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機織(はたおり)機をいじってみた。

八王子駅前のサザンタワー2階の一角にある、八王子博物館へ。東京の歴史博物館はだいたい巡ったことになるかな?

周辺の博物館や郷土資料館でつながるのは、農家の副業の多くは養蚕。
できた繭などは特に明治時代以降、八王子へ集められ、横浜へ出荷。
八王子は元来が、養蚕と織物の町である。
(八王子博物館の展示品は、撮影とアップフリーでした!)

今はなき八王子駅前のタワーは、八王子のシンボルだった。

で、機織機があった。
多くの資料館や、外に展示されてる民家にあった機織機。
使い方を聞けるようでボランティアの人に。体験できるらしい。

大変!八王子博物館の機織機を撮影してないことに気づいた!写真は山口民俗資料館の機織機。

言われるまま、左足を踏み、二段の縦糸の片方が上に上がる。(画像、縦糸の層が、微妙に二段・上下二枚になっているのは見えますでしょうか?)
そこに杼(ひ=横糸が巻かれているもの)を、左手から右手に、機織機の筬(おさ)の下、僕の膝上にある横木に杼を滑らせて持ち変える。

杼。これは色分けしており、デザインに応じて色を変える。(山口民俗資料館より)

杼を左手から投げるように横木に滑らせて右手にパスするが、この時点で僕はうまくいかない。
縦糸の下、途中で止まり、右手を潜らせて杼を取り出すばかり。

杼を持ち変えたら、一本の横糸が、数多引かれた縦糸の群れを垂直に通りだいたい交差している状態。
縦糸の群れの両端に、ゆるむことなく、縦糸の端を締め付けることもなく、適度に端で横糸がたゆまぬようにする。
(写真あればよかったのですが撮影する余裕なし!脳内補完お願いしやす!)

以上で横糸通したら、次は右を踏む。
すると上がっていた縦糸が下がり、二段目の縦糸の段が上がる。
このとき、通した横糸は、段違い同士の縦糸に絡むのだろう。しくみはまだよくわからんご。

そして、筬(おさ)という数多の縦糸を通している細かい櫛状のものを手前に引く。これで、これまで通した横糸の蓄積に、その横糸が集まる。
この筬を手前に引くとき、手前に叩くように威勢よくやるため、機織機特有の「トントン!」て音が響く。
(詳しくは下のリンクを…)

そしてまた、右手から左手へ杼を投げ滑らせ、パス。たゆわぬように引き締め、またペダルを踏み、縦糸を交差。

この続き。

この作業をもう慣れた手つきで早くひたすら打ち込んでゆくのだろう。
はあ、やっと複雑なしくみである「機織機」の構造の基本がわかった。

八王子は機織りのメッカ群馬の技術を取り入れつつ、横浜に出荷しながら栄える。

八王子を出ると、このまま、件のダム湖底の村記事の完成を目指すため、そして開館日に合わなかったため、入れなかった「山口民俗資料館」へ。
そもそもダムに沈んだ村を描こうとしたきっかけの狭山湖、沈んだ勝楽寺村と縄竹村。
縄竹村は僕の現住所付近の入間で、その記事も以前書いた。(お茶の町、入間)

とまあリベンジ戦、しかも沈んだ勝楽寺村の資料保全がメインなので、今研究している津久井湖の記事の思いを高めようと訪れた。
(勝楽寺村については、「わが村は水に沈んだ」で書ききったと思うのでこれ以上は書く予定はない)

八王子から国分寺、多摩湖線にて多摩湖から西武園ゆうえんちで下車。
家族連れや、リア充らが西武園ゆうえんちを楽しんでるなか、小汚いおっさんの僕は資料館に突撃!



そこたでまた、勝楽寺村名物「所沢絣」は知ってたが、機織機に出くわすとは!
八王子の学習が、すぐに生かされ、館の人と機織り談義ができました!

機織り機へのセッティング。やはり大変。
これを糸作りから糸染め、そして機織りまでやる。実際作ってみたそうですが、月1で集まり、一着つくるのに3年かかったと。

八王子博物館

まゆからとった生糸自体細い。これを何本か(八王子博物館では10本くらいと聞いたが、機織り機の縦糸は数本くらい)、まとめてねじって「糸」にする。糸車などで。

八王子博物館

そりゃ、昔は織物高級だわな。
一番大変なのは、どれも大変なのだろうが、例えば筬に縦糸を通すこと。
細かい筬の櫛状に一本ずつ通す、というより、模様のデザインのようにつくるための緻密な配置か。

これは筬と関係ないが、縦糸の多さを表現してみた。

勝楽寺村は、以前書いた通り、多摩(東京)ダルマ発祥の地といえる。


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