に友だちに言ってました。

でも、小学6年生あたりに熊川哲也のドンキホーテのソロを見て、バレエかっこいいなんて思っていたのを覚えてます。

卒業を間近に、父親の仕事の都合でバンコクの日本人学校へ転校。
長年一緒にいた友達との別れが悲しくて、家でよく泣いていたようないないような。

中学生
中学生になっても、バレエは続けていました。

牧あさみバレエ団にいらっしゃった平田先生がバンコクシティバレエというバレエ教室があり、そこに通っていました。

今はバンコクシティバレエはカンパニーとしても活動をされていて、とても尊敬している先生です。

中学生の時はとても荒れていたのを覚えています。ホントにホントに。
母親ともよく喧嘩して怒鳴ったり、あの時はご迷惑をおかけしてすみませんでした。

高校生
高校は北海道函館のバレエ教室へ。
僕の尊敬している綾子先生のバレエ教室に通わせていただけたおかげで、今の自分がいると言っても過言ではありません。

函館はハッキリ言って田舎で、そんなところにタイから帰国したバレエやってるやつが来たから物珍しくてちょっかいかけたかったのか、嫌なことをされました。
今となっては別にどうでも良いことですが、学校にはあんまり行ってなかったですね。

でも、バレエには休まず行ってて、踊ることが唯一の救いのような感じでした。

当時太ってた僕は、綾子先生にも誰よりも腹筋がないから1日100回しなさいと言われたので、それが悔しく、どんなことでも言われた回数の3倍は絶対にやってました。

若干バレエから離れたくて、ゲーム作りたいと進路相談しに行ったこともありましたが、ひたすら高校生の大半はバレエに費やし、高校を中退し18歳でロンドンのバレエ学校へ留学。

僕なんかが留学なんて絶対にできないと思っていたので嬉しかったです。

バレエ学校
バレエ学校はとてもたのしかったです。
変わらずバレエを踊りまくってて、週6日朝5時に起きて7時には学校へ着き、自主練からの授業の日々。

学校を開けてくれる受付の人より早いからたまに嫌な顔をされてましたが、気にはなりませんでした。

夏休みや冬休みは、パイナップルやダンスワークスというオープンクラスへ行き、休みはほぼ作らなかったですね。

今思えばもう少しオフの日を作って何か別のことをやったり遊んでも良かったと少し思います。

ビザの更新でパスポートを提出したら1年越しに返ってきて、ビザは1週間で切れるから早く出ろと言われる事件があったり、いろいろあった3年間を過ごしましたが、この経験が無ければ僕はずっと日本という場所からの観点でしか物事を見ていなかったように思います。

バレエ学校に紹介してくださった綾子先生や、両親や祖父母に本当に感謝です。

怪我、オーディション
卒業後はオーディションへ。
アメリカへ行ったりシンガポールへ行ったり。
しかしどこも受け入れてもらえず。

幾らテクニックを磨いても、僕が変えられない身長だったりで落とされることもあり、正直絶望でした。

あれだけ練習し培ってきたものは何だったのか、と落ち込んだ挙句怪我をして、一度実家へ戻りリハビリ。

回復してからは、家の近くにあったバレエ教室に暫くお世話になりました。
男性の先生だったので、テクニックも丁寧に教えてくださり嬉しかったです。

松山から東京へ
踊りを続けるのであれば、松山から東京へ出た方がいいと思い、当時大学院へ通っていた母と大学生の弟が住んでいた家に転がり込み、アルバイトとバレエの練習の日々を続けていました。

ただ、正直すごく辛かったです。

何も変わらず往復する毎日、明らかに落ちていく体力とテクニック。
なぜ僕は踊ってるんだろう...と気持ち的に苦しくなった時期があり、しばらくバレエから離れ仕事してました。

しかし、きっかけがあって再び踊る道へ。
まずは日本のバレエ団に入ってみようと思い、オープンクラスでバレエやコンテンポラリー ダンスやジャズダンスの練習をして入団。

しかし、バレエ団という場所はおもった以上に合わず3ヶ月足らずで退団。
その話はまた別の機会に。

ZERO.の立ち上げから現在
暫くダンサーとしてバレエのゲストやコンテの舞台に立ってましたが、ダンサーという立場に魅力を感じなくなり、ずっと挑戦したかった振り付けや演出をするためにアート集団《ZERO.》を設立。

ちなみにZERO.はゼロポイントと読むのでお間違いのないよう。

2019年1月に旗揚げ公演「ワタシ と アナタ の 間」、8月に「怪物」、そして2020年1月には「ポケットの中の宇宙」というイベントを行います。

今は、インストラクターとして子どもたちとダンスをしながら、ZERO.という団体を大きくしながら、表現活動をやっております。

個人の活動でいうと、短編映画「夜が明ける」やYouTubeにダンス動画をあげたりですね。

ここまでが僕が生きてきた道のりです。
次は僕のやりたい事や目指していきたいこと、今現在考えていることについて綴っていきます。

良ければフォローお願いします。

では

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