東京のデルタを回る①
江東デルタ地帯を知ってますか。
東京のウォーターフロント。台場に豊洲、東京ビッグサイトに国際展示場など観光地や工業用地として開発が進む場所。北にはスカイツリーに浅草に両国国技館に、東京東部のこの場所は、実は「江東デルタ」と言われる三角州です。
東京の地形についてざっくり言うと、
東京の中心から西側が武蔵野台地。西は多摩や山間部、東は山手線までのエリアで、皇居が武蔵野台地の東端だが、北は日暮里と上野の台東区から南は新橋や品川の中央区と港区まで。ざっくり言うと隅田川より西側の部分だ。
さらにその東には下町低地が広がっている。
千住の南、スカイツリーのおひざ元の墨田区、さらに総武線よりやや南は森下に東は住吉、南は清澄に砂町を経て深川から木場の江東区。
つまりは、隅田川と荒川の間に挟まれた地域が江東デルタ地帯である。
洪水が起きやすく、しかもいったん水浸しになるとなかなか水が引かない、いわゆる「0m地帯」。
東京散歩、前回は建物的には監獄を巡ったり墓を巡ったり。地形的には崖線(武蔵野台地の東端の崖)をなぞっていきました。
今回は西部の武蔵野台地とは真逆に、東部の低地・江東デルタ地帯を散歩していきます。まずは①として、隅田川を散歩しましょう。
隅田川を北へ遡る
まず、JR総武線か都営浅草線の「浅草橋駅」から隅田川沿いに散歩します。最初は永代橋から。浅草橋駅よりも南側なので、後方を撮影しておきます。ちなみに隅田川沿いには、歴史を感じさせるパネルが設置されています。
やはり、まずは歌いましょうね♪
「春のうららの、隅田川 上り下りの船人が、櫂の雫も花と散る
眺めを何に、たとうべき♪」
のどかなのどかな、隅田川をこれから、北上していきます。
(ただし、この記事は筆者が過去にいろいろ巡った散歩の写真を組み合わせた記事です。)
南には、埋め立て地エリア。築地と佃島、越中島に豊洲に木場。さらに南はお台場、国際展示場と東京ビッグサイトのある有明、東雲と辰巳に夢の島。荒川の向こうには葛西臨海公園ですね。
永代橋は、南へまっすぐ流れてきた隅田川が、これらの埋め立て地にて分岐する一歩手前の橋です。
永代橋から北上する左側(皇居=旧江戸城)が日本橋。江戸の入り口ですね。
撮影し忘れましたが、両国橋。その先に浅草があります。
このあたりは当時、江戸最大の繁華街として栄えました。
ただいま閉館中の江戸東京博物館より。屋台のようす、浅草の芝居小屋などの繁華街のようす、遊郭街(公娼)で著名な大人の男の江戸最大アミューズメントパーク「吉原」の間にある、江戸三座で有名な「猿若町」のようすなどをご覧ください。
後述しますが、浅草からやや北の今戸から、西へ。上野と鶯谷と日暮里の間に、吉原があります。
底に通じる山谷堀の南側、浅草の北あたりが猿若町です。
ちょっと浅草に戻りましょう。スカイツリーの手前、いわゆるアサヒビールのオブジェ「金のう○こ」と吾妻橋で結ばれたところが、浅草寺周辺です。
そこから北の蔵前橋です。
隅田川沿いには、大名の家紋が展示されています。江戸の土木工事を行ったのは大名ですし、江戸の町を繁栄させたのが、大名の参勤交代のためにつくった藩邸(大名屋敷)ですね。
江戸城周辺には大名屋敷が密集、そしてその周辺に庶民の町。特にこの江戸城より東側に広がる江東デルタに多くの人々が集まります。
隅田川のさらに北、南千住のカーブ地点
さて実は、ここまでの記事は、2年前に「吉原遊郭」の話を描くために撮影したもの。江戸東京博物館ももうずっと改装のための閉館中ですね。
江戸時代の人々の息遣い、隅田川周辺という繁華街での娯楽ぶりが伝わればと思います。
これから2023年の先日に、隅田川まわりを散歩した記事です。
今年、関東大震災より100年目。いろんな博物館や資料館が企画展をしているため、どれを見に行こうか思っていたところ、やはり最も被害が多かった隅田川周辺にある「すみだ郷土文化資料館」の企画展を目指しました。
なので、これからは関東大震災と東京大空襲の様子を見ながら、隅田川をさらに北へ歩きましょう。ちょっと悲劇を描写することになりますが…
関東大震災、東京大空襲。ともに火災による10万人以上の死者が出た悲劇が1923年と1945年のほんのわずかな間に起きているのです。
ただし、「すみだ郷土文化資料館」の展示は撮影が禁止。
なので代わりに、こないだの記事「被災地をゆく」①の関東大震災関係の資料にて引用させていただいた、両国横網町の東京都復興記念館での「東京大空襲」の展示資料を用います。
1923年9月1日午前11時58分30秒、昼食をつくろうとかまどで火を起こしているときに、長く大きく揺れた地震によって紙と木でできた家(障子と襖の木造家屋)が潰れ、引火。人口密集地帯の超過疎地域でもあり、さらに火災の中で旋風に巻き込まれ、避難場所に多くの人々が殺到したのも多くの死者が出た原因でもある。
死者10万人ほど、うち9割が火災によるもの。特に旧陸軍被服廠(現在震災復興記念館があるところ)には4万の人々が避難したが火災旋風により3万8千人が焼死する地獄絵図と化す。
資料館を出て、改めてそんな思いで隅田川を眺め見る。
ああ、関東大震災でも避難民が殺到した隅田川。橋は新大橋と両国橋以外は焼け落ち、さらに両国橋に人が殺到、川に落ちたり逃げ場を失った人々が溺死することが多かった。
さらに30年後には、東京大空襲。
ここでも隅田川は悲惨で、関東大震災を研究したアメリカ軍は焼夷弾を撒いたのだ。焼夷弾は、油(パーㇺ油やガソリン)と火をぶちまける。
僕はYouTubeでも焼夷弾の様子を見てみた。まるで激しい花火のように、油と火を撒き散らし、火柱が立つ中、まるでフライパンでフランベするかのように即座にたちまちに木造家屋が燃え上がる。それが、密集した隣の家屋にもどんどん延焼していくのだ。
阿鼻叫喚の中、炎と熱風は隅田川の橋にも押し寄せて、人々は3月10日の寒い川に落ちたり飛び込むしかなく。
霊なんか僕には見えないが、ここが惨劇の場所であり、今はそれを忘れたかのように、その上に平和に人々が行き来している。
言問橋を渡り、浅草を左手に北上すると間もなく、先ほど述べた今戸に着きました。吉原に入る猪牙船が入っていった、山谷堀。その周辺が猿若町。
その手前にある今戸神社に、ある目的で入っていきます。
新撰組の沖田総司が亡くなった場所のようです。墓は港区にあるとか。
さあ、あとは隅田川の北部を目指します。
さあ、そろそろ隅田川の北の方に来たかな。
隅田川は、ずっと西の赤羽の岩淵水門にて、荒川から分岐してできた川。
北区赤羽から東へ、たまに南へ下るも主に横へ流れてきた隅田川が、南千住駅(荒川区)と北千住駅(足立区)の境目を通ると一気に南下し始めます。
その南千住駅東にある「大カーブ」を目指して歩きます。
ついでなんで、荒川も見ていきましょう。
なんせ、荒川をこれまでずっとウォッチしてきましたので。まあ、いぜん「荒川特集記事」が書けてませんが。
さて、今日の散歩の最終目的地であるカネボウ公園です。
「すみだ郷土文化資料館」でも写真が展示されてました。関東大震災の被害者を祀る場所など、関東大震災の跡地は今やあまり見られなくなりましたが、この日本最大の日用品と化粧品の企業であったカネボウの発祥地「鐘ヶ淵紡績」の跡地に1つ見られるようです。
スカイツリーラインにて、曳舟駅を降りて、京成曳舟駅へ。
曳舟は高木神社があり、あと2話で完結するという「からかい上手の高木さん」とコラボ。「おむすび」がシンボルの神社で、五穀豊穣と子孫繁栄の高皇産霊神が祀られてます。「からかい上手の高木さん」もラブコメ、つまり子孫繁栄の物語?と言えなくはない(現にスピンオフ漫画で高木さんと西方君は結婚して娘がいますし)。コラボするのは最もですね。
その「からかい上手の高木さん」の展示が駅内にありました。
墨田区から江東区へ
別日、両国を再訪しました。今度は南下して、埋め立て地方面へ向かいます。
両国、隅田川の東岸ですね。清澄白河から深川、門前仲町。
先ほどは江戸時代の隅田川と浅草という繁華街について描きましたが、深川を中心に江東デルタである下町低地(東京低地)が町になっていく歴史について描写していきます。
両国から出発すると、本所という地名が目立ちます。
日本橋から西の大名屋敷が立ち並ぶ江戸城周辺とちがい、東部のここは庶民の密集地域でありいわゆる下町といわれ、浅草・下谷・深川にこの本所。墨田区の南半分で駅名では「本所吾妻橋」で残っている。
赤穂浪士討ち入りの吉良邸もこの辺りで、吉良上野介が私信で「江戸の郊外に追い出された」と愚痴ったものが残っているとか。
荘園があったことから、本荘→本所。本所の物語はあまたあれど、町の様子を描いた大ヒット小説に「鬼平犯科帳」がありますね。鬼平名残の場所は、実際にはどのあたりだったのか掲示されてます。
さて、歴史を簡単に描く。家康が三河から関東へ入府する1590年からしばらくまで、この辺りはただの茅が生い茂る原野だった。
家康は、関東に移るとき「すでに城下町として繁栄していた北条氏の拠点である小田原」に移る意見もあったが、あえて当時は湿地が広がる原野だった江戸を選ぶ。そのとき、秀吉が大阪を海上交通を利用した水都として開発したのを参考に、江戸を一から開発するように決断。
その際、佃島に移り住んだ摂津の漁師たちと同様に、ここにも摂津(大阪)の人々を住まわせた。それが深川八郎右衛門で、彼が小名木川周辺を開拓。
漁師町だった深川が発達した理由は、まず永代寺と富岡八幡宮が開拓が進んだこの地に家光の頃に出来たことだろう。
特に八幡信仰を徳川が推したことで、庶民に「深川の八幡様」と親しまれた。
さらには、明暦の大火である。
江戸の建築用の木材を貯めておく「木場」が設置され、商業開港地として発達する。そこで活躍した小名木川。行徳塩田とつなげるために家康の命令で掘削されたが、のち江戸川東部の千葉・茨城方面や荒川を通じた北関東の物資を、蔵屋敷もある(蔵前)浅草に集める物流拠点となる。
小名木川以外にも、堅川や横川・横十間川や仙台堀川など多くの運河が江東デルタに張り巡らせる。
本所から深川に入りますが、話を続けます。
小名木川を中心に商業地域として発達し、やがて多くの岡場所(私娼)も営まれるようになり。特に、江戸城から南東の方角「辰巳」の地域にあるため、この地域の芸者さんを「辰巳芸者」と呼ぶようになり。
日本演芸の中心地は浅草から端を発しているが、この辰巳芸者も大きな影響を与えたことでしょう。
明治になると、ここには浅野セメント・東京紡績・日本製粉・東京ガスなど多くの工場が建ち並ぶようになる。有名企業としては、たとえば中央区に属するが、門前仲町の目の前にある石川島、「石川島播磨重工業」は現在の「IHI」(Ishikawajima Heavy Industries)であり、川崎重工と三菱重工にならぶ日本三大重工の1つ。
江東区の埋め立て地域である、豊洲や有明や新木場の辺りは、この記事の③あたりで、これから横断して記述する。
あ、ほら。小名木川が見えてきたね。
小名木川の運送の様子は、「東京のデルタを回る②」にて、江東デルタの東端である「荒川沿い」を歩く記事を描きます。そこで中川番所の資料館に良い資料がありまして、すでに歩いてますし資料館も撮影済みですので、近日にアップできます。(また再度歩くかもしれません、結局荒川沿いの散歩は夜になって暗くなったので…)
ちなみに、富岡八幡宮は江戸時代に初めて勧進相撲が行われた場所。相撲と言うと両国国技館ですが、この辺りにも相撲部屋が多いです。
さて、深川江戸資料館にて、江戸時代の深川にタイムスリップして終わりましょう!
またまた長い記事、読んでいただきありがとうございました。スキ、コメント、とても励みになります!!
深川江戸資料館は、当時の町並みが再現されて、まるで1つの昔の町を散策でき、店や家屋のようすを見ることができます。
資料館を出て、東西線の門前仲町駅を目指します。
先述の通り、次回は江東デルタの東側の荒川散策記事を描き、できたら以前散歩した砂町などの横断記事も書けたらいいな。写真残ってるかな。
まあ、確実に小名木川の物流のようす(中川番所の資料館)と江東デルタの水害のようす(荒川知水資料館)は描けそうです。
最後は、「東京のデルタを回る③」にて江東デルタの先端で開発が進む埋め立て地域を、これから散策して描きます。
江東区の偉人、最後にもう3人!
この日は、東西線の門前仲町駅から、実は浦安郷土資料館を目指したので。
都内数か所にあるスーパーの赤札堂、デカい!
深川と言えば、東京の郷土料理でも有名な「深川めし」!!
まあ、「あさりごはん」だったり「あさり味噌汁ぶっかけめし」だったり多様ですね。
しかし、撮影していませんので、代わりに浦安郷土博物館の「あさり尽くし」をお楽しみください。終。
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