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漫画家から漫画を読もう

漫画家について知ることで、漫画の読み方が変わるのかもしれません。
これは、僕に漫画について評論する喜びを教えてくれた「BSマンガ夜話」が教えてくれた視点です。夏目漱石の長男の長男(孫)、夏目房之介先生や、いしかわじゅん先生などの憧れの巨星たちが示してくれました。

たとえば、いしかわじゅん先生の「今夜珈琲を淹れて漫画を読む」という漫画の紹介本にある、「ちはやふる」の作者「末次由紀」先生の記事。
末次先生の前作「エデンの花」などの絵にスラムダンクなどの構図や絵のパクリがあり、盗作として本人も作画のトレースを認めた。
それにより、末次先生は2005年に漫画家活動を停止、過去の作品はすべて絶版。漫画家生命を絶たれてしまう。
しかし2007年に「ちはやふる」という作品で活動再開。2009年にはマンガ大賞第2回受賞というマンガ界の栄誉をもらうも、授賞式は欠席。
「過去に犯した間違いがあり、自分はこういう場に出る人間ではない。一生懸命マンガを描くことしか恩返しはできない」とコメントを発表した。
この末次先生の決意があることで、「ちはやふる」という百人一首を世界中に広めた傑作を読む醍醐味が増すのではないか。

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今、赤塚不二夫先生の動画を偶々ひたすら観ている。
赤塚先生は満州生まれ、太平洋戦争敗戦のときは11歳、満州で暴徒化した中国人の殺戮に出会う。ソ連軍によって捕らえられシベリアに抑留された父親の人徳により、中国人に助けられ、日本に亡命。しかしそのときに幼い妹達をジフテリアや栄養失調により亡くす。
赤塚先生についてはまだ勉強不足のために後で改めて書く。戦後ギャグ漫画の礎を築いた、シャイで無口で陰気な「ギャグ漫画の王様」は、アル中になって破天荒な才能を開花。
無名でボーリング場のアナウンスをしていたタモリを芸能界に引き出して才能を開花させた芸能界の重鎮にもなり、弟子は高井研一郎先生(山口六平太は聖書です!)や「釣りバカ日誌」の北見けんいち先生などを弟子に持つ本当に神様だ。動画にあった60歳の還暦には、元東京都知事の青島幸男、漫画の神様の石ノ森先生、落語の神様の立川談志、藤子不二雄先生など神様達が出演し、僕にとっては「神々の宴」でおしっこちびりそうだった。

さて、長い前置きだな。この記事を「漫画家紹介」にするか「漫画の神様達」にするか悩んでいるが、勢いのままにまず書こう。

まずは、藤子F不二雄先生だ。

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ドラえもんは、今、とっさにワードで変換できたように、そして日本の漫画とアニメのシンボルとして、日本のシンボルかもしれない漫画の最高傑作だ。僕には姪っ子たちがいるが世代を超えてドラえもんは好まれるキャラクターだ。

しかし、ドラえもんができたのは藤子F不二雄先生の奇跡でもある。
藤子F不二雄先生こと、藤本弘先生は、漫画の神様の大手塚こと手塚治虫先生の作品に影響されて漫画家を目指した。
「オバケのQ太郎」「パーマン」はヒットしたが、次第に売れなくなる。パートナーである藤子不二雄A先生こと我孫子素雄先生の「怪物くん」「笑うせぇるすまん」「魔太郎がくる!」の執筆が中心となり、次第に藤本先生も「週刊少年サンデーの作家陣から外してほしい」と言うようになった。
我孫子先生は趣味のゴルフから「プロゴルファー猿」や、世相をブラックに描写した「笑うせぇるすまん」などを手がけた器用な天才作家だ。
しかし、本当の神様は不器用で迷う。あくまで少年、少女のための漫画しか描けないのだと。

しかし、小学館は新しい漫画、「大人も楽しめる漫画」という開拓のために「ビッグコミック」の発刊を決める。少年少女だけでなく、漫画の多様性を語る上で大きなプロジェクトなのだが、その作家人にベテランである藤本先生を依頼した。
藤本先生は断った。児童向けの作風に合ってないということだが、出版人は熱烈にオファーして、ついにSF作品の最高傑作「ミノタウロスの皿」ができた。これを経て藤本先生は「自分でもこんなものが描けるのか、新しいオモチャを手に入れたような喜びでした」と思った。ここで藤本先生の独特なSFの世界が開花する。この藤本流SFは「Sukoshi(少し)Fushigi(不思議)」の作風として残り、後にこれを継承した藤本先生と同郷の富山出身の天才作家「石黒正数」を生むこととなるが、これはまた別の機会に。

そしてついに1969年「ドラえもん」を発表。

しかし、評価はイマイチ。

4年後にアニメ化されるが半年で終了。連載も終了へ。

しかし、単行本全6巻の話題が募り、藤本先生は「さようならドラえもん」の執筆後に「かえってきたドラえもん」を執筆。1978年には1500万部となり、アニメかも続投、今に続く長寿番組へ。さらに長編映画として「のび太の恐竜」を発表。配給収入は15億5000万、観客動員数は累計1億という大ヒットとなる。

1996年9月20日、家族が夕飯を告げると、返事があったが、いつまでたっても来ない。娘さんが呼びに行くと、机に向かい鉛筆を持ったまま意識を失っていた。「ねじ巻きシティ冒険記」の62ページ目の執筆中に搬送、3日後に肝不全のために62歳の生涯を閉じた。

川崎の登戸にある「藤子F不二雄ミュージアム」は、以前たまたま向ヶ丘遊園の跡地を見てみたく訪れたついでに訪問しようとしたが、事前予約とチケットが必要でかなわなかった。いつか必ず訪問したい。

「アニマル惑星」と「雲の王国」の、武田鉄失の歌は心に残る名曲ですな♪

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