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人生は懲役みたいなモンだと思って生きてみる

世の中にある欲に溺れてしまい、お金だけでなく仕事・恋人・友人・家族などいろんなものを失うきっかけになるひとつに「依存症」というのがあります。

「こんな自分に生きる意味があるのだろうか?」

「神様はなぜ自分を生かしているのだろうか」

Twitter上のお付き合いのなかには、さまざまな依存症と戦っている人たちがいつも悩んでいます。

また、私自身も借金・ギャンブルに投資の失敗、さらに失業と多くの夜逃げの経験もあるので、正直そう思ったことも多々あるというのも事実です。

しかし、なぜ未だにのうのうと生きているのかといえば、普通の人と考え方に違いがあるのかもしれません。

人生なんか懲役みたいなモン

私のなかでは、神が与えた「人生の生きる意味」のような前向きなものはありません。

むしろ、おそらく前世でトンデモナイ罪を犯した罰を現世の自分が受けている、としか思ってなく、自分の身に何かあるたびに「俺って前世でどんなヒデエことしたんだろ・・」と不安になることもしばしば。

そんな考え方ですから、根本的に「人生は罪を償うための懲役のようなもの」だと思っています。

ある種の諦めなのかわかりませんが、「罰」だと割り切ると自然と受け入れられることも増えてきます。

頑張っても報われないとか、ほかの人にはよくある逆転劇のツキが自分には全然来ないとか、上手くいくことが少な過ぎるとか、波瀾万丈の波のなかで起こる、色々な「考えるだけ無駄な悩み」は無くなるんです。

とはいえ、なんの罪の罰か?なんてのは、正直わからないので、自分で勝手に想像するんですね。

刀の時代か銃の時代かは別にして、前世では戦争で戦ってて、もしかしたら俺のようなヤツならば略奪とかの悪さもしてたかもしれない。

でも、完全な悪者にもなりきれないから、心の何処かで罪の意識は感じていて、それでもやはり言い訳しながら人を殺めて物を奪いながら生き延びていくんですね。

まぁ、結局のところ惨めに死ぬわけなんですが、そのときの中途半端に重ねた罪を償うために今生きてるのかなとか。

だったら仕方ねえなって思えるようになります。

わたしにはどんな役目が天命が…と前向きに考えても出てこないという人は、悩む時間も自分を痛めつけている状態です。

それならばいっそ「罰を受けている」くらいの感覚でいた方が、開き直って割り切れることもあります。

懲役入ってるのに、ネットも使えるしタバコも吸える、望めば自由に街中に行き来もできるし…そうすると、「あれ?全然恵まれてるじゃん」って感じてきます。

もしかして、不幸のレベルが甘すぎませんか?

金に困ることは不幸でもないし、食うに困る不幸なんて入り口程度で、動物や昆虫だって食えなきゃ生きていかないから努力してる。

ヒトが動物と違うのは、その努力が暴力というものではなく「知恵を使い仕組みをつくる」という「工夫」ができるということ。

この仕組みとは、別に流行りのビジネスとかのことではありません。毎月働いて給料をもらうことも、立派な仕組みです。

ここまで読んで頂いた人のなかには、「そんな簡単に言えるなんて、本当の不幸を知らないんだ」と言われるかもしれませんが、実際そうだと思います。

たしかに、過去には投資に失敗したりして自滅して、身寄りもお金もないことを不幸だと思い込んでいた時期はありました。

しかし、見聞き出来て書くこともでき、五体満足で腹も減ればトイレにも行くし眠くもなるし、秀でた能力や学歴は全くないとはいえ、これの何が不幸に当たるのかという状況です。

あなたが幸せではない、つらいと思うことはなんですか?

毎日、いつ敵の飛行機が飛んできて爆弾を落とすかもしれない日々の不安や、赤紙が来て家族と離れなければならないことだったり、戦地でいつ帰れるかもわからぬまま戦う日々でしょうか?

今の時代の日本には、そんな状況はありませんよね。

つまり、あなたの思い込んでる不幸とは、実は誰かに刷り込まれていることとのギャップ差でしかなく、幻想で起こるただの感情でしかないのです。

人と比較して自分を陥れない

今の世の中で不幸を感じるとき、それは多くの場合「誰かとの比較」によるものです。

昔と違い、SNSを通じて情報を過剰摂取してしまうことで、自分で自分を追い詰めている人も少なくありません。

薬物やお酒、ギャンブルなどと同様に、情報の依存性は身を滅ぼしてしまうこともあります。

本などの静止したものからの知識を得る情報は必要ですが、SNSやサイトなどの日々目まぐるしく変わる激流のような情報からは、場合によっては身を隠す必要があるのではないでしょうか。

SNSに上がる見た目には華やかな世界も、実は創り上げられた幻想のときもあります。

また、本当のことであったとしても、その人が努力して創り上げた世界だともいえます。

簡単に手に入るものは、簡単に失ってしまうし、価値も感じられなくなる。

若いときにバイトして毎月時間をかけて貯めたお金で買ったものは、今でも忘れられないけれど、大人になって手に入れたものは目の前にあっても覚えていないこともある。

本来の人間の感じるモノの価値って、金額よりも「かけた手間」なんですよね。

人生という懲役を満喫する

住めば都、地獄の釜も慣れればぬるま湯、監獄だって我が家と思えば天国です。

この世の地獄を毎日送っているひとも、なぜ生きているのかを悩むより、生きるしかないことを楽しむ開き直りを持ちましょう。

誰かを不幸にしてしまった、という自責の念がある人は、相手が違ったとしても最低同じ人数の人を幸せにするために悩もう。

お金がなくとも時間はあるし、時間がなければ充実してるということだ。

うまくいかない毎日はゲームと同じ、クリアするために試行錯誤することを楽しむしかない。

神様が与えた天命なんてだいそれたものは無い、懲役みたいな人生だったとしても、もったいないから悩む時間を捨てて、楽しむことを忘れてはいけません。

無理ゲーのクソゲーでも、やり込んでいくうちに自分だけの楽しみ方を知ることもありますよ。

また、無駄な情報を遮断して、自分だけの時間を生きるために、あえて自らそんな環境にしてしまうことも、時には有効な方法です。

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